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◇ |
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(白い)
エノリアは目の前を手で探った……つもりだった。目をいくら見開いても、目の前はどこまでも白く、手には何の感触もしなかった。
「好きなんです」
声が聞こえた。湧き上がる声に方向がない。すべてに響いて伝わってくる声だった。
「分かっています。
本当は、良くないんだって。
あんなものが生まれたのも、私がドゥエルーラ様に近づきすぎたためだと、私にだって分かっています。
だけど、こんなことを望んで、ドゥエルーラ様に近づいたんじゃないんです。みんなが大好きです。誰にも苦しんで欲しくないです。
だから、だから……ドゥエルーラ様にもう会うなとおっしゃるなら、もう会わない。
でも、苦しいの。苦しくて苦しくて……。忘れたらいいとみんな言うけど、忘れられない! こんなにも大きな思いを抱えてるのに、忘れることができるんですか?
教えてください。イマルーク様!
忘れられるのなら、忘れさせて……っ!」
血を吐くような叫びに、エノリアは思わず目を瞑った。その響きは、自分の心を震わせ、かき混ぜる。
「イマルーク。
私は……愚かです。
分かっています。
あれを生み出すきっかけは、私が作ったんです。
彼女を愛し、彼女のことを常に考えていました。
光《リア》への偏りが、あれを生み出してしまった……。
彼女の声に答えなければ良かったんです。
彼女に触れなければ良かった!
けれどもう遅い。
お願いです。イマルーク。
私を処断してください。私をこの世から消してください……。私では、この役目は務められない!」
(これは、先ほどまで見ていた『夢』とは違う)
エノリアは『自分』を探した。
自分の体があると思われる場所。そこには何もない。
いや、『自分』がない。
声だけが、降り注いでくる。
耳を塞ぎたい。塞ぎたいけど、塞ぐ手すらない。耳もない。
「安易にお前とキールリアをあわせた私の責任だ。
だが、分かってくれ、ドゥエルーラ。私はお前を消すつもりはない。
私のために作ったお前だが、今ではお前の存在だって、この世界に必要な一つなんだから。
それに、私のためにお前を苦しめるつもりなどないんだ。
そう……私が本来の立場に戻ればよい。
私は今までどおりに、世界の調和だけを願い、君はずっとキールリアの側で生きていけばよい」
(イマルーク?)
感触のない空間を、エノリアは見渡した。見渡したつもりだった。
だが、どこまでも白い。
ままならない世界に、声が振り続ける。
「どうして?
どうして『イマルーク』様!
私は貴方を愛しています。
どうしてキールリアだけに許すの!?
どうして、私には!」
「すまない。ナーゼリア……」
「どうして、キールリアだけ。
いつもいつもいつも!!
同じなのに。
同じなのに!!
キールリアには与えられ、私には与えられない!
誰よりも貴方を愛しているのに!!」
血を吐くような言葉と同時に、目の前の白が一層白く光った。思わず目を瞑るが、目を瞑っても目に焼きつくのは白色。
怖いと思っている自分が不思議だった。
だって『自分』があるのかさえわからないのに。
「ナーゼリア、キールリアをどこに!」
鋭い衝撃を受けて、エノリアは目を開いた。
目の前の白に、うっすらと映る二つの影。
目を懸命に凝らす。
長身の青年と小柄な女性が向き合い、青年は女性の肩に手をかけていた。
(ナーゼリア……。キールリアの妹……)
その姿が見たくて、エノリアは二人に近づこうとした。その瞬間に、ぐんと二人の姿が近づいてくる。
黒く長い髪の青年の後姿と、うつむく女性の姿。
女性は、キールリアと同じ姿をしていた。ただ、その髪と瞳の色は銀。光《リア》を湛えながらも暗い瞳の奥に、揺れる感情を捉え切れなかった。
「キールリアは死んだわ。
私が……殺してしまった……」
「キールリアは、私の子を……」
「私が殺した」
「ナーゼリア!」
「そうすれば、戻ってくるでしょう?
戻れるでしょう?
私の愛した『イマルーク』様に。
誰のものでもない、あの方に!」
視線を上た女性の銀色の瞳は、目の前の男を貫き、見たことのない哀しい憎しみを湛えていた。
恨みを込めた言葉を吐きながら、悲しみに涙が溢れる。
(怖い)
『どうして、私も望んではいけなかったの?』
心の中に広がる波紋。あのとき、フュンランで見たあの波紋だ。
あのとき感じた同じ怖さを、思い出す。
『私も見たかったの。あなたが見たいと思ったものを、あなたが願ったものを私も、欲しくて。とても欲しくて……』
『みんなみんな同じ。同じだけ、幸せ……』
(シャイナ……)
月宮《シャイアル》にいた貴方は、幸せを信じて生きていた貴方は、私にとって安らぎであり、光であり、希望だった……。
私が、それを、壊してしまったの?
だから、怖いの?
だから、辛いの?
気付けば、二人の影は消え、再び白い世界が広がっていただけだった。
ぽつりと私はそこにいた。
私という存在はここにはない。私という肉体はここにはない。
けれど、涙が止まらない。殺されたキールリアより、殺してしまったナーゼリアが哀しくて。
誰のものでもないイマルークなど、彼女が一番求めてなかった。
彼女はただ欲しかっただけだ。
(イマルークに愛されたかっただけ)
見渡すどこまでも白い世界。
同じだけの世界。
何も失われない世界。そして、何も生まれない世界。
白く。どこまでも、ただ、白く。
波紋一つ広がらない、真白な世界。
彼女は分かっていた。手に入れられないことを。
この世界を愛していたから……。違う、イマルークがこの世界を愛していたから、同じものを愛していた。
そうやって保っていた均衡を、キールリアはあっさりと奪っていった。
この白い世界に落ちた赤は、あのカタデイナーゼの赤。
『あの人が私だけを見つめることを。そのために』
『あの人の愛する物をあの人の愛する者をあの人の愛するこの世界を』
嘆き続ける花たちの声がする。
「『ドゥエルーラ』。
泣くな。私はお前を泣かせるために、入れ替わったのではない」
顔を上げるとドゥエルーラが、私に向かってそう言っていた。
「『イマルーク』。
私は、私は罪を犯しました。
触れてはならぬものに触れました。
作ってはならぬものを作りました。
貴方の作った均衡を崩してしまいました……。
そして、キールリアもナーゼリアも失ってしまった……」
振り返るとイマルークが、私に向かってそう言っていた。
「あいしているなど! ……あいしている……など……! どうして……私に」
◇
エノリアは飛び起きた。
頭に膨大な記憶が流れ込んできて、うめき声にして押し殺す。
押し殺し続けたあと、エノリアはしゃくりをあげて泣いている自分に気付いた。
「イマルーク……。ドゥエルーラ……」
「私は、『神』にはなりきれなかった」
月を背負ったドゥエルーラの長い影が、エノリアの寝台にかかる。青い瞳は美しい光を放っているようだ。
闇の中に静かに溶け込むように光っている。
「貴方は、イマルーク? ドゥエルーラ?」
「ドゥエルーラだよ。
……君が、どこまで見たかわからないけど……」
彼はそう言ってから、言葉を一度飲み込む。苦しそうに眉を寄せて、再び口を開いた。
「彼の思いの塊だ」
「思いの塊?」
その意味がわからずに問い返すエノリアに、彼は頷いた。自分に言い聞かせるように。
「キールリアとの出会いを悔やみ、何度も何度も、やり直そうとする思念の塊。この場所にいつまでもいつまでもしがみついている『思い』。本当は実体を持たない、ただ繰り返すだけの『記憶』」
ドゥエルーラは、エノリアの側に寄った。見上げるエノリアの視線を辛そうに受けながら、視線を落とす。
「最初、この世界にいた神は、イマルークだけだった。
彼はこの世界を作り、そこに人を作った。作るだけでは満足できず、人々を愛しはじめてね。
愛は時に傾きを生じさせる。だから、調和を願う心だけを切り離し、私が生まれた」
「……だけど、愛してしまったのね」
あの笑顔を思い出す。甘く切なく優しく細められた瞳の先には、常にあの金色の女性がいた。
「キールリアは、真っ直ぐな人でした。
私は一目で恋に落ちました。
全てを同じように愛さなければならなかった私が、たった一人の人を愛してしまった。
そして、彼女は……普通の人ではなかった……。
光《リア》を愛するということは、それを強めるということなんだ。
光《リア》と闇《ゼク》は特殊で、片方が強まれば、片方も強まる。
その先に生まれたのは……イマルークが作り出したものではない『もの』だった」
「強まった闇《ゼク》……魔物?」
「闇《ゼク》だけでなく……光《リア》も。
どちらも、創造神《イマルーク》の手から離れてしまった、均衡を崩す者」
苦しそうにドゥエルーラは告白を続ける。エノリアはその姿を静かに見守った。なぜか、そうしなければならない思いで一杯だった。
すがりつくようなドゥエルーラの手の感触を思い出す。
キールリアの笑顔を思い出す。
ナーゼリアの嘆きを思い出す。
「このままでは私はこの世界の均衡を完全に崩してしまう。
私は役目を外れた者だ。イマルークに処断されて当然の存在になった。この世界から離れ、永遠に消え去ってしまえば、まだ間に合ったのです。
ですが、イマルークは私を許した。
イマルークは私に世界を渡し、キールリアと共に生きていける道を開いてくれた。
ただ……私は自分のことしか考えていなかったんです。
イマルークを愛する女性のことなど考えていなかったんです。
ナーゼリアを追い詰めてしまった。
私はこの世界を……穢させた。
この世界に、血を落とさせた。
人が人を憎しみ、その果てに流れる血を落とさせたんだ……」
両目を覆う彼の指の間から、ぽたりと音を立てて落ちる雫。
エノリアは、ラスメイが書き留めていた御伽噺を思い出していた。
『昔、双子のお姫様がいた。一人はキールリア。もう一人はナーゼリア。
《歓喜》と《悲哀》の名を持つ美しい姫君だった』
ぽたり、ぽたりと零れ落ちる涙に、エノリアは手を伸ばした。
『キールとナーゼは、とてもかわいらしい姫君だった。違うのは、瞳の色と髪の色だけ。あとはそっくりで、みなに同じように可愛がられていた。
そんなある日、王子様が現れる。黒髪の美しい王子様は、キールを愛する』
冷たい雫。エノリアはドゥエルーラの二の腕にそっと手を伸ばした。泣いている『御伽噺の王子さま』。
涙に濡れた目でエノリアを見るドゥエルーラに、側に寄るように促す。ドゥエルーラを寝台に座らせた。膝の上に握った拳を押し付けて、彼は体の震えを止めようとしているように見えた。
「ドゥエルーラ……」
エノリアは悲愴なまでに押し付けられた彼の手に、そっと自分の手を添える。
「少し、力を抜いて」
「その血から……彼が産まれてしまった」
エノリアの手に導かれるように、ドゥエルーラはゆっくりと押し付けた手から力を抜く。
「彼?」
「ナーゼリアが自分の命を絶ったその後に、生まれた」
再びエノリアの目の前に現れたドゥエルーラの瞳は、あの美しい蒼ではなかった。
「【呪われし者】の名を持つ者が」
「ドゥエルーラ様……貴方は……」
「そうして、この美しい世界に名前を与えてしまった……。
《アライアル》。
名前を付けられた世界は、脆く、弱い。
いつか、消えて無くなる為の名前だよ」
目の前の深い緑色の瞳に、エノリアは吸い込まれるような感覚を覚える。
周りの風景が急激に遠ざかり、勢いよく流れる水流に身を任せるような感覚に陥った。
そして、視界の先に、針の穴から抜けたような細い光を見つけたとき、それに一瞬にして近づき、通り抜けた。
周りを埋め尽くす白い光の中で、エノリアは赤い瞳を見た。
むき出しの憎しみしか知らぬ瞳。
笑う唇。
そこに落とされた禍々しい赤。
私はその人の名前を知っている。
『君は君の幸せを見つけなくてはいけないし、その先に死だけが待っているなど許されない』
そう言ってくれた人だった。
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