チリン。
混濁を抜けて降ってきた音に、男は飛び跳ねるようにして起きた。目の前に目を丸くして覗きこむ少女を見て眉を寄せる。
その瞳は、桔梗の色によく似ている。桔梗を嫌いだと言った女……。
混濁した記憶。目の前の少女の名前をゆっくりと取り出して息を吐いた。
「むらさき……」
「お師様、顔色が」
小さく柔かな手を頬に感じ、男は目を閉じた。
「どうなさったんですか? 悪い夢でも見ましたか?」
「夢か」
お師様と呼ばれる自分を思い出した。夢の中呼ばれた懐かしい称号を意識の底へ沈めた。
気まぐれに捨てた声と熱さ。
しなやかな肢体。
閉じこめたはずだ。朽ちるまで、解けぬ迷宮に。
「夢だな……」
目の前の少女に微笑みながら、夢という言葉の曖昧さに救われた。ここにこうしてある暖かさが、現実。
「お師様、変ですね……。そんな風に笑われると……あの、まだ寝ぼけて?」
顔を赤くしてたじろぐ少女をじっと見つめる。
捕らわれたことを後悔した時期もあった。振りほどけば解けたのだ。この少女を殺せばいいだけのこと。
だけど、敢えて捕らわれたままにしている。酔狂だと誰かに言われたかったのかもしれない。
だけど、今は……存在の意味が変わった。
ふと男は空を見上げた。
「紫。月が」
「ああ、本当に」
1人で縁に出ようとする小さな体を、引き寄せる。簡単に均衡を崩して、少女の体は男の腕の中に治まった。
「お師様、変ですよ? すっごくこわい夢だったんですか?」
背中ごしにこちらを見ようとする少女。男はそのまま月を見上げた。
「……だな」
自分の腕の中で、少女の鼓動がどんどん早くなる。その鼓動を負うと気持ちが落ち着いてくる。自分の腕の中にある暖かさが心地よいことを、初めて教えてくれたのはこの少女だった。
何故か心が掻き乱されていた。だから、落ちつく……。ここちよさを感じる。
だが、と男は眉根を寄せる。
捨てた対象を思い出すなど。そして、一瞬でも哀れに思うなど……。
いつだってそうしていたのだ。飽きたら、捨てる。それでよかったのだ。
「紫、楽にしていいんだぞ」
さっきから腕の中で強張ったようにしている少女に、そう声をかける。
「そんなこと、出来ませんよっ」
「もたれていいんだ」
少女は少し探るように男を見つめ、そして言われるように力を抜いて男の腕に頭を寄りかからせて、月を見つめた。
「お師様。邪魔になったら、いつでも言ってくださいね……」
男は目を見開く。考えていたことを見ぬかれたのだろうかと。だけど、今の話だということにも気づいた。
邪魔に思う日が来るのか?
男は少女の頭に頬を寄せる。美しく滑らかな髪の感触を愛しいとも思う。
お師様と呼んでくれる声を、今はまだ失いたくない……。
目を瞑り、香りを吸う。甘い香りはおそらく、魅了の鬼としてうまれた少女の持つ香りなのだろう。
ひとときの静寂を破る無粋な音がした。紫がふと顔を上げる。
「門です。どなたか来客が?」
「確かに、何かあれば来いとは言ったがな」
舌打しそうな男の声。だが、動く気配も紫を行かせる気配もない。
じりじりとして紫が男を振りかえろうとしたが、男はそれを許さない。諦めて、前を向いたまま問いかけた。
「どうなさるんですか?」
「放っておけばいい」
「でも」
門を叩く音はただことでない切迫した音をしていた。
「でも、お師様」
男はしばらく考える。一つ大きな破壊音がして、さすがに男の手が緩まり、紫を放して立ちあがった。途端にそちらへ駆けて行こうとする少女を男は止めた。
「紫!」
「でも、お師様」
「気づかないか? お前、これが人の気配だと?」
紫は男を見つめ、そして気配を探るように眉をひそめた。そして首を振る。
「わかりません」
上ずった声に重ねるように男は言う。
「ここにいろ」
「お師様」
不安そうにこちらをみる少女。不安は少女が自分自身に感じているものではなく、目の前の男へのものだ。男は髪をかき上げて、溜息と一緒に言葉を吐き出す。
「……来るならついて来い。だが、私の前には立つな」
「はいっ」
男は扇を拾い上げ、ひとまず門の方へ向かって行った。足を進めつつ、髪につけた赤い石を一つ取る。それを手の中に入れ、息を吹きかけた。
とことことついてくる紫の気配に意識をやり、廊下の角を曲がったところで、男は呟いた。
「少将……」
1人の男が庭に仁王立ちしていた。背にある木っ端微塵となった門の残骸と少将の鬼気迫る顔が重なる。その身から発する只ならぬ気は、赤黒さを持って視覚に現れた。靄のような気が草花に触れると、とたん鮮やかな緑が失われて行った。
「花が」
紫が思わず上げた言葉は、完全に場違いなほど重い場が作られていた。
血走った目と青筋の立った額。髪は乱れ、汗ばむ頬にへばりつく。そしてその手に握られた一振りの太刀。
その先から赤い物が落ちるたびに、辺りに死臭が漂う。男は頭を抑えた。
その香りは、昔のことを思い出させる。
『召し上がったらよろしいのです』
ねっとりとした女の声が耳を撫でる。
『この血も肉も』
全てが貴方様のもの……。
「あれが、雅な殿方ですか? お師様」
少女の声が、男の周りを囲んでいた死臭を吹き払い、額を貫いて正気へ戻す。
男は彼女に悟られぬように息を吐き出し、吸いこんだ。
「雅だった、だな」
紫の言葉に平然と聞こえるように答えつつ、男は扇で口を隠した。
「確かに何かあったら寄れとは言ったがな。あまりにも無粋ではありませんか? 少将殿」
目の前の男は答えない。開かれた口からは、不気味な息と涎が垂れ落ちる。
死臭ならぬ腐臭が広がり、男は不快感に眉をひそめた。
「共はお連れにならなかった?」
少将は答えなかったが、男は彼を見つめつづけ、ふと洩らした。
「……食われたな」
その言葉が合図だったかのように、奇声を発し、少将は突然太刀を振りかぶりこちらへ向かってくる。
「下がれ、紫!」
「はいっ」
少将は跳躍した。人では無い力がその身を高く上げ、美しい月と重なる。男は目を細めた。落ちてくる白人をさけた。耳を劈く音と共に、縁の一角が粉々に砕ける。
男は唇に笑みを浮かべた。少将は横に飛んだ男にすぐに身体を向け、飛びこむ。白刃をさけ、男は少将の懐に飛び込んだ。先ほど右手に落とした赤い石を彼の額につける。
「シ」
少将の左耳に唇を近づけ、男は囁くように言った。少々はびくりと身体を震わせたが、がむしゃらに腕を振り払う。男は身を返す。少将はその意識を男からその様子を見守る紫へ向けた。紫がその視線を受け、身体を震わせて立ち尽くした。
男はその間に身を入れる。そして指を少将の額につけた。
じゅっと焼けた石を水に入れたような音がし、少将が悲鳴とも怒号ともつかぬ声をあげる。
「カエレ」
男は空気に美しく染みこむような声でそう言った。とたん、少将の体から力が抜け落ちる。その身体を支えるようにして抱き、男はゆっくりと彼を床に寝かせた。
彼の額につけていた赤い石を、ぐっと握り締めて紫を振りかえる。
「お師様ぁ」
情けない声と共に男が見たのは、その柔かな首に光る短刀をつきつけられ、羽交い締めされている紫の姿だった。
拘束しているのは、紫より頭一つ分高い背の子供。少女と見間違うような顔立ちに、男は一瞬迷った。来ている衣の色と形は少年のものだ。そして、その気を探り、すぐに目の前の子供が人で無いことを確認する。
闇に深い黒色の髪を、ぎらぎらと光る黒い瞳の上にふりかからせ、紫を羽交い締めしながら、男を睨みつけている。
肌は発光するかのように白い。その身につけている美しい衣と、その少年の持つ野生じみた殺気が不均衡な空気を作り出していた。
紫が捕らわれた状況とは言え、男は溜息にも似た息を洩らす。
「紫、お前は……」
「すみません……」
「こいつを殺されたくなかったら、俺と一緒に来てもらおうかっ」
声がわりもまだといった高い声でかみついてくる少年を見て、男は気だるそうに髪をかきあげた。
「数日前から、こちらを伺っていたのはお前か?」
「うるさいっ。質問してもいいだなんて言ってないぞ」
「私も、問いに対する答え以外の言葉は、聞きたくない気分なのだが」
「こいつを殺されていいのかっ」
鼻で笑って、男は腕を組んだ。
「……あと2年待つべきだったな。生まれたばかりの赤ん坊が。操った人間で奇襲するなど、下等なやり方しか分からないのだ。私の隙をついて侵入した術は褒めてやってもよいが……。さぁ、答えろ。誰がお前を倦んだ」
気負いだけはある少年の茶色の瞳に、再び奮起するような光りが戻った。
「痛いっ」
紫が目に涙を浮かべる。少年の手に力が入ったのだ。
白い首にうっすらと朱線が入った。それを見た途端、男の目に剣呑とした光が灯る。
「……愚かなことを」
少年は息を呑んだ。男には聞こえてなかったが、紫にはその音が恐怖に震えるような音に聞こえた。よく見ると少年の手が震えている。それを紫の冷静になってきた意識が捉えていた。
「忠告してやろうと思ったが……遅かったな」
男は少年のほうへ一歩踏み出した。足音は立っていないのに、どすりと床が揺れた気がした。
少年はそれに気圧されるように一歩下がる。
「どうした? ついて来いといっただろう?」
「近寄るな」
男はうっすらと笑った。紫はそんな男の表情と、自分の目の前にある少年の手の震えを見比べる。
「来いと言ったり、来るなと言ったり……」
男は髪に手をやって、赤い珠を一つ掌に治めた。
「つまらない口だ」
ひっと少年の喉がなった。そして、少年は何度も口を開くが、それはすべて声にならない。
「紫」
「はいっ」
名前を呼ばれて少女は、はっきりとした声で答えた。紺色の暗い瞳を覗き込んで、あっと声をあげる。
「わかるな」
「……わかります、けど」
紫は自分の目の前の細い手を見る。震えている。
そして、その少年の息遣いに意識をやった。途切れ途切れの音。
泣きそうな、繰り返し。
お師様がこの少年を殺すのは容易い。だって、もう、こんなに気で縛っている。
「お師様、でも、この子」
男は紫の真摯な目を見つめた。
「この子、きっと、こんなことやりたくてやってるんじゃないと思います。だって、まだ生まれたばかりなのに。こんなに怖がってるのに」
「だから、どうした?」
男は低い声で、少女に問うた。その目は、少女の知っている男の目ではない。
「殺しちゃうんですか?」
「……お前は何がいいたい」
うんざりだとその言葉に含まれた響きを感じながら、少女はひるまない。
「どうして、生かしておかなくてはならない?」
少女は紫色の瞳に涙を溜めていた。
そして、おもむろに大きく息を吸う。
「お師様のお馬鹿!!」
目の前の男が一瞬目を見開いた。
紫は少年に刃をつきつけられていることも忘れて、身を乗り出す。
「おかしいです、変です! もっと、お師様は優しいはずです!
少なくとも事情も知らないままで殺しちゃうなんてことしないはずですっ!
もっとこの子の言うこと聞いてあげたらいいじゃないですかっ!
突然目の前に現れて、ちょっとこんなことしたからって殺すなんて、お師様らしくないですっ」
男は紫の言葉を聞きながら、不快そうに眉をひそめた。
「紫、何もお前が……」
「私は生かしてくれてるじゃないですかっ!」
紫は涙をぼろぼろとこぼした。何故泣くのか、紫自身にもよくわかっていなかった。だけど、目の前の男が自分の知らない人のようで、そして、冷たい瞳と言葉が自分に向けられているような気もしていた。
「私だって殺せばいいじゃないですか……!
そうしたら、お師様、もっと自由に、生きることができるじゃないですか。こんなところで、こんなことしてなくてもっ」
そして、そのまま紫は泣き出してしまった。
今、こんなところで言うことじゃなかったかもしれない。そばにいつもあった不安が、言葉になってしまった。
お師様は自分をこのまま殺すかもしれないと紫は思った。だけど、それは当たり前のことなんだと受け入れていた。
お師様は、自分よりも力をもつものだから。気まぐれで、今の状態を許してくれている事も、よくわかっていたから。
「お前は……」
しゃくりを上げる少女の声に重なって、男の困惑した声が振ってくる。紫は涙で濡れた目を上げた。
苦笑を浮かべた藍色の瞳が、こちらを見下ろしている。
「殺されかけているというのに」
溜息混じりの声に、優しさが含まれていて紫は微笑む。
「ごめんなさい。お師様」
無言で差し出された手を、紫は握り締めた。そして男は紫を抱えたままの少年に視線をやる。
「はなせ」
少年はぴくりと動いて、紫を離した。解放された紫を、男は自分のほうへ抱き寄せる。そして、少年をもう1度見た。
「助けてやる。紫に感謝しろ」
そう声をかけられた瞬間、少年はその場にへたりこんでしまった。そして、ぼうっとした表情で男を見上げている。
「あんた……俺に聞きたいことないのか?」
「あるな。……話すのか?」
少年はぐっと唇を噛み締めて男を見上げている。男は何も話さない少年に対し重いため息を落とした。
「帰れ。そいつを片付けてな」
這いつくばった少将を顎でしゃくってから、男は紫をつれて館の奥へ足を向けようとした。
「帰るところなんかないっ!」
少年の甲高い声が男の足を止めた。少年の方向のわからぬ怒気を含んだ目を見て、男は責めるような視線を紫に向けた。
「あいつは何を言っている」
「多分、あの、あの……」
「……抱えこめと?」
「……ごめんなさい。お師様」
紫がしおらしく謝ると、男は振りかえった。開き直ったように胸をはって、少年がこちらを挑むような目で見ている。
「俺はあんたをある人の元につれてくるようにって、言われたんだ。ただ、それだけのために生まれてきたんだっ。
帰るところなんてないねっ」
「中途半端な雑鬼か、お前は……」
その言葉を屈辱と捉えて少年の顔は怒りでますます紅潮したが、男にはささいなことだ。
「ただの捨て駒だったわけだ。目的は私に……」
男は少年を見つめる。白い肌。そして、その瞳の強さ。それをよく知っていた。
この腐臭とあの声。
「思い出せといいたいわけだな」
紫も少年もきょとんとした顔をして男を見た。男は額に手をやって、しばらく考えこむように目を閉じる。
「……庭にでも棲め。あの松の木をやる」
「なっ」
「破格の待遇だ。庭番でもしていろ。餌は自分で獲って来い。だが、食事はここではするな。一応常識人で通っているんだからな、私は。人の腕など転がっていては迷惑だ」
最後の言葉に紫は少しだけ頭を傾げたが、男に悟られるようなことはしなかった。
「紫を敬え。お前の命の恩人だ。本当なら、殺してる」
言葉とともに送られた視線の冷たさに、少年は身体の底から這い登る寒さを感じた。
「それから、お前に名前をやる」
男への敵対心が消せていない少年だったが、その一瞬だけ期待感を持った目で男を見つめた。
「松葉(まつは)」
藍色の目が一瞬細められ、その瞬間少年は背筋をぴんっと張り、硬直したように動かない。
「お前を飼ってやる」
そう囁いて、男は紫を連れて館の奥へ入って行った。その後姿が見えなくなるまで、松葉と名付けられた鬼はその場に立ちすくんでいた。
その足元に転がっている血塗られた少将からは、いつしか穏やかな寝息が聞こえてきていた。
「松葉さんっ」
紫と呼ばれる少女が縁に座って声をかけてくる。松葉は松の枝に寝そべったまま視線だけを、少女に向けた。
「……なんだよ」
「遊びましょうよ」
少女はキラキラとした目を松葉に向け、傍らから大きな箱を取り出した。
「双六、したことある?」
「ないよ。どーせ生まれたばかりのお子様だからな」
「教えてあげるよ。やろうよ」
と、人の意見も聞かずに嬉々として用意し始める少女を見下ろしながら、松葉は口を開いた。
「ありがとな」
ぽつりと呟いたつもりが、思ったよりも大きな声になってしまって、松葉は赤面する。その上、紫の不思議そうな瞳と目が合った。
「あの」
「ありがとなっ! 俺、お前がああやって言ってくれなかったらあいつに殺されてた。……いくらなんでも、生まれて1ヶ月も経ってないのに殺されるなんて、嫌だからな……」
松葉はそう言ってから、紫にちょっとだけ笑った。
「でも、お前が言うこと聞くなんて、よっぽどあいつお前のこと好きなんだな」
その言葉に、紫は困ったような笑みを見せる。
「違うんだよ。あれは、お師様の気まぐれだよ」
「そうか?」
「お師様がその気になったら、私も松葉さんも殺されてるんだよ。別に、お師様は私の言うこと聞いてくれたわけじゃないと思うよ?
だから、感謝してもらうことないの。それに、ただのお節介だったかもしれないし」
「そんなことねぇよ! 感謝してる」
松葉の視線の先で、紫が満面の笑みを浮べた。その瞬間、松葉の心臓の鼓動が早まる。
(うわっ)
おもわず心臓を抑える松葉に、紫は心配そうな視線を向けた。
「松葉さん? どうしたの? 体調悪いの?」
「いや、別に……」
「あ、待って! 薬湯作ってくるね! 待っててね」
「あ、おいっ!」
松葉が手を伸ばして制止しようとしたが、紫はぱたぱたと館の奥へ駆けて行ってしまった。行き場の無い手をゆっくりと落として、松葉は松から飛び降りる。
正直言って、少女の言っていた「双六」というものには並々ならぬ関心があったのだ。
そのまま、そっと縁まで寄っていった。そして、その板のようなものを覗き込む。
「おもしろいのかねぇ……」
興味を抑えきれない声でそう言った彼の上に、影が落ちてきた。紫がきたのだろうかと期待を持った目で見上げると、そこにはあの藍色の瞳があった。
そのまま固まってしまう松葉の前で、男は扇を唇に乗せる。
「松葉」
底冷えする声だ。松葉は後ろに下がろうとして失敗した。ただ、気負いで男を睨み返すのが精一杯。
「なんだよ」
「お前を倦んだのは……女だな」
強いはずの藍色の瞳が、一瞬だけ弱まった。松葉はそれを見逃さない。そこが男の弱みをつつく綻びかと思い、嬉々として答える。
「あんま覚えてないけどよ。そうだと思うぜ。綺麗な白い手と指。そして、なんか、なんつーか……」
松葉はふと考え込むようにして首を傾げた。
さきほどまで男をやりこめてやろうと思っていた気が薄れる。
「吐息……? 俺が覚えているのは、それと……。あんたの匂いだけだ」
「匂い」
「随分変わっちまってるけど、本質は一緒だぜ。それを辿ったんだからな」
「そうか」
男はそう言うと、身体を反転させようとした。それだけなのかと拍子抜けしてしまい、いつのまにか松葉は言葉を重ねていた。
「そいつって、あんたの過去の女とか?」
何故か目の前の男の気を引いてみたくなって、そういった。男は振りかえらず、館の奥へ足を進める。両手で後頭部を支えて胸をそらしながら、ムキになって言葉を重ねた。
「紫に言っちゃおうかな」
ぴたりと男の足が止まった。松葉がそれに乗じてもっとからかってやろうとした。だが、男は一瞬振りかえり、そして落ちついた声で言う。
「あれには言うな」
ただその一言。その一言だけ残して、男は流れるような所作で奥へ足を進めた。
残された松葉は目を丸くしていた。
「なんだよ、あれ」
ゆっくりと手を下ろして、松葉は男の消えた先を見ていた。
胸に広がるもやもやの正体を掴めずに、松葉は胸をぐっと押さえた。やがて近づいてくる少女の軽い足音に、切なささえ感じながら……。
【終】
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