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◇
町の様子は記憶とは随分違っていて、ランとエノリアはあの魔物の発生がもたらした破壊を、目の当たりにしていた。
町に落ちる闇が、徐々に周りの空気に重みを付けていく。心なしかユセの歩みは速い。ユセに気付いた住人が、軽く会釈する様子をランは目の端に捉えていた。ラルディの手綱を持つ反対の腕の袖が引っ張られる感覚を感じて、そちらへ目をやる。
「……酷い、ね」
エノリアはそう呟いた。おそらくランの袖を掴んでいるのも、無意識なのだろう。その手を見つめて、そして、視線を周りへ送る。
弔いの香りが色濃く残る町の静けさに、自然と眉根が寄せられる。
「ああ」
もしも、と考える。このまま何もしなければ、このような状態が増えるのだろうか。
均衡の崩れたこの世界が向かうのは、このような世界なのか。
創造神《イマルーク》が蘇り、この世界を創りかえるまで。
(俺に何が出来る)
創造神《イマルーク》を超えろだと。
そんなことが出来るのか。
それよりも。
(……俺が?)
無意識のうちに、視線は地面へ落ちていく。
セアラの赤い瞳を思い出して、自然と拳が握り締められた。
いつも優しかったわけじゃないのに、思い出すのは全て、微笑むような温かい眼差し。今すぐセアラに会って、何が本当で何が嘘なのか問い詰めたい。
だけど、きっと否定されても肯定されても、どちらも信じられないのだろう。
「……何故こんなことに……」
ぽつりと落とした呟きを受けて、エノリアが心配そうに伺っていることをランは気づかなかった。エノリアが切り替えるようにユセへ尋ねる。
「3日って言いましたよね? 3日しか経ってないんですか?」
「ええ。あなた達はどうしていたんですか?」
「魔物に襲われて、ターラ山に逃げ込みました。それからザクーに襲われて、崖から落ちた先に……。
多分、ユセさんが言ってた場所があったんだと」
「思う?」
「そこにたどり着くまでの記憶がないんです。崖から落ちて、目覚めたらそこにいたんです。
そこで会いました。調和神《ドゥエルーラ》に」
ユセはその言葉にしばらく何も答えなかった。
何かを考えるように唇を引き結んでいた後に、ぽつりと言う。
「会いましたか」
「会ったと言えるんでしょうか……。
でも、何日もそこにいたような。でも、夢を見ていたような気がします」
「『夢』ですか……。
そうか。だから、『3日しか』なんですね」
「あの……私たち、あの場所に確かに行ったんですよね?
何が、起こったんでしょう?」
「今、この時期にしかたどり着けない場所なのです。
私もそういうところがあると知っているだけで、実際に行った事はないんです。ターラと名づけられた場所ですからね。
存在が曖昧な場所です」
「曖昧な場所」
「あなた達だからこそ行けたんですよ。『彼』が会うことを望んでいたからこそ」
「望んでいた」
ランの呟きに、ユセは軽く頷いた。
「……見たのでしょう」
ランとエノリアはその言葉には答えなかった。
ランが何かを言いたそうにした後、押し殺すように眉根を寄せて俯いてしまった。
その表情だけが物語る。ユセは視線を落として、そのまま黙った。
宿に戻ると、少女がユセの元へ駆け寄ってくる。ランとエノリアを見て安堵したような、しかし、どこかおびえた様な顔を見せていることが気になった。
「ありがとうございました」
「ちゃんとわかってもらえたんですか?」
「勿論ですよ。御心配をおかけしましたね」
にこりと微笑むユセに、ようやく少女はかすかな笑顔を見せた。少女の視線を背中に感じながら、ランとエノリアは部屋へ入ろうとした。その前に、ユセが足を止めて少女を振り返った。
「しばらく、この部屋には近づかないでくださいね」
真剣な眼差しに気圧されして、少し逃げるように離れていく少女の気配と、この部屋から漂う異様な空気にランとエノリアはたじろいだ。
ユセは扉を開いた。滑り込むように二人は部屋に入る。寝台に眠るミラールを見て、ランはほっと息をついた。ユセがその後ろで扉を閉めた。扉に小さく何かを呟いてから、二人に向き直る。
「3日眠り続けています」
「3日……」
そう繰り返した後、弾かれたようにユセを振り返る二人。
「魔物に襲われたのか?! 医者には……」
ユセは眉を潜め、そっと手を上げてランの言葉を遮った。
言いよどむユセの様子とその表情に、ランの胸を計り知れぬ不安が押しつぶす。
「何が、あった……」
掠れた声に、ユセは極めて潜めた声を被せた。
「町を襲った魔物たちは、彼から解き放たれました」
「魔物……が、ミラールから……」
町から押し寄せるようにランたちも襲った魔物たち。これまであった魔物たちとは違う『物』だった。
「解き放たれた?」
ただユセの言葉を繰り返すだけの言葉。だが、ランはその意味を頭で理解することができなかった。
「私は彼を抑えるためにこうやって封印し、そのために彼は眠り続けています。
ラン。
貴方は彼のことを何か聞いていますか?」
「何か?」
「貴方達の養い親から、彼のことを」
「……何かだと……」
ランはぎりっと拳を握り締めた。
「……何かってなんだ!?」
「ランっ!」
エノリアの制止は間に合わなかった。ランはユセの胸倉を掴み、そのまま扉に叩きつける。大きな衝撃だったが、ユセは一瞬顔をしかめただけだった。
今まで抑えていたものを爆発させたランの憤りを受け止めて、ユセは自分の目の前にあるランの顔を冷静に見つめていた。
「ラン!!」
エノリアがユセを締め上げるランの腕に手をかけて、懸命に揺さぶった。だが、ランはユセしか見ていなかった。
「何か。何か。何か。
あんたは全部知ってんだろ!!
知ってて、あそこに行けって言ったんだろ!?
ミラールに起こっていることだって、あんた、わかっているんじゃないのか!?」
「ラン、止めて!」
「ミラールがなんでこんなことになっているのか! それだけじゃない!
この世界で何が起こっているのか!
セアラが何をしようとしているのか!
俺が何をすべきなのか!
全部わかってんだろうが!?」
「ラン!」
エノリアがランの腕にしがみつき、必死にその名前を呼ぶ。その間も、ユセはランを見ていただけだった。
「……私が知っていることは、この世界がどうあって欲しいか。ただ、それだけですよ……。
そして、知っているんじゃない。それは、私の願いなだけです」
「知らない?
じゃあ、なんであそこに行かせたんだよ!
何で、俺に! ……俺は……。
俺こそ……。
……何だ……」
ランはゆっくりと手の力を抜いた。ユセから手を離すと、ミラールの眠る寝台へ歩み寄る。その近くに置かれた椅子に座り込んだ。
「……ミラール……」
眠っているミラールの表情はいつもと何も変わらない。先ほどの勢いを一気に潜めたランの後姿に、手を伸ばそうとするエノリアを、ユセはそっと止めた。
「少し、席を外します。
……落ち着いたら、声をかけてもらえますか」
何一つ乱れのない落ち着いた声が、こんなにも腹が立つものだとは思わなかった。もう一度、叩きつけて、殴りつけて、壊してしまいたい。そんな衝動を抑えこんで、ランはその言葉に返事もしなかった。
気遣うように静かに締まる扉の音を聞いて、その場にうなだれる。
◇
暗い茶色の瞳。
あのときの瞳だ。
ミラールを無理に連れて遊びに行った森で、一晩彷徨い歩いた。
ミラールに高熱を出させて、セアラに叱られた日。
とにかく我慢して怒られて、一緒に怒られてたミラールに謝る代わりに言った。『また一緒に行こう』って。
そのときのミラールの瞳、とても暗い色をしていた。
なんで、今頃、思い出すんだろう。
『譲ってって言ったら、譲ってくれる?』
エノリアのことを冗談めかしたミラールの言葉。あのときも、その瞳をしていた。
明るく微笑むミラールの瞳。
いつも自分のことを見透かしているようだった。
いつもお見通しだというように微笑んでいた。
間違いを的確に指摘して、正しいやり方を示してくる。
真正面から否定されても、俺はそれが嫌いじゃなかった。
最後には笑っていた。一緒に笑えていた。
ミラールだけはわかってくれる。
そんな思いが常に側にあった。
それは自分の存在を肯定してくれる光でもあった。
だけど、どうしてだろう。
今思い浮かべるミラールの瞳は、どれもこれもが暗い光を湛えている。
俺は、何か、間違ったのか。
そう聞けば、ミラールは多分笑う。
穏やかに笑って、小さく首を振る。
……だけど、暗い瞳のまま。
『僕は剣士で、ミラールは音楽家だ』
小さいころの約束。
今は、それが、とても遠い。
とても、眩しい。
なぁ。ミラール。
俺は、『何』になれば良いのだろう。
◇
ランは、自分が目覚めたことを、ゆっくりと自覚した。そして、徐々に自分が寝ている場所とその状況を思い出す。
先ほどまで赤く染まっていた空は、しんとした暗闇に支配されていた。その暗闇を割くように月明かりが差し込んでいる。空を流れる雲が、月明かりを受けて不気味にうごめいているように見えた。
窓の月明かりを切り取るように、その影はあった。
寝台に半身を起こし、彼は、肩越しに月を見ていた。こちらからその表情は伺えない。
「……目が、覚めたのか」
問いかけに、ミラールは答えない。訝しく思いながら、ランは体を少し起こした。
「……体調は大丈夫か?」
「月が、とてもきれいだね。ラン」
重ねた問いかけに対して、まったく方向の違う答えが返ってきて、ランはただ、ああと声にならない息を吐き出す。
月を見たまま、ミラールは少し首をかしげた。
「あの晩も。月が見えてたかな。
暗い森。枝の間から、ときどき星明りが見えて。
君が舟を漕ぐ隣で、僕はそれを一人見上げてた。
綺麗だった。
眠る君を守っている。そんな誇らしげな気持ちを、錯覚でもいいから持っていたかった」
「……あの森か……」
「随分と時間が経っちゃった。
僕の一番大事なものも、君の一番大事なものも、あのころからは変わってしまったね」
ゆっくりと月から視線をランへ。ランはその視線を見ていた。月光が反射する。その、暗い、茶色の瞳……。
「ミラール」
「ねぇ、ラン。知ったの? 全てを」
映る憎しみ。そして、憎しみの先にいるのは自分。金縛りにあったように動けなくなった。
「全てって……なんだ」
ようやく言葉になった声。ランは自分の声に驚いた。
震えている?
見たこともない何かに向かい合っているような感覚に、体が震えた。
「ドゥエルーラやイマルークやセアラのことだよ」
「ミラール、お前、何か」
変だという言葉の前に、ミラールの唇が笑みを刻んだ。
「……知ったんだね……」
羽音がする。耳元で無数の小さな鳥が飛んでいるような音が、小さく響いている。ランは頭を振って、そして、ミラールを覗き込んだ。
「ミラール……。ユセがおかしなことを言うんだ。
お前の体から、魔物が……」
どくりと心臓が大きく震えた。
月の光を背後から受けるミラールの黒い輪郭が、もぞもぞと動く。
「魔物が?」
ミラールの声が一体どの方向から響いているのか。ランは無意識に首を振った。
「何かの間違いだろう?」
自分の声が小さく掠れていくのを、ランは不思議に思っていた。目の前で、ミラールが少し笑った。笑い声を殺し、そして、斜めにランを見上げる。
「僕は……永遠に辿りつけないものを追ってたんだよ。
僕の前にある君の背中は、手を伸ばせば届くって、少し駆け足になれば並べるって信じてた。
けど、それは間違いだったんだ。
君がすんなりと手に入れたもの。
僕には手に入れることができないもの……」
「ミラール?」
伸ばしかけた手を止めて、ランはミラールを見て息を呑んだ。
笑った。今まで見たことのない、暗い笑みだった。
「ユセは嘘なんてついてないよ。
僕は、人ではないもの」
羽音が響いた。ミラールの体から何かが解き放たれ、無防備だったランは突然の衝撃に跳ね飛ばされる。無数の鳥が、部屋を渦巻くように飛び出す。ランは壁に叩きつけられて、その場に崩れた。
額が燃えるように熱い。滴り落ちる血が右目の視界を奪った。寝台を降りたミラールが、ゆっくりとこちらへ向かってくる。
何が起こったのか。頭を強かに打ったせいもあって、ランの思考は付いていかない。
ミラール。魔物。ユセ。
『町を襲った魔物たちは、彼から解き放たれました』
何かって何だ。
ミラールに何があったって?
人ではないって。
「……どういうことだよ……」
ミラールの手が伸びて、自分の首を締め上げる。揺れたままの頭がそれを幻のように感知していた。だが、息苦しさが現実であることをいやというほど訴えていた。後頭部がじりじりと壁に押し付けられていた。ミラールの手には徐々に力が篭っていく。
ミラールの腕に手をかけるが、信じられないぐらい力が入らない。
唇に息がかかるほどの至近距離で茶色の瞳を見た。
知らない瞳だ。
……いや、知っている。
こんな瞳をするミラールを知っている。思い出したくなかっただけだ。
「セアラが君の事一番大事で、僕は二の次。いや、二の次でさえもない。
そんなの当たり前のことだったんだ。
だって、僕は、セアラに生かされてた人形だったんだから。
セアラの意志一つで、どうとでもなる人形だよ」
「……んなこと……な」
「ねぇ。ラン。
僕……、ずっと君になりたかったんだよ?
ずっと僕の前を走る、君になりたかった。
君にわかるかな……。ずっと君の背中を見て、君の影にいた僕の気持ちが。
君の背中に隠れた風景は、いつまでも見れやしないんだ」
「ミラー……」
「すごく辛かったけど……ど、僕は、君のことが大好きだったよ。
大好きで、大好きで、大好きで……。
今は、とても、憎いよ」
「手を……ミラー……」
「僕は、ずっと君の影だ。
いや、影にもなりきれない……ただのセアラの人形」
「……影、だなんて……」
「思ってないだろうね。
でも、それも気に入らない。
気に入らないんだよ……。ラン……」
「ミラ……」
「いっそ、あのとき、僕の目の前から永遠に消えてくれたらよかったのに。
置いていかれた絶望感になら、まだ耐えることができた。
君が帰ってこなければ、嘘でも、あの生活が続けられたんだ」
低い声でそう呻いてから、ミラールは顔を上げた。暗い瞳を向けられて、ランは何も言い返せなかった。
薄れゆく感覚の中で、ミラールの冷たい瞳が近づいてくる。
間近で見る瞳には、ランが向けられたことのない感情が宿っていた。
憎しみはこんな形で瞳に現れるのだと思った。
そして、それは真っ直ぐに自分に向けられている。
嘘だと思った。何度も心の中で嘘だと繰り返す。
唇に触れる温かい感触がランの意識を一瞬だけ鮮明にさせた。何をされたのか理解するのよりも早く、唇に激痛が走り、ランは床に投げ出された。大量の空気が肺に入り込んだ。吸い込む空気は全て血の味がしている。激しい咳の衝撃に耐えつつ、ランは自分を見下ろしているミラールを見上げようと、首を捻る。
小さな魔物が渦巻く部屋の中で、ミラールは血で赤く染まった唇を拭おうともせずにランを見下ろしていた。
「ミラール……」
「これは、貰っていくね。ラン……」
ミラールが握っていた手を開くと、そこにはランの剣の柄にはめられていた赤い石があった。
「僕はセアラに会いに行く。そして、セアラが僕にさせたかった、僕の役目を果たすよ。それだけが、僕の存在意義なら」
唇に滴る赤い血を舐めて、ミラールは微笑んだ。羽音が大きくなって、ランの体を再び衝撃が襲う。床に押さえつけられて、ランは声も出なかった。
「君は君の役目を果たしに来るといい。それまでは、待ってあげる」
手を触れずに解き放たれた扉から、小さな魔物たちは飛び去っていく。ランに背を向け立ち去ろうとするミラールへ、ランは薄れる意識と戦いながら手を伸ばした。
「……俺は……、お前がっ……」
息を吐き出せば咳き込んで、まともな言葉にはならない。
暗転していく世界の中で、ミラールが一度でも振り返ったかどうかは、ランにはわからない。
(気付かなかった。ミラールがあんな風に思っていたなんて……)
唇に残る一瞬の柔らかい感触。噛み切られた痛み。
心臓が鼓動するたびに、唇は痛み、血が溢れ出るように思えた。熱い。
肺から全身に巡っていくような血の香りに、ランは胸を掻き毟った。
幼い頃のミラールの笑顔。
それを塗りつぶす痛み。血の赤。
傷つけられたことよりも。
傷つけていることに気付かなかったことが、痛い。
(ミラール……。俺は、お前がずっと……)
残った闇は乱暴にランの意識から思考を奪い取って行く。
(ずっと隣に……)
頭の中を叫び声が支配する。怒りでもなく、悔しさでもなく、苦しみでもなく、悲しみから来る叫び声は泣き声にも聞こえた。
嵐が通り過ぎたような惨状の中へ倒れたランの姿は、異様なほどに月光に照らされ、白く浮かび上がっていた。
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