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    ◇
 
 どこをどう行けばいいのかわからないはずだった。それなのに、何かに導かれるかのように、ひっそりとした建物の中を行く無言のランの背中を追いながら、エノリアは辺りを見渡した。
 あのとき、あんなにも穏やかで明るく感じた空気や光は、心を押しつぶすような静寂さしか感じられない。自分たちの足音が建物の静寂を踏み荒らしているようで、罪悪感を感じた。
 夢から覚めたエノリアとランはこの静寂の中では異物でしかないのだろう。
 昔の記憶を繰り返していたドゥエルーラ。その記憶に支配されていたラン。ランに重ねられたドゥエルーラを見ていた自分。
 夢に支配された者だけが、ここにいることを許されるのだ。
 あの夢は、私がここから出た後に再び繰り返されるのだろうか。
 そう疑問に思いながら、エノリアは無意識に否定していた。
 もういいよって、ちゃんと伝わったかな。
 そんなこと言えるほど偉くもないけど……。
「エノリア」
 エノリアは俯きかけた顔を上げて、思わず目を細めた。
 ランはこちらを振り返り、真剣で、追い詰められたような顔を向けていた。
「何?」
 その表情にさわさわと不安が広がる。
「この先を真っ直ぐに行けば、外へ出る扉がある。……先に行ってくれるか?」
「まさかとは思うけど、私だけ?」
 少し低めの声で、軽く非難の意味を含めてそう聞くと、ついっとランは目を反らした。
「出来ればそのまま先に」
「わかってないわね。……また、心配しなくちゃならないの?」
 ランは唇を引き結ぶ。じぃっとそれを見つめるエノリアの視線に負けたというように息を吐き出した。
「少し寄りたいところがあるんだ。お前を一人にするのは、俺だって心配だけど」
「じゃあ、一緒に行くわ。『少し』なのでしょ?」
 ランは大きくため息をつくと、諦めたように頷いた。
「そうだな。そっちのほうが安心か……」
 ランは踵を返すと、再び建物の奥へ入っていく。
「ちょっと、どこに」
「姿見のある部屋を探してくれ」
 早歩きをし始めるランについていきながら、エノリアはランの言うような部屋を探した。
「ここか」
 エノリアが一つの部屋を大きく覗き込んだとき、反対側からランの声が聞こえた。ランが中に入るのを躊躇している部屋を、エノリアは後ろから覗き込む。
 石の壁がとても冷たく、上方に一つだけ開いている明り取りの窓以外には光が入ることのない正方形の部屋だった。その奥に大きな姿見があった。繊細な飾りに縁取られたとても古いが上品な趣のある鏡だった。
 明り取りからは、白い光が一筋入り込んでいた。その傾きから今が充分に太陽が昇りきった時間であることを察する。
 その光は床を真っ直ぐに照らしていた。その床には大きな丸い円が彫られ、円の中に端正な横顔が彫刻されていた。
 五つの花びらの花が五輪一緒に彫刻されていた。この花は見たことがある。カタデイナーゼ? カタデイキール……どちらだろう。
 そして形の良いカーブを描いた額には赤い石が嵌められている。
 その横顔を見ているうちに、エノリアの背筋を寒いものが走った。
「何なの、ここ?」
「俺がドゥエルーラに体を乗っ取られていた間、ドゥエルーラは鏡越しに俺に何度も話しかけていた。断片的過ぎて、おぼろげなんだが……。ここに来なくちゃならない気がしたんだ」
 そういうことじゃなくて……と、エノリアは再び床の彫刻を見つめる。その閉じられた瞼が、動きそうな気がして、エノリアは首を振った。
 ランはそんなエノリアの横で大きく息を吸うと、ためらう気持ちを捨てるようにして部屋の中へ入っていった。彫刻も気にせずにまっすぐに鏡へ向かう。思わずエノリアは止めようとしたが、彼女はこの部屋に入れなかった。何か壁があるわけではない。けど、実際にある壁よりも大きな隔たりが目の前にある。
 ランはエノリアが見守る中、鏡に手を置いた。
 ランは言葉を一つも発しなかった。だが、その背中は誰かに懸命に語りかけているようだった。どれぐらい時間が経っただろう。エノリアは入り口の端に手をかけて、自分の体重を壁に任せていた。その手の位置を変えて体制を少し治したとき、
「ドゥエルーラ……」
 囁くような声に、エノリアははっと目を見開いた。ランが向き合っている鏡に映っているのはランの姿のはずだった。
 だが、その長い髪は肩までしかなく、見つめている瞳は青かった。
 エノリアは声をあげかけて、自分の口を片手で覆った。
 鏡の中に映ったのは、エノリアが見知っているドゥエルーラの姿だった。ランの姿に投影された美しき調和神。
 ドゥエルーラはとても悲しげにランを見つめていた。
『資格も力も貴方にお返ししたはずです』
「俺は、違う」
『そうです。……本当にそうですね。
 貴方には酷な選択肢を与えてしまった』
 ランの頭から力が抜けて行くのが後ろからも分かった。だが、すぐに気を取り直したように顔をあげる。資格も力も返したとはどういうことなのだろう。エノリアはランの後頭部を食い入るように見つめていた。
「貴方は消えるのか」
『……私は戻るだけです。
 一切の記憶と思いを消して、この世界へ戻っていくだけ』
「その前に教えてくれ。
 貴方が見せたあの過去が本当なら……創造神《イマルーク》は、蘇れば確実にこの世界を滅ぼし、作り直すと思うか」
 ドゥエルーラは微かに頷いた。
「絶対に?」
『創造神《イマルーク》の意志と、私の罪と、この世界にかけられた呪いの先に、それは必ず起こるでしょう』
 ランは鏡に手を当てた。そして、額をつける。
「なぁ。……俺が消えれば、それは先送りにできるんじゃないのか? この世に生まれるイマルークの『器』を消していけば」
 ドゥエルーラは首を振った。
『貴方は、存在がなくなれば運命を変えられるからと、彼女に手を下せるのですか。二人目の太陽の娘《リスタル》に』
「それとこれとは違う」
 ドゥエルーラの瞳に、一筋の優しさが含まれた。エノリアは鏡越しに、その光を食い入るように見つめていた。
『私の落とした苦しみを背負う愛しい子。
 貴方は……可能性です』
 ドゥエルーラは目をあけた。
『均衡正しい世界を崩したのは私です。だから、この世界を創造神《イマルーク》がどうしようと、私に非難する資格はない。
 だけど、貴方は……貴方達は、この世界に生まれ、この世界で生きる者。ラン……貴方はこの世界をどう願うのです』
 ランは鏡に手を置いた。ドゥエルーラを覗き込む。
「世界を」
『……滅ぼしたいのですか。滅んでしまえばいいと思っているのですか。
 一掃して、創造神《イマルーク》に全てをゆだねるのも一つの手ではないですか?』
「確かに、そういう思いもあるかもしれないな」
 ランはドゥエルーラを見つめた。ドゥエルーラはランを見つめる。その光景を不思議な気持ちで見つめていた。
「だけど……俺は一人じゃないんだよな。
 たった一人だと思っていたけど、見守ってくれる人がいるし、ここまで育ててくれた人がいる。俺のために命を捨て、俺の罪を許し、そして、俺を……認めてくれる人がいる。
 それが世界だというなら」
 ランは苦しそうに首を振る。
「それを『世界』と言ってもいいのなら、滅んでほしいなど思わない」
 ドゥエルーラが急にエノリアのほうに視線を返したので、エノリアは目を見開いた。
「でも、俺は、セアラの手駒だ。
 あなたが見せたあれが本当なら、セアラは……『滅び』を望んでいる。そのために俺を……」
『赤い瞳の青年はこの世界を滅ぼす呪い。
 それは私の中の真実です。
 だけど、貴方の中の真実は違うはずです』
 ドゥエルーラの目は悲しみを隠すように閉じられる。
『[滅ぼす者]の響きを受けながら、生き続け、[器]という存在でありながら、貴方には確固なる意志がある。
 殺されるはずだった二人目の太陽の娘《リスタル》は、強き光《リア》を放ち続けている。
 そして、そこに導いたのは……』
 皆まで言わず、ドゥエルーラは再び瞳を開いた。
『貴方達はこの世界が許した可能性なのです。
 だから、私は貴方に夢を見てしまう。彼女に希望を見てしまう。
 貴方と彼女を悲しませるだろう未来を望んでしまう』
「悲しませる、未来?」
『ラン。
 あの人が得られなかったものを得て、あの人を超えなさい。創造神《イマルーク》を』
「超える?」
『貴方なら出来る。貴方は創造神《イマルーク》が得ようとしなかったものを得ている。あの人の手から離れたこの世界に、愛されているのは貴方の方だ。
 ……世界は変わったのです。そして、もう、私と創造神《イマルーク》は必要ないのです』
 鏡の中で微笑んで、ドゥエルーラは目を瞑った。
 その輪郭が、ランの輪郭に溶け込んでいく。薄れていくドゥエルーラの像に重なったランの瞳が大きく見開かれた。
「それは、ドゥエルーラ……。それは俺に創造神《イマルーク》を……!?」
 ドゥエルーラは目を細めた。頷いたようにも、ランの声に含まれた鋭い響きに痛みを受けたようにも見えた。
 ドゥエルーラの唇が微かに動いた。そして、鏡の中に映された姿が完全にランに戻ったとき、エノリアははっと気付いて近くの中庭へ駆け出した。
 
    ◇
 
 目の前に移っている自分の姿を、ランはただ見つめていた。
 ランが微かに右手を動かせば、鏡のなかの人物も同じように動いた。
 ドゥエルーラの意識は消えてしまった。
 ぱさりと何かが床に置かれる音がして、ランはようやく体を動かした。振り返るとエノリアが床に両手いっぱいの花を置いていた。
「エノリア?」
「ここ、お墓なのね」
 しゃがみこんでエノリアは床の彫刻を手のひらでさすっていた。そのときようやくランは床の彫刻に気付いた。端正な横顔は、確かにドゥエルーラの面影を残している。
 その額にはめられた赤い石を見て、ランは思わずじぶんの額に手を置いた。
「誰が作ったのかな……」
「気付かなかった」
 ランは今度は壁際を伝い、しゃがむエノリアの横に立って彫刻を眺めた。突然既志感を覚えて、眉間に手をやる。
「……これと似たようなものを、俺……見たことがある。いや、見たことはないか……」
 エノリアが不審そうな顔で見上げているのがわかった。自分でも言っていることがよくわからないのは分かったが、でも、そうとしかいいようがない。
「知っている」
 超えろと、ドゥエルーラは言った。その意味を考えれば考えるほど、一つの可能性に行き着く。
 ぎりぎりと拳を握り締める。
 セアラのこと。ドゥエルーラのこと。イマルークのこと。
 キールリアのこと。ナーゼリアのこと。
 頭の中をいろんな情報が駆け巡っていった。
 全てを放棄したい衝動に駆られて、それを抑えるために拳をにぎりしめる。
「ラン……」
 柔らかな感触が拳に触れて、ランは肩を震わせた。
 意識が急に自分の中へ戻ってきた感じがした。
「傷がつくわ」
 エノリアは立ち上がり、自分の拳を手にとって、その指をそっと撫でた。
「力を抜いて」
「エノリア」
 名前を呼ぶ。少し見下ろしたところにある髪の色は、もうほぼ金色になりかけていることに気付いた。
「何」
 彼女の指の細さに、柔らかさに、そして、慈しむように撫でるその感触に優しさを感じたとき、ランは自分の中にこみ上げてくる衝動が悲しさと寂しさだと知った。
 自分の手に触れる彼女の手を振り払って、その場に膝をついた。
 床の彫刻に手のひらを触れる。
 この場にエノリアが居なければと思った。そして、居てくれてよかったとも思った。
 そのまま身動きしない自分を、エノリアはどれぐらい待ってくれたのだろう。そっと背中に手を置かれて、ランは我に返った。
「帰ろう、ラン」
「エノリア」
「……今は、帰ろう。ね。帰ろう。
 そして、ちゃんと聞こう? セアラの思いを……予想して傷ついていても仕方がないよ」
「シャイマルークまで帰るってことか?」
「私達、ちゃんと向かい合わなくちゃ……」
 振り返るランを、金色の瞳が微笑んで見つめていた。
「ここまで来たら、あとは逃げられるとこまで逃げるか、それとも、とことん立ち向かうかだよ」
 頬に触れる手。エノリアは力強く頷いた。
「私はランから強さを貰ったから、だから、立ち向かう方を選べるわ」
 強いなと思った。
 そして、この光《リア》が今はとても辛かった。
 エノリア、お前はそう言うけれど、長くお前の側にいたいと思えば思うほど、俺は全てから逃げ出したくなる。
 いつまで、一緒に居られる? 
 創造神《イマルーク》が戻るまで? 創造神《イマルーク》から逃れることが出来ても、そのとき俺は……。
 そう思うと、急に胸が苦しくなった
 この手を取って、光《リア》を湛えた真っ直ぐな瞳を遮って、逃げられるところまで逃げようと囁いたら、お前は頷いてくれるんだろうか?
 俺についてきてくれるか?
 だけど、真剣な金色の瞳はあまりにも真っ直ぐだったから、ランはその一言を飲み込んだ。
 この真っ直ぐな美しいこの光《リア》を。エノリアを。
 守りたい。生きていて欲しい。笑っていて欲しい。
 愛している。
 何度も心の中で繰り返す言葉が、微かな光を搾り出す。その明りで心を照らしながら、ランは自分の暗い思いをねじ伏せた。
 
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