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ゼアルークは自分の目を疑った。そして、まわりを見渡す。誰もいない。側に常にいるべき侍従の影も、おそらく彼女が訪ねる相手だった大魔術師の影も。
太陽の娘《リスタル》が、大魔術師の部屋の前に座り込み、そして、側にいる自分にも気付かず、ぴくりとも動かない。
「ナキシス?」
大魔術師の戯れだろうか。だったらひどく悪趣味だ。そう思いながら、ゼアルークは彼女の側にしゃがみこむ。うなだれた彼女の顔を覗き込もうとして、平和な寝息に気付いた。
こんなところでうたた寝を?
呆れるような思いよりも先に、おかしさがこみ上げてきてゼアルークは口を手で覆った。いつも冷たい瞳で、一定の距離以上近寄らせようとしない。そんな彼女が無邪気な寝顔をさらしている。
「ゼアルーク様?」
側にいた自分の歳若い侍従を振り返る。心配そうな顔を見て、ふと笑った。そう普通は警戒よりも心配をするものだ。
「大丈夫。ご病気ではなさそうだ」
「どうして、ナキシス様が?」
その疑問に答えてやることはできなかった。
「……随分お疲れなのか。起こしてしまうと悪い」
「近くにご用意できる客室があるようですが」
「そうだな」
といって彼女に手を伸ばした王に、侍従は慌てて近寄る。
「陛下、私が」
「私が運んで差し上げたいんだ。君は、客室を準備してくれるか」
柔らかく微笑むゼアルークの顔を、侍従はしばらく呆けるように見つめてしまった。こんなゼアルークの笑みを間近で見るのは初めてだった。そして、ゼアルークの腕の中にいる太陽の娘《リスタル》が、彼の婚約者であることを思い出して、赤面する。
「すぐに」
慌てて掛けていった侍従が赤面した理由が、自分の微笑であることなど思いつきもしないゼアルークは、内心首を傾げつつナキシスをそっと抱き上げる。
起こしてしまうかと思ったが、ナキシスはすこし身じろぎをした程度で、再び一定の寝息が聞こえてきた。
その寝顔をつい覗き込んでしまい、頬に一筋の跡があることに気付く。
(泣いていたのか)
その理由が何であれ、あの大魔術師が一枚噛んでいることには間違いない。そう思うと少しだけ腹立たしい。
『私は、セアラ様を愛しております』
そう言ったナキシスを、美しいと思った。
疲れて眠ってしまうほど、彼女を泣かせる何があったのか。
それを知りたいと思ってしまう。
(立場だけを望むと言った、この私が)
侍従が用意してくれた客室の寝台にそっと寝かせた。慌てて出て行く侍従の気配を後ろに感じながら、眠り続けるナキシスを見つめる。
その額にそっと触れ、顔にかかる髪を払いやる。
近くに椅子を引き寄せて、寝台の側に座った。
「……愛しいと、思っているのだろうか」
ゼアルークはぽつりと呟いた。
広がる細い髪を1房掬い、唇を押し当てた。側に寄ればよく分かる頼りない金色の光。断ち切れない美しい光。
あの大魔術師に向けられた真摯な思いに、嫉妬しているだけなのか。
手に入れられないと思うから、欲しくなるだけなのか。
そうだとしても、泣くよりも笑っていて欲しいと思い、笑わせたいと思う。
ただ、それだけなのだ。
ナキシスの瞳がうっすらと開いた。
そして、ゼアルークを見つめる。夢現の狭間にまだある視線。
「ゼアルーク、様?」
「気分は、悪くないか?」
ナキシスはその言葉に微かに頷いた。意味がわかって頷いているようには見えずに、ゼアルークは軽く目を細めた。
「…………セアラか?」
「セアラ……様が、何か……」
「君を泣かす原因だ」
ナキシスはぼおっと天井を見つめた。
「……泣かせてくださるほど、側に寄せてもくださりません」
「それでも、貴女は、泣くんだな」
ナキシスは目を瞑った。ゼアルークの声が聞こえているのか。
「側にいたいと泣くのだろう」
ゼアルークもぽつりと呟いた。こんな台詞は自分にはふさわしくない。だが、部屋に注ぎ込む夕日の赤さに、現実が非現実のような気がしていた。
全てが赤い。その金色の髪も、瞳も。
太陽の娘《リスタル》としての証が全て、赤く染まっている。
ナキシスが身じろぎして、細い髪はゼアルークの手をすり抜けていった。
ゼアルークはその視線を外して、絨毯に伸びる長い花瓶の影を見つめた。
「貴女は、いつまでそうやって……」
ナキシスが体を起こす気配がした。ゼアルークは視線をナキシスに戻す。夢から現実へ戻ろうとしている瞳に、ゼアルークは小さく囁いた。
ナキシスの目に光が戻ってくる。その前に。
「陛下。私は……」
「それほどまでに、愛しているのか」
ゼアルークは視線を落とした。
すっと醒めていく瞳を間近で見て、ゼアルークは何かが零れ落ちる音を聞いた。頼りなく揺れる瞳。支えなければ今にも消えてしまいそうだと思った。
「愛しています」
その言葉の強さに、沸き起こったのは苛立ちだった。胸を締め付ける形容しがたい思いと共に。
「貴女を見ていない」
「わかっております」
「貴女を貴女として見ていない」
「充分です」
微笑んだ彼女の瞳は、あの魔術師の物だ。
同時に思い出したのは、あの母の瞳だった。
自分を見つめ、その奥に弟の姿を求めていた。
柔らかく笑いながら、私を弟の名で呼ぶ。
どうやったら繋ぎとめられるのか。
その視線を、自分に。
瞳に手を伸ばす。自分を見ないその瞳に、自分を映し出させるように、両頬を捉えて覗き込んだ。
「……私では、駄目なのか」
吐いた言葉に驚いたのは自分自身だった。
そう言ってしまえば、いろんな思いが溢れそうになる。ついで出た言葉を、ゼアルークは押し留めた。
「私なら……」
その先の言葉は、純粋にナキシスへの思いだけではないような気がして、ゼアルークは唇を閉ざした。
それとも言い訳なのか。
言葉を紡いでも、決して手に入らないものを、諦めるための言い訳なのか。
「……陛下は勘違いしておられるのです。
私は太陽の娘《リスタル》です。陛下はだからこそ私を選んだのでしょう?
それ以外の理由はいらないはず。
太陽の娘《リスタル》だから私の幸せを願ってくださるのなら、とてもありがたいことです。
だけど、その願いは万人に向けられるもの」
ナキシスはゼアルークの手に、自分の手を掛けた。ゆっくりとその手を剥がしていく。そして、寝台にその手を置き、封じるようにゼアルークよりも小さな手を乗せた。
ゼアルークはその手を見つめていた。自分の手に重ねられた柔らかな手は、とても冷たい。
「ナキシス、私は……」
「『私』を呼ばないで下さい、陛下。
私の願いはたった一つ。」
ゼアルークは眉間に皺を寄せた。消えいりそうな小さな声は、とても強い意志を持っている。
「太陽の娘《リスタル》であること。
もしも、私を愛してくださるというなら、太陽の娘《リスタル》として愛してください。陛下。どうか……」
ゼアルークは、じっと手の甲を見つめていた。重ねられたナキシスの手を振り払うことも出来た。だが、そのまま身動きせず、重ねた手に視線を落とし続けた。
とてもとても長い時間に思えた。赤色の空間にゆっくりと青色が重なっていく。
その間ナキシスもゼアルークも、一言も声を発しなかった。
完全に赤が失われる前に、ゼアルークはそっとナキシスの手を取った。そして、白い手の甲に口付けを落とす。
長い間、そう口付けていた。ナキシスはぴくりとも動かない。息も押し殺して、この儀式めいた口付けに耐えている様だった。
「ナキシス、貴女の望みのままに」
呟いた言葉の意味に、彼女は気付いただろうか。
その瞬間、吐き出された息の音が耳に届き、手に取った小さな手が少しだけ動いた。
だから、分かったのかもしれない。
貴女の望みのまま、太陽の娘《リスタル》として愛する。
だけど、それは『ナキシス』の望みだからだ。
口付けた手を優しく両手で包み込んだ。
ナキシスが何かを言いかける気配がした。
だが、それに気付かないふりをして、ゼアルークはナキシスに背中を向けた。目は見なかった。
まだ赤色の残った瞳を見れば、たった今契った約束を破ってしまうような気がしたから。
「陛下」
「迎えを寄越させよう。
それから、今後は少し自重していただきたい。供は必ず連れること」
そう言ってナキシスの言葉を打ち切った。今は何も、聞きたくなかった。「はい」と小さな返事が返ってくる。
「……失礼する」
そう言って部屋を出て行く。
まるで、逃げるかのようだ。
しばらく歩いて、足を止める。いつもよりも足早になっていた自分に気付いて、ため息をついた。
外の風景に目をやれば、その赤は完全に消えていた。
赤く染まっていた金色は、もういつもの冷たい金色に戻っているだろう。
たった一人にしか触れることを許さない、金の光に。
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