きぃっと遠慮がちにイクロは木で作られたドアを開けた。さすがに少し空気が冷たくなったので、いつまでも外にいるわけにもいかないと、ファイの住む小さな家にしぶしぶ帰ってきたのだけど。
暖炉の側の椅子にファイは座り、タウの姿が見えなかった。
(なんで、よりによって居ないのよ!)
タウが側に居れば、まだ自分を保てると思ったのに……。肝心のタウがいない上に、ファイが扉の開く音に気付いてしまった。
こちらを向く瞳と自分の瞳がぶつかって、イクロは思わず肩を震わせてしまった。何かを言わなくちゃならないと思いながら、何も言葉が出てこない。
罵声でもなんでもいいのに。『その言葉』と『その思い』意外ならなんでも……。
イクロは思わず自分の胸元を軽くかきむしった。茶色の瞳に頼りない光が灯る。
ファイも何も言わない。ただ、落ちついた目でこちらを見てるだけだった。
変わってない。昔と全然変わってない。大人っぽくなった。翼が無くなった。でも、あのときの印象と変わってない……。
どうして、とイクロは思った。声にならず、心の中で叫んだ。
イクロは中に入り、扉を閉める。そして、その場に立ち尽くしてファイを見ていた。
どうしたらいいのかわからない。立ち尽くして、動けないイクロにとうとうファイは声をかけた。
「寒かっただろ」
声をかけられた瞬間、時間が流れたような気がした。ファイが黙って空を出て行ったあの時から今までの時間が流れて、イクロの頭に戻ってきた。
「全然!」
つんっと顔を逸らすイクロに、ファイはまた苦笑して、タウが座っていた椅子の横に新しく椅子を設置した。
「こっちに着て座れよ」
「いいわよ」
「強がるなよ。イクロ」
名前を呼ばれてイクロは逸らしていた顔を、ファイの方に戻した。ファイは頬杖をついて、こちらを見ている。赤茶色の瞳に笑みを浮かべ、少しだけ手を動かした。
「おいで」
イクロは注意深くファイから目をそらしながら、暖炉の側に寄った。腰をかけると、緊張感が緩んで思わずため息をついてしまう。
「やはり寒かっただろう?」
笑いを含んだファイの声に、イクロは首をぶんぶんと振った。
「タウは?」
噛みつくように、そして、近くでファイの目を見ない様に聞くと、ファイは少し笑ったみたいだった。
「外、イクロを探しに行ったけど。会わなかったんだな」
(馬鹿……)
小さく罵っておいて、イクロは暖炉の炎を見つめた。
ぱちぱちと暖炉の中の木が音を立てる。
揺れる炎と暖かさが、イクロの意識を遠く遠くへ飛ばしはじめた。
ファイが空から出た後、私はどうしてたんだろう?
しばらくは歌を歌う事さえ忘れてしまって、ずっと空を眺めていた。
美しい青。地上よりも遥かに青に近いところが、私の大好きな場所だった。
だけど、ファイはそれを捨ててしまった。
それが、悲しかった。自分も一緒に捨てられてしまったんだと思った……。
「元気、だったか」
ファイが遠慮がちに声を掛けてくる。イクロはなぜかそれがすごく腹立たしくなってきた。
元気?
元気だったって、それをファイが私に聞くの?
忘れて、元気にならなくちゃって頑張ってたのに、また目の前に現れて、こんなに気分をぐしゃぐしゃにしておいて?
「元気じゃなかった」
ポツリと彼女は呟くと、両膝を抱え上げた。思わずこぼれた本音に、閉ざそうとしていた心が溢れ出てしまう。涙目になったのを見られたくなくて、椅子に小さく縮こまって暖炉を見つめた。
「イクロ……」
ファイの声が優しいのが気に入らない。困ったように自分の名前を呼ぶのが許せない。
「会いたくなかった」
イクロはそう呟いてしまって、そして泣きそうになった。
嘘だ。会いたかった。
会いたかったけど、会いたくなかった。
イクロは、ファイを睨みつけた。勢いをつけて振りかえり、亜麻色の髪がぱっと広がる。
「忘れてたのに。ファイだって、忘れてくれてたらよかったのに!」
嘘だ。
本当は、いつもどこかで引っかかっていた。
「空を捨てたんだったら、記憶だって捨てちゃえばよかったじゃない!」
こんなこと言いたいわけじゃない。だけど、止められなかった。
会えて嬉しいとか、そういう言葉は身を潜めて。
だけど、どれも真実。
「なんでこんなところにいるのよ! 地上って広いんでしょ? だったら知らないところに居てくれたら良かったのよ!
私は会いたくなかった。一生懸命忘れて、忘れれそうなのに、思い出して。それを繰り返して!
どうして、こんなところで会っちゃうのよ!」
イクロは膝に頭を押しつけた。
汚い言葉が、溢れ出て言葉になっていく。
きっと歌にしたら風は運んでくれないだろうけど。この地上では違うんだろう。どんな言葉も、響きになって溢れて届く。
そっと、目の前に影が落ちた。イクロの前にファイがしゃがみこみ、両手を肘掛においてイクロを覗きこむ。
「ごめん」
イクロは膝に額を押し当てたまま首を振った。謝って欲しいわけじゃない。謝るぐらいなら、開き直ってくれたらいいのに……。
「でも、俺はいつか空から出ていってた。
どうせ、出て行くなら、早いほうがいいと思ってたんだ」
イクロは俯いて、ファイを見ようとしない。だけど、ファイは続けた。
「俺の思いはずっと地上に向かってた。
そんなんじゃ、イクロを幸せになんて出来ないってわかってたから」
「私がまだ子供のうちに、出て行けば大丈夫だと思った?」
イクロは涙でうっすらと濡れた瞳を上げた。
「子供のうちの思いなんて、すぐ忘れると思った?」
ファイは何も言えずに、イクロを見ていた。ただ、視線を逸らさない事が、精一杯の返答だった。
「小さくたって、大きくたって大好きだった」
イクロはぐっと涙をこらえる。濡れた瞳を右手で擦り、左目でファイをにらみつけた。
「好き、なんだから……」
小さく、それでも強くイクロはそう言いきると、俯いてしまった。軽く唇を噛み締めて、泣き出さないようにするのが精一杯。
『好きなんだから』
その言葉に苦しそうな顔をしながらファイはイクロの元を離れた。タウと同じようにイクロにお茶を入れてやる。
それを無言で受け取り、イクロはカップを両手で持ったまま茶色の液体を睨みつけるように見つめていた。
二人の間に重く落ちる沈黙をやぶったのは、勢い良く扉の開く音だった。
「イクロいないよ、どうしよ……あ。イクロ」
タウの元気の良い声が小さくしぼんだ。重苦しい空気に気付いたのか、少しだけ顔を傾げる。
「どうしたの?」
「なんでもないわよ。タウの馬鹿」
イクロが小さく呟いた。
「なんだよ、イクロ!」
イクロに近づいて、少し憤慨するタウを見上げて、イクロは持っていたお茶を側のテーブルに置いた。
「馬鹿だから馬鹿って言ったのよ。何度でも言ってあげるわよ。馬鹿馬鹿馬鹿。タウの馬鹿」
「イクロの……!」
馬鹿と言いかけたタウは凍りついてしまった。イクロが急に手を伸ばしてきて、タウに抱き着いてきたからだ。
「イクロ……?」
すがりつくように抱き着いてくるイクロに、タウがとまどったように声をかける。
「タウの馬鹿……」
小さく呟くような声が聞こえて、タウを抱きしめる腕に力がこもる。タウは行き場のない両腕を、落ちつきなくイクロの背中に回した。
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