現と現で無いものの間に架かる上に一滴の水が落ち、その音と波紋がゆっくりと広がって行く。
月の光さえも望めない夜に、白く長い指が何かを招く様に宙をうごめく。白くひらひらとそれは揺れ、そこから仄かに発した光が青白い軌跡を生む。
ほう。
落とした息の分だけ、そこに存在が倦んだ。
だが誰も気付かない。気付かない様に、そこに倦んだ歪みはゆるりと空気に紛れこんだ。
長い廊下を滑るように歩むその後姿に、女房達は御簾の隙間から溜息を洩らす。本来ならこのような場所にいることの許されぬ身分の男だと噂されていた。そんな男が御所中の女房達の注目を浴びる事が可能になったのは、薬師としての腕と表現し難い美貌のなせる技なのかもしれない。ときにその目に帝をしのぐ気高さを持った光が宿る。それゆえに、忍びやかに彼の血をさかのぼれば帝に通じるという噂もたった。そうでもなければ時折感じる孤高の気高さの源を探ろうとする者が多く現れただろう。
彼の血筋の真実はともかく、今は主上のお気に入り、その肩書きで十分であった。代々薬師を務めてきた者を遠ざけ、どこの馬の骨ともわからぬこの男を毎日の様に御所に呼ぶのを、もはや咎める者もいない。
主上の念をはかるために、彼を保護しようとする輩もいた。おかげで彼は住む所から着る物まで、普通の殿上人と同じように……否、それ以上に不自由する事はなくなったのだが。
勿論、彼を保護したいと思う理由はそればかりではなかっただろう。
「薬師殿」
女房達は彼の後姿からしばし目をはずし、彼を追う様に現れた者に目をやる。そして、またほうと溜息を洩らすのであった。
「薬師殿!」
2度呼ばれてようやく彼は立ち止まった。そして、涼やかな仕草で振り返る。烏帽子もかぶらず、結うこともせずに伸ばしたままの髪さえも、彼であるからこそ許されるのか。その髪に結ぶようにつけられた鮮やかな紅の玉が冷たく光を反射する。
「これは藤の少将様」
自分よりも遥かに位の高いものに、彼は気安く声をかける。だが、藤の少将と呼ばれた若者は少しも気にしていないようだった。普段人から「あれで上手く世を渡って行けるのか」といわれるほど人が良い。そこまで言われながら、彼がここに居ることが出来るのはその家柄のせいでもあろう。
今朝廷で煌く藤家。3男とはいえ、内親王を妻に迎えており(内親王の一目惚れだったそうだが)、その将来を確約されている人物だ。だからこそ、人が良いのかもしれないが。
その人柄をそのまま表した笑顔を向け、少将は薬師の目の前で止まった。少し目じりが下がった目……少将は、その優しい顔と心根で女房達の憧れの君でもある。もう北の方が決まっているということは、何の障害にもならない。
「今日はお早いお帰りですね」
「調合した薬は、充分足りていたので」
「主上もあなたに会いたいがために、何かと理由をお付けになる」
少将はくすりと笑った。そして、薬師を見上げる。
「藤の少将様は私に何か用が?」
笑顔に笑顔を返す事もなく、さきほどからの無表情を変わらずに向けて彼はそう言った。
「ええ……、薬師殿はお聞きになられましたか? 大橋に出る鬼のことを」
少し上ずった声で少将はそう言った。薬師は無表情のままだったが、よくみれば眉が少し動いたのがわかっただろう。
「大橋ですか。鬼が」
「ええ、薬師殿が住んでらっしゃるのはお近くですね」
「少将様、私めにそのような言葉を使わなくとも」
「そうですか? つい癖で……気にしないで下さい」
少将は閉じた扇を唇に当て、またくすりと笑う。
「お聞きで無い?」
好奇心一杯と言う様子でこちらを見つめる彼に、男は眉一つ動かさずに言った。
「初めて聞きました」
薬師はゆっくりと歩みはじめる。ついて行く様に少将も歩み出した。
「今夜、楽殿の者たちと見物に行こうと申しておるのです。薬師殿もいかがですか?」
「私も誘って頂けるのですか?」
「ええ、せっかくならば大勢の方が楽しいではありませんか。今宵は満月でもありますし」
「せっかくですが、その満月でありますから」
含みを持たせた視線をやると、少将は扇で口を覆う。隠されない瞳が笑んだ。
「隅に置けぬお方ですね。
……栓なき噂をよく耳に致しますが、どこまでが本当なのか」
「噂ですか」
薬師は目を細め、唇を歪める。秀麗な微笑みに流石の少将も見惚れかけた。
「どのような噂でしょう」
流れるような声に、少将はふと笑みをこぼす。
「しらばくれるのがあまり上手でないようですね。それとも、それもわざとですか」
「人の裏を読むことは似合わないお方ですね」
たしなめられたと少将は感じた。それで話題を変える。
「薬師殿のところに見目麗しい少女がいると」
少将はぱちりと扇を鳴らした。
「娘さん、ですか?」
「……娘ではありません。あれは弟子です」
「そうですか。あまりにもかわいらしいので、いつかと言うものがおりましてね」
「いつか?」
剣呑とした光を、さすがの少将も見逃さなかったらしい。せわしく扇を開いたり閉じたりすると、すこし慌てて話題を変えた。
「いえ、ああそうだ。そうですね。せっかくの満月の夜ですから、二人きりでの月見もさぞ楽しい事でしょう」
「ああ、少将様」
「はぁ」
「何かあったらお寄りになってください。これでも薬師ですから」
「は、はぁ」
逃げる様に去っていく少将の後姿を見つつ、薬師は開いた扇で口元を隠した。
「わざわざ見に行くとは酔狂なことだ」
見に行くなとも言えないが、何かあるぐらいは言ってやった方がいいのかもしれない。
ここ最近、不愉快で仕方がない。気配は小物なのだが、意識の先が向けられているようにも感じていた。
いつ何が起こるか分からないでいたので、夜歩きも出来やしない。その状況を楽しんでいる娘はいるのだが……。
「お師様、今日もお早いお帰りですね。今日の夜のご予定は?」
嬉々としながら悪気も無くそう聞く(いや、悪気と言うよりも含みは多少感じられるのだが)少女の可憐な紫の瞳を見つつ、男は溜息に似た返答を返す。
「ない」
「ではこちらで?」
「そうだ」
「ふふふー。今日は満月ですもんね」
頬を少し赤らめて、嬉しそうに微笑む少女の仕草は、恐らく常人が見れば即魅了されるものだっただろう。その姿形が年端も行かぬ少女だとしても、魅了の鬼としての武器は隠せぬものであろうか。
「今日は早く寝る」
「ええーっ。お酒を用意しますよ。お月見しませんか?」
「しない」
「……そうですか」
先ほどの嬉しそうな表情が一転する。その変わり目を楽しみつつ、男は屋敷の奥へ足を進めた。
「ここ最近、どこにも行かれないので……やっと、と思ったのに」
ぽつりともらす少女の呟きに、男は唇を歪めた。それは苦笑であったのかもしれない。
「お前、昼間寂しいのか?」
「えっ?」
意外な男の言葉に、紫は驚きを隠せなかった。
「1人だろう? 寂しくないのか?」
紫は男の気遣いへの嬉しさを隠せない揺るんだ口のまま、首を振った。
「そんなことないですっ。お師様、たくさん絵巻物も下さってるし、それを見てるだけで随分時間が……。そ、それにっ。庭のお花とか手入れしたり、ときどき食材を買いに出たり……。おもしろい書物なんかもありますし」
男はぽんっと紫の頭に手を置く。紫は思わず涙が出そうになって、あわてて目をこすって誤魔化した。
「お師様のお帰りを待つのも楽しいんですよっ」
男はそんな紫にとくに言葉をかけなかったが、しばらく優しい目で彼女を見下ろしていた。そして、ふいっと視線を手もとの扇にやる。
「今日、客が来るかもしれない」
「お客様ですか?」
「そうだな……酒は用意しておけ。あとは、薬をな」
「くすり」
「そうだな、切り傷か……。呪いなら薬も役に立つまい」
「……どういう類のお客様ですか」
訝しげに首を傾げる少女に、男は普通に答えた。
「宮中でも評判の雅な男だ」
「ふうん」
少女は興味無さそうにそう相槌を打つと、男の脱ぎ捨てる狩衣を慌てて拾った。男は近くの柱にもたれ、ある程度整えられた庭を眺める。懐の扇を手持ち無沙汰に取り出し、唇に当てた。
「紫」
「はい?」
「……いや」
「どうなさったんですか? やはり御酒を今すぐ! ご用意致しましょうか?」
「月見には早いぞ」
「いいんですよ。月が出てなくても。お月見してるということだけで楽しいではないですか」
「そういうものか」
「そーゆーものなんです」
紫は嬉しそうに笑うと、待っててくださいねと言って奥へ入って行った。
二人で暮らすには十分過ぎる広さをもった家。藤家縁の貴人に用意させた代物である。勿論、その本人はその事実さえも忘れた……否、忘れさせられてはいるが。
今夜辺りか。
つつかなくていいものをつつく。それが人間と言うものか。
まぁ、いい。せいぜい利用させてもらおう。
唇に当てた扇を左手に落とす。
淀んでいる。空気が。
その淀みは方向を持ち、こちらを伺っている様でもあった。その淀みを絡めて、こちらへ引出すのはそう難しい事では無い。だが、男はそれをしないでいた。
腕に絡めては離す。それを繰り返しながら、自分の記憶を探る。さて、この悪意はどれが源となるものなのか。心当たりがありすぎたが、逆にどうでもよいような思いもしていた。
少女の軽い足音が聞こえてきて、男はそちらへ顔を向ける。
(困るのは、これを巻きこむかもしれないということだけ)
目の前に杯と瓶子を置いて、少女はにこにこと笑った。
「どうした?」
杯を持つと、少女は待ってましたとばかりに瓶子を傾ける。その顔に満面の笑みが浮んでいて、男はそう聞いた。
「嬉しいんです。お師様とこうやって月を眺める事ができるなんて、なーんて雅ぃなんでしょう!」
「月は出て無いがな、まだ」
雅と言う意味を知っているのか? と言いかけたが、辛うじてそれは止めた。
お師様は細かい事気にし過ぎです! と笑いながら憤慨する少女を横に、男はその場に寝そべった。
「お師様?」
「少し眠る。月が出たら起こしてくれ」
はぁ、と不満そうに答える紫に苦笑して、男は目を閉じた。目を閉じながら、この屋敷にかけた術を探りなおす。
どこにも綻びのないことを確かめていた。
何かが触れば、鈴の音が鳴るであろう。自分へ向けられる悪意は自業自得ともいえるだろうが、この小さな少女がいる以上無防備でもいられない。
まぁ、いざとなれば1番強いのはこいつだろうが……。
杯を行儀悪く箸で叩く少女の残像を瞼に残しつつ、男は意識を手放した。
闇だ。
一つだけともる明かり。
闇に、明かり。否、白い……肌?
肩を抱いて、小さくうずくまる人。
白い肌に、まとわりつく黒髪は、脈のような線を描いていた。
私が誰だか知っていらっしゃるでしょう。
はらりと黒髪が落ちた。
血の味も、肉の味も、知りながら……。
『お恨み申し上げます』
お捨てになる……。
『お恨み申し上げます。お館様……』
黒髪の間から、刺すような光が漏れた。眼球。
涙。
紅の唇。
囁きから蠢く塊。倦む塊。
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