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IV 唇と血 |
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『愛している』とか、
『許すため』だとか、
よくこの口が言ったものだと思う。
退屈だった。
……それだけのことだろう?
「貴方のために」
生まれて直ぐに私の前に跪き、頭を垂れた男はそう口にしてから、私の表情を伺った。真っ直ぐに私の目を見、確認するように台詞を紡ぐ。
(貴方のために、それだけのために)
「貴方のために、それだけのために」
自分が考えた台詞そのままを口にする存在に、私は諾と答えた。だが、そこに含まれているのは満足とは程遠い失望だった。
世界を作り、光《リア》と闇《ゼク》を作り、娘達を作り出した。人々が生まれ、世界は喜びと安らぎに満たされた。
それをただ見守るだけの日々に飽きた。言葉を交わす相手が欲しかった。私の生み出したあの『存在』たちの中に加われば、このいつまでも満たされぬ何かが、満たされるような気がした。
だが、その代わりにこの世界を維持させるためだけの純粋な力が必要だった。
それは、ただの石ころでも構わなかったのだ。
なのに、『それ』に自分と同じ形と意志を与えたのは、何の気まぐれだったか。
『それ』が何かを起こすことを、期待していたのだろう。だが、『それ』は、私の意志を反映するだけだった。
意味がない。……否、意味は充分ある。だが、やはり意味はない。
満たされぬ。
創っては壊し、創っては壊し……。それを何度となく繰り返してきたが、何も分からない。
今度こそ、満たされると期待していたのだが。
私が思いを馳せなければ、身動きしない目の前の男。その瞳を見つめながら、ふと思いついた。
「名前を与えよう」
その言葉の先を待つ男の瞳の色は、青。この世界を取り巻く色の一番深い部分を切り取った色だ。
「ドゥエルーラ」
そう名前を与えた瞬間に、男の瞳の色が深くなった。
(聞こえなくなった)
切り離された。そう感じた。
そうか。名前か。
唇が緩み、笑みがこぼれた。
この世界に、自分が関わることのできないものが一つ出来上がった。
「ドゥエルーラ、我が弟よ」
それは自分と世界にこの男を縛り付けるための呪文。
「この世界の調和をお前に託す」
そして、種をまこう。
やがて名を持った意志は、自分の予測のつかぬ方向に転がりだす。
予測のつかない方向へ転がって行くがいいのだ。
私の気まぐれが及ばぬところへ。
速く……速く……。
そして、いつか……この思いが満たされる場所に。
◇
『幸せは与えられるものではないと思うし、与えることができると思うのは、少し傲慢じゃないかしら』
遠くから声が聞こえていた。
『だから、貴方は人々を見放したことにはならないのよ』
水底から見上げた太陽のように、ゆらゆらと揺らめいて美しく、そして眩しく。
手を伸ばしても、自分の指先は水面にさえ届かない。
その光の名前を知っていた。知っているのに声にならない。
自分の視界の前に広がる青が、水面に張られた薄氷のように邪魔をする。
『もういいの』
柔らかな慈しみと突き放す優しさに、この手は届かない。側にいて、見つめて、見届けて、そして守ると誓ったのに。
『そのために、愛さなければよかったなんていわないで……』
(泣くなよ)
何故、こんなこと言わせているんだ。
それこそ、お前のせいじゃないだろ!
『分からない。何が良くて、何が悪かったかなんて。
でも、これだけは、私にも言える。
この世界で精一杯生きている人がいるの。貴方の築いた『昔』の、延長線上にある『今』を、精一杯生きているの。
泣くこともあるわ。苦しむこともあるわ。
迷って、一歩も歩けない。重すぎて、全てを投げ出したくなる。
そんな思いだって、沢山ある。
……それがなければいいって思うこともある……。
でも、でもね……ドゥエルーラ様』
精一杯伸ばした指先は、薄氷に触れた。しびれるような冷たさに、眉を寄せる。だが、伸ばし続けた。
届け。届け、届け、届け!!
『そんなとき、支えてくれるのは……大切に思う心だわ。
私も、いろんなものを失くしたわ。でも、それ以上に回りに私を大切に思ってくれる人がいるの。
それを……愛だなんていうと、みんなはそんな大げさなことじゃないって笑うかもしれない。
私も少しくすぐったいと思うわよ。
でも、そんな思いに救われてきたのよ。
シャイナもザクーも言ってた『幸せだけある世界』って、……それはそれで素敵なのかもしれない。
全てから守られた世界は、居心地のよいものかもしれない。
だけど、強くない。人を大切に思うことって、その人を愛することって、強さをくれると思うの。
妬みだとか恨みだとか……そんな思いを生むこともあるけど、それを乗り越える力も与えてくれるわ。
人は、乗り越えることが出来る。時間がかかっても、乗り越えることが出来る。乗り越えると、強くなれる気がする。
本当に「生きる」ことができる。それは、「生かされる」ことではないの』
光が強く輝いている。自分にまで光を届けようとしてくれている。お前は、自分が太陽の娘《リスタル》であることを、いつまでも消えないしこりとして抱えていくかもしれない。
けど、お前の光はこうやって、青い薄氷を溶かしていく。
あそこへ辿りつかなければ。
大切な光《リア》のある場所へ。
『見て。今、生きている人たちを見てよ。
何が起こっても、人は選んで生きていける。その選ぶ強さを与えてくれたのは、貴方のくれた『愛する』力なのよ。
ドゥエルーラ様。
人は強いのよ。だから、この世界もきっと強いわ。だから……大丈夫。
大丈夫なの』
エノリア、君の元へ。
◇
冷たい水を潜り抜け、水面に飛び出したような感覚がした。
祈るように手を組み合わせた目の前の少女から、感じるのは大らかに包み込むような愛情だった。
今、どんなに優しく美しい表情をしているのか、きっと彼女自身は知らない。
夢中で彼女を抱きしめた。
溢れだす愛しい思いが、自分にそうさせていた。柔らかな体を抱きしめる。触れたところからじわりじわりと伝わる暖かさが、先ほどまで身を締め付けていた冷たさを和らげてくれる。
彼女の首筋に触れる唇が感じる滑らかさ。鼻腔をくすぐる微かに甘い香り。
安堵の吐息が零れ落ちた。
「ドゥエルーラ様?」
戸惑うような声に、首を振る。
「違う……」
恐る恐るという風に、彼女は自分の顔を見ようとする。
「……帰ってきたの?」
心配そうな金色の瞳に、自分がどれほど彼女を心配させてきたのかを感じた。
「名前を言って」
自分の頬を掴み、彼女はじっと見つめてくる。頬から感じる彼女の手は、不安で震えていた。
「名前をちゃんと!」
ふとこみ上げる笑みそのままにして、自分は自分の名を探す。
(ドゥエルーラでもなく、イマルークでもなく)
「ラン」
じわりじわりと彼女の目に喜びが浮かんでくる。それを幸せな気持ちで見ながら、もう一度名乗った。
「ランだ」
そして、また彼女の首筋に顔を埋めようとした、とき。
とんでもない衝撃が頭を襲った。
一瞬何をされたのか分からなかったが、はじけるように彼女から身を引き離した。
心配そうな金色の瞳が、心なしか潤んでいる。そして、それはじわりじわりと怒りを含んでいった。彼女の前では力の篭った拳が作られていた。
こんな瞳を、どこかで見た。
そうだ、あれは……、あの人形師の町で……。
「……あんたって……」
「エノリア……」
「あんたって、なんで何度も何度も何度も……っ!!」
何が何度もだ? と思ったが、拳を振り上げようとしたエノリアを見て、思わず身構えてしまう。
だけど、体に感じた衝撃は思ったよりも小さかった。自分の胸に顔を押し付けるようにして抱きついてきたエノリアを、ランは驚きの表情で見つめていた。だが、表情は徐々に緩み、彼女の小さな嗚咽を繰り返す頭を、手でそっと撫でる。
「悪い」
「馬鹿っ! 大馬鹿! 大馬鹿者よ!!
あんたは『ラン』よ。他の人に、そう簡単にぽんぽんぽんぽん乗っ取られてんじゃないわよ!」
「……俺……」
ああ、そういうことかと納得した。
薄幕張られたような時間を振り返る。あのとき、崖から落ちて……その後のことが目を凝らしても凝らしても、ぼやけた画像しか見えてこないような歯がゆさがあった。
「ドゥエルーラといたのか……」
では、あれは……ドゥエルーラの記憶?
いや、あれは多分。
(イマルークの記憶も)
「ずぅっと気付かなかった私も私だけど! あんたもあんたよ!」
ぼうっと思い返していると両頬を強く抓られて、ありえない痛さにランは我に返った。
「いっ……痛、痛い痛いって! エノリアっ」
その行為とは裏腹に、エノリアは涙をぼろぼろとこぼしながら、自分を見つめる。
「『器』だかなんだか知らないけど! あんたは『ラン』よ! 復唱なさいよ!」
「……何を」
エノリアは抓るのを辞めて、ばちっと両頬を両手で挟んだ。
「自分の名前をよっ! 連呼しなさいよ!! もう!……」
また、がばっと抱きついて、エノリアは泣き出した。
「もう、あんたじゃないあんたを見るのは嫌だ!」
「……ごめん」
エノリアの背中に慰めるように手を置くしかなかった。
しゃくりをあげるように動く彼女の背中を、優しくあやすようにたたきながら、ぼうっと思い出す。
自分が自分でなかったときの。でも、どこかに残っている記憶。
ドゥエルーラの感情の中に入り混じったのは、イマルークの記憶だろうか……。
この場所に渦巻いたいろいろな思念が、ランの中に浮かび上がっては消えていく。
それを一つ一つ、心の中に埋めていった。
「……ドゥエルーラは、いったのか」
ぽつりと呟くと、エノリアは時間を置いてから首を振った。
「わかんない……」
でも、と言ってからエノリアは続ける。
「ずっと待っていただけなんだと思うから」
もういいよと言ってくれるのを。
それを聞いて、ランは小さく肯定の相槌を返した。
青い氷は彼女の光を受けて、溶けていった。
それで、よかったのだと思う。
ランはエノリアをそっと起こす。
「帰ろう……。ミラールが、心配だ」
「……どれくらい時間が経っちゃったのかな」
エノリアはこくりと頷くと、躊躇なくランの手を取って引っ張った。ランは繋がれた手をじっと見る。
『退屈だった。
……それだけのことだ』
急に頭をよぎったその台詞に、冷水を被せられたような不安感が襲う。
「ラン?」
「ああ」
動かないランを訝しげに振り返るエノリアに小さく頷いて、ランはエノリアを逆に引っ張るようにして、部屋を出て行く。
「速く、帰ろう」
心の奥が酷くざわつく。その理由を自分は知っているような気がした。だけど、そうだと認めたくなかった。
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