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からめとる。
 
  長く細い人差し指は空に流れるような線を描いた。微かな波線が空間を裂いていく、柔らかに、静かに。滑らかな動きを見つめているうちに、心地よくなってしまった。少女は息が漏れぬように唇に押し当てていた両掌が、離れてしまっていることに気づかずにいて、固く結んでいた唇さえ軽く開いてしまっている。
 夢心地に見つめていた指の動きは止まった。減速してなだらかにその地点で止まる。
 しばらくそこに留まっていた。
「紫」
 低い声は空気を乱さない。染みとおり、紫の耳に渡る。それは空間に揺らぎを与えない。男が生み出す空気の揺れは、ごく自然でその場の一部となって溶け込む。
 ここで異質なのは紫と呼ばれた少女の存在のみ。何にも溶け込めずに、ただその息を殺すことで『在る』ことだけを許されていた。
 音を立てるなといわれていた紫は、名を呼ばれてもその約束は忘れなかった。ただ、気が抜けてしまっていた自分に気づき、あわてて唇を結ぶ。男の目がこちらを見つめている。まるで咎められているようで、紫の柔らかな頬は見る見るうちに赤く染まってしまった。だが男には、そのようなことはどうでもいいらしい。
 指先の微かな動きで呼ぶ。それを少女は見逃さない。紫はゆっくりと立ち上がり、男の隣に立った。視線をあげて、落ち着いた藍色の瞳を伺う。
「話しても構わない」
 そう言った男の声は、小さなものであった。だから、紫もそれに習うことにする。
「分かりましたか?」
「嘘ではないな」
 男と少女はある岸壁の前に立っていた。まわりはうっそうとした森であり、人々の住む領域からは随分離れている。狩人でさえ足を運ばないだろうところだ。且つ、巧みに気配を隠されていて、常人ではこの岸壁さえ見つけることができないだろう。
「では、ここに不老不死の……」
「期待はするな。気が違うだけかもしれない」
 男はそう言って、髪に編みこんでいた赤い珠の飾りを取り、岸壁の側にある木の枝に括りつけた。
「私は入るが」
「入ります、もちろん」
 紫は拳を握り締めて、主張する。それに微かな苦笑を浮かべて、男は再び岸壁に向き直る。
「……行くぞ」
 こくりと頷く紫を確認して、男は再び手を空に向けた。ゆっくりとそれは空気を切り裂いていく。紫にはその軌跡が見えた。裂き、剥がれた気の層の裏にぽっかりと大きく口を開けた黒い闇がある。
 何者の存在も歓迎しない空気を裂いて、男は躊躇なくその闇に足を向けた。一歩入ったところで何かを思い出したように振り替える。男の後を追って恐る恐るながらに足を踏み出そうとしていた紫は、怪訝な顔をして師を見つめた。
「お師様?」
 ついっと自分の目の前に男の細いが確実に逞しさを湛えた手が差し伸べられた。それにつかまってよいということに気づくのは、しばらく経ってのことである。いいのですか、と目で問う紫に、男は唇を少しゆがめただけであった。
 恐る恐るその手を取ると、しっかりと握り締められる。その力強さと暖かさに紫は頬を赤らめた。
 自分がその力でからめとってしまった男と「不老不死」を求めて旅をするのは何度目か。
 もう3年ほど一緒に居るが、いつまでたっても紫はこの男に触れることに慣れない。
 そう、初めて共に不老不死を求めて行った地で、思わず彼にしがみついてしまったときも、この暖かさは同じだったような気がする。今よりも笑ってくれず、ただこの自分にからめとられてしまったことを不本意とするような仏頂面ではあったけれど。
(お師様は優しい……)
 迷わず足を進める男に従って、紫はその手をぎゅっと握りしめた。
 2人の後姿は闇に消え、そして剥がれ落ちた空は収束して行った。その後には岸壁の冷たさだけが残っていた。
 まとわり付く空気の重さに、紫は思い出す。3年前も同じようなところをさまよった。あのときは……。
 自分の手を握る男の手を見つめる。
 こんな風に手を引いてくれることは決してなかった。

 
 
 
 
 その地は、都より北にあった。都の守護の壁を抜け、一日ほど歩いたところ。誰も近寄らない山の奥に、その力は感じられた。暗闇とまとわり付くような湿気、安定しない足場に、閉塞感。すべてが感覚を鈍くさせていた。
 少女は早足で男を追いかけた。男は歩みを止めず、振り返ろうともしない。置いていけるなら置いて行きたい存在なのだと、少女は感じていた。
 男と出会ったのは3日ほど前。母の元を去り、しばらくの間宛も無くさ迷い歩いた。
 しかし何かに引き寄せられるように近づいた都で出会ってしまった。出会った瞬間に、自分の力でこの男を束縛してしまった。
『何故』
 少女に向けたのか、自分に向けたのかはっきりしない言葉を男は呟いた。明らかに自分よりも巨大な力を持った男だった。男には断ち切ることが可能である。だが、男はそうしなかった。そのことに気づいて、戸惑っていたのは少女の方だ。何故と、聞きたいのは自分であった。
『何を望む』
 そう聞いた。聞いてきたので少女は答えた。答えるしかなかった。
『永遠の命を』
『お前が?』
『いいえ。母が』
『それでどうする?』
『鬼になる宿命から逃げるのです』
 男は意外そうな顔をした。
『鬼では、ないのか?』
『いいえ。母が死ねばなるのです』
『逃れるために、苦しめるか?』
『母の願いでもあります』
『そうか……』
 それきり黙りこんだ男を、少女はしばらく見つめていた。
『末恐ろしい』
 呟きの意味はそのとき、分からなかった。男は少女の額に人差し指を当てた。
『封じる。その姿でおられては、私が狂う』
 少女は今の姿になった。実際の姿よりも年は10も幼く見え、その瞳の力もわずかなものとなる。
 何故、生かしてくれるのですとは聞けなかった。聞けば殺されるような気がしていた。男の気まぐれで生かされているのだということを、少女は感じていた。
 否、殺されたくなかった。しばらくはこの男と共にいたいと思ったのだ。
「あの……」
 恐る恐る少女は声をかける。拒絶した背中に、声をかけ、そして思わず言いたくなった。「嫌わないでください」と。背中を向けられると泣きたくなった。
「あの!」
 男はようやく足を止めた。振り返る。その顔に何の表情も浮かんでなくても、振り返ってくれるだけで嬉しくなる自分が居た。
「どうした」
「……少し、休憩しませんか?」
「……」
「お疲れではと……余計なことでしたか……」
 男の藍色の瞳はとても冷たい。透き通っていて美しいのに、何故こんなに冷たいのだろうと少女は思っていた。美しいから冷たいのだろうか。
 男は大きく息をつくと、岩壁に手を着いた。しばらくそのようにしている。それを不思議そうに見つめていると、男は不意にこちらを見た。反射的にびくりと体を震わす少女に、男は小さく呟く。
「こちらへ」
「……あの」
「……こちらへ来い」
 少女は恐る恐る男に近づいた。と、男は少女の肩に手を置く。触れられたところが一瞬熱く感じた。本当に一瞬だけだった。次の瞬間には男が肩に込めた力に従って、少女はその場に座り込んでいた。ふわりとした感触を足元に感じる。少女は柔らかな苔の上に座っていた。
 この水気に支配された空間にそんな場所がよくあったものだと感心し、少女は口元に笑みを浮かべて、自分の座っている苔の感触を楽しんだ。男は少女と反対側の壁に寄りかかっている。ふと男が掌を差し伸べた。
 ふっと何か空気が揺れる音がした。それと同時に男の掌に明りが生まれる。よく見ると、男が髪につけている赤い珠から明りが付いていた。
「水気が多い。早くこの明りに気づけばよかった」
 独り言のような言葉が自分に向けられていることに気づいて、少女は男に視線を向けた。わずかな明りで浮かび上がる男の顔。その美しい作りに影が落ちて、一層幽玄の美しさを醸し出していた。
「い、いえ。大丈夫です」
「暗いのは苦手か」
「いえ」
「そうか」
 そう言って男は沈黙する。少女は首を傾げた。
 印象が和らいだ。
 言葉を交わしたからだろうか? 自分の方へ何かを遮るように張られていた壁が緩くなった雰囲気がしていた。
 それ以上の言葉を繋げることはなかった。ただ沈黙。そして、衣擦れの音。そのほとんどが自分が身動きするたびに生み出されるものだ。ふと、男が顔を動かした。ほんのささやかな動きであった。ぐっと差し出していた手を握り締め、明りを手の内へ隠してしまう。
 急速に満たされる緊迫感に後押しされるように、少女が立ち上がった。
「何ですか」
 声をあげた少女に向けて、男は指を自分の唇に当てて静寂を命じた。少女は肩をすくめて、自分の口を両手でふさぐ。しばらくして、男は空気のような声で言った。
「主だろう」
 ぬし。少女がささやかに呟いた。男は少女の前へ立ちふさがり、その緊迫感がゆるりゆるりと近寄るのを待つ。
 幾時かかったのか。その緊迫感は薄絹を重ねるかのように徐々に徐々に積み重なってゆく。さらりさらりと音の無い感触だけを空気に孕ませて。
 男はぴくりとも動かず、少女もその場に凍り付いていた。
『はて、さても珍しき』
 朗々と響く声を、少女は自分の内から聞いた。空気が震えたが、それは耳に届く声ではなかった。ぎゅっと拳を握り締める。どこかに意識を集中していなければ、おそらくその場に押しつぶれていたであろう。
『通れたと? ……ほう、人ではあるまい』
 姿はない。ただ、声が近づいてきている。やがて衣のすれる音が前方の闇から聞こえてきた。
『人ではあるまい。あるまいな。
 ほほ、面白い。
 お前と妾は同じ? 
 ふむ、同じではあるまい……だが似ている』
 男はふと手を出した。指の間から光が一瞬だけ漏れて、前方の者の影を映し出した。長い髪、白い衣、赤い唇。一瞬だけ浮かび上がったが、ぱちりとはじける音がして、男の手から光が失われる。
『姿を見せる必要があるかどうかは、妾が決めることではないか?』
 姿は見えぬ。だが、声は女の声。ときおり薫るのはこれまで嗅いだことがない香だった。どの香と聞かれても答えられない。少女が悩んだ挙句に答えを出すなら、死人のと答えただろう。腐臭ではない。ただ、蓄積する沈黙の香、表現するならやはり死人であろう。それが一番近いのだ。
『珍しきこと。足を運んだ甲斐というもの。つまらぬものなら八つ裂きにしてやろうと思っていたが』
「何用とは聞かないのか」
『ほほ。それこそ無粋。
 不死を求めたものだけが、ここへたどり着く。不死を求め、それに相応と思われるものだけが、この深遠へ足を運べる』
「相応?」
『だが解せぬな。お前はもうその端を掴んでいるではないか。そこの娘……の用向きか』
「不死とはなんだ」
『……これは、なんとも答えにくきこと。否、答える必要はなきこと。妾が答えぬと決めれば答える必要はなきこと』
「与えることは可能か」
『……さて、その答えを言うには、妾もまた不完全なもの。お主がわからぬことに、妾が答えられるはずもない』
 男は黙り込んだ。少女は両手を握り締めたまま、ついっと男の後ろから前へ進んでみた。
「あの……」
『ほうほう。何じゃ?』
「あなたは不老不死なのですか?」
 目の前の存在は一瞬黙りこくったようだ。そして、ふと笑い声を漏らす。
『ほほほ。単刀直入な。なるほど……この気を前にしても声を出せるが強き証。その男が囚われるのも無理がないこと』
「あのぅ」
『ほう。妾が不老不死か? さてさて、その答えは妾も未だ出せずにいる。誰もそうだとは言わず。さりとて、死を未だ知らず』
「……えっと、じゃあ、何年ぐらい生きてらっしゃるのですか?」
『ほほ、それには答えられそうじゃ』
 女の声は一度止んだ。そして、しばらくしてぽつりと落ちる。
『女に呼ばれた。まだ、この王朝などない時代よ。1000ほど年は尽きたか』
「どうしてそんなに長生き出来るんですか」
『さてさて。お前の求む答えがあるか』
「お薬とかあるのですか?」
『ふむ。それには否と答えよう』
「そうなんですか……」
『しかし、ないとは言い切れぬ。それは不老不死とは違うものであっても……』
「えっ」
 女はそのまま黙りこくる。ぱたりと扇が閉じるような音が何度か繰り返された。
「どうしたら、死ねる」
 男がぽつりと呟いた。
「死ねるのか」
『死ねような……』
 女が答える。
『だが、それは選べぬものよ。お主にその端はつかめても、その選択の淵にさえ来ておらぬ』
 更更と衣擦れの音がまたはじまった。今度は遠ざかっていく。
『久方ぶりの興、楽しかったぞ』
「どこかに、それを終わらせるものはあるのか!」
 男の声に、女は答えず。あきらめかけたときに、ぽんっと音が振ってきた。
『あろう』
 
 
 
 
 
 
『あろう』
 その言葉に真実があることを信じて、男と少女は「不老不死」というものを求め、この国のあらゆる場所へ足を運んだ。
 3年。
 少女は男の手を握り締めたまま、その月日を思い浮かべる。
 あのころと、いまと「不老不死」を求める心というものが同じかと聞かれると戸惑う。
(贅沢、だなぁ)
 少女はそう思いつつ、空いている手を唇に押し当てた。
 幸せだから。
 手と手を繋ぎ合わせるだけでも、この瞬間だけでも、とてもとても……。
「紫」
 ふと低く響く声。自分の名の響きが、とても上等で美しいものに感じる。
「はい」
「思い出さないか」
 はっと少女は顔を上げた。
「もしかして、お師様も3年前のこと思い出していたんですか? すごい! 私も同じこと考えてたんですよ」
「……何故喜ぶ。不審だと思わないのか?」
「不審? えっ、もしかしてお師様、手を繋ぐと相手の心が読めたり……?」
「紫」
 男は足を止めた。浮かれた少女の気と、男の静かな気は交じり合うことがなく、やがて少女の気が落ち着いて空気に溶け込んだ。
「えっと……。3年前と同じような感じがします」
「そういうことが言いたかったんだ」
「……お師様。あのとき、一箇所だけ乾いた苔が生している場所、見つけましたよね? あれは……」
「不自然だっただろう。あれだけの湿気を帯びた洞窟内で、そこの部分だけが乾いて」
「あの、お師様」
 少女は壁に手をついていたが、おそるおそると男に顔を向けた。
「ここにも……」
 男はふと先を見つめた。紫もつられるように目を向ける。
(同じような感じがしますね)
 それは先ほど自分で言った言葉だと、少女は思った。思いながら、一つの可能性を手繰り寄せていた。それはきっと男も手繰り寄せた答えだ。
「まさか」
 自分と男。どちらも手繰り寄せた答えが、間違っているとは思えなかった。しかし、少女はあえてその言葉を呟いた。それは護るために。
「主」
『またかえ』
 響いた言葉。その声は、紛れもなくあの3年前に聞いたものと同じもの。且つ、その響きには奇妙な親近感があった。
『また来たかえ。また、小娘もつれて。ほう……本当に囚われたらしい』
「黙れ」
「違うところですよねっ」
 少女が思わず声を上げ、男の冷たい視線で黙らされる。ただ、その女はそれを聞いて愉快そうに笑っていた。
 さざめく。洞窟を響き渡る。
『そうとも違うえ。じゃが、よほど好きと見える。のう?』
「辿れば着いた」
『そうさな。そういうものよ。おそらく、妾がもっともお前の求むる物に近い物』
 女の気配はすぐ側まで迫っていた。だが、明りはつけなかった。
『何か掴んだか?』
 笑みを含んだ声で、それはそう聞いてくる。男は首を振っただけだ。
「今まで出会った不老不死は、すべて偽りだ」
『そうな』
「本当にこの世に永遠の命などあるのか」
『では、お前もいつかは終われよう? お前も妾も、いつかは終われような?』
「永遠の命は得ることはできない?」
『生かすのであれば、殺さねば』
 笑みが深まったと感じた。その言葉の響きに居心地の悪さを感じたとたん、紫の体の奥から寒気が沸き起こる。
『死ぬのであれば、生かさねば』
「どういうことだ」
『……一つの繋がりよ』
 ぱちりと何かが弾ける音がして、男の持っていた赤い珠がぼうっと明りを帯びだした。
 主の足元が光に照らされる。真白い素足に、脈が浮き出ていた。その白い足を包むような白い着物。
『我の顔を見たいか?』
 ずっとその光は、男の意志と反してゆっくりと上へ上がっていく。白い手、締められた帯、ふくよかな胸、着物のあわせ、白くとがった顎。そして、赤い唇。
 すっと女の手が誘うように男の方へ伸ばされる。
 男は息を呑んだ。そして、一歩足を踏み出す。
「お師様」
 焦ってその手を掴み寄せる。だが、男は静かな目を紫に向けた。
「正気だ。しばらくそこで待て」
『何もせぬ。伝えたいだけだ』
 紫は師の目に力強い光を認めて、手を離した。男はすっともう一歩だけ女の方へ歩み寄る。
 女の手が男の頬を滑った。
『わかるか?』
 白い指が男の唇をなぞるようにすべり、そのまま鼻梁を添って額に触れた。
『わかるか? 名も無き者よ』
 ぬるっと空気が動いた。そう思ったとき、光の中へ女の顔が浮き出る。紫は息を呑み、震えぬように止めた。男は動じず、目の前の女の顔を見つめる。
 眼窩にある光無き目。黒い塗りつぶされたような目に、男は目をかすかに細めた。
『呼ばれ、留められ、そして、食うた』
 低く言って、女は顔を傾ける。男の両頬を両手で包み、間近で暗い瞳を見開いた。
『食ろうたであろ……?』
 男は間近にある女の顔から目を離さなかった。暗い深淵を覗き込むような瞳。ただ、静かに見つめていた。
 紫はその様子をそのまま食い入るように見つめていたのだが、その間震えが止まらなかった。
 遠い。
 胸が苦しくなる。
 紫は胸を強く抑え、そして、目を瞑った。
 お師様が遠い。空気とその存在が遠い。
 あの女と一緒にいるお師様は、異質なものだ。
(嫌だ!)
『わかるか……』
 女は重ねて聞き続けた。
 男は答えない。
 紫は拳を握り締め、そして、心の中で叫んだ。
(行かないで!)
 びくりと男の体が震えた。
 自分の頬に触れていた女の手に、男は手を重ねた。
「記憶はない」
 そして、その手を外させる。女はうつむいて、くつくつと笑った。
『心地よい気じゃ。お前はやはり私と……同じ』
 ならば、と呟き、女は笑う。重く、笑う。
『いつかは、終われよう……。だが、そのときは選べぬ。呼ばれ、その身を口にし、繋ぎとめられ、そして時と繋ぎとめたものの気のむくままに生かされ、そしていつかは』
 女の手は男の頬をするりと撫で、再び闇へ溶け込んでいく。
『殺されるのだ』
「その身とは」
『甘美』
「覚えてなど」
『では思い出すがよい。何に呼ばれ、何を口にし、そしてなお、お前は何を求めているのか?』
 ずるり。
『しかし、お前の端を持つものは今まだ嘆きの中にあり。お前は私よりも……縛られ続けよう……。この世に』
「お前を! 繋ぎ止めるものは……?」
 女はふと笑みを深めた。赤い唇だけが脳裏に残る。遠いものを見つめる男に、紫はそっと寄り添った。そして、その裾に手をやり、握り締める。だが、男は消え行く女の残影を追っている。
「名を。主」
『与えられぬ』
 暗闇にその言葉は、残った。
『我もまた、与えるものを持たぬもの。奪い、奪われ、ただ待つのみ。あれが来ることを』
 その言葉を最後に、女の姿も気配も音も消えてしまった。
 暗闇の奥で、水音がかすかに響いた。
 その何もなくなった暗闇を、男はずっと見つめていた。
 そして、紫はその男の側にただ立っていた。男の見つめる先を同じように見つめ、そして、その表情を伺う。
 その表情はさらに男を遠いものにしていた。
「お師様……」
 呼んでもぴくりとも動かない男に、紫は小さく声をかける。
「帰りましょう……」
 そして、本当に男がその場を後にするまで、黙って側にいた。側にいて、側にいることを教えることしか紫にはできなかった。
(なんて、遠い)
 この人は遠い。
 自分が捕らえたものなどほんのわずかなものだ。
 だけど、捕らえていなくては。一生懸命に、側にいて、捕らえておかねば。
 
 他のものに、獲られてしまう。

 

【終】

 
>あとがき
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