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 その世界で、私は一人の女性だった。
 どこまでも続く花畑の真ん中で、私は色とりどりの花から黄色い花だけを選んで摘んでいた。
 それは、たった一人の妹のために摘んでいる花だった。
 空から私の名を呼ぶ声が降ってきた。
 キールリア。
 それが私の名前だった。
「はい」
 答えて、私は最後にと一輪を摘んで駆けていく。丘を駆け登れば、その眼下には広大な芝生に囲まれた館と、その周りを取り囲むように建てられた家々が見下ろせた。そこが私の住んでいる町、そしてその中央の館が私の住んでいる館だ。
 近くまで駆け下りていく。町に入る手前で、駆ける足を止めた。私がこのように駆けていると、皆が『いつまでも子供のようだ』と笑う。妹のように美しく立ち居振舞えないのは、少し恥ずかしことかもしれないと思っていた。だから、そこからは少し澄まして歩いていく。背筋伸ばし、花を抱えて微笑を絶やさず歩く私に、人々は笑顔と挨拶をくれる。
 ある人は農作業の帰り、ある人は機織の最中、ある人は近くの川で魚釣りした帰りだった。満ち足りた表情が、私の心を一杯にする。
 館に入ると、一人の男性が出てきて迎えてくれた。
 黒い長い髪、深い緑色の瞳。白い長衣を引きずって、彼は私を見て笑顔を向けてくれる。
 その笑顔を向けられると、皆の笑顔で一杯になった私の心が、さらに一杯になる。心というのはどこまで一杯になるのだろうと、いつも不思議に思っていた。
「おかえりなさい。いつまでも帰ってこないのかと思ったよ」
「もう少し居たかったのだけど、お呼びになるから」
「貴女に頼みたいことがあってね」
 彼から頼みごとをされるのは初めてで、私は飛び上がりたいぐらいに嬉しかった。だけど、飛び跳ねたりはしない。また子供だと言われて、頼みごとを取り消されてしまうかもしれなかったから。
 双子の妹は、彼に沢山の頼まれごとをされてきた。今日も朝から、隣町へお使いに行っている。隣町はこの町出身の人々が新しく切り開いた町だ。
 そこへ彼の代理人として赴いている。それは、妹が信頼されているからなんだって、お母様は言う。
「何ですか?」  気持ちの高まりを抑えきれない声だったけど、それぐらいはきっと見逃してくれるだろう。彼は苦笑すると、館の背後の雑木林を指した。細い道がずっと続いている。あの先にはこの館と同じぐらいの大きさの館があるんだと、教えてもらったことがある。そして、彼の『弟』が一人で仕事をしているのだと。
 ただ、彼以外の者が立ち入ることは禁じられていた。『弟』の仕事はとても繊細で、心許したものしか立ち入ることが出来ない。
 その仕事のおかげで、人々は、穏やかに暮らしていけるのだとも聞いた。川の水を治め、ときには天候を治め、豊かな恵みをもたらすための知恵を、この世界へ送り出しているのだと。
 だけど、『弟』を見たものは誰もいない。
 だから、正直、少し怖かった。
 勿論、それ以上の好奇心もあった。
「私は今から、ナーゼリアを迎えに行かねばならない。
 だから、彼に食事を運んで欲しいんだ」
「何かあったんですか?」
 そう聞くと彼は、苦笑するだけだった。
 いつまでたっても子供扱いで、いつも肝心なことは教えてくれない。少し哀しい気持ちになるのだが、気を取り直して自分に与えられた仕事に意識を戻した。
「お食事?」
「そう。いつも私が運んでいたんだよ。あと伝言を」
「伝言ですか」
「そう。
『許す』と」
「『許す』」
「そうだ。頼めるね?」
 頷いた。とても簡単なお使いだったので、ちょっとがっかりしていたのだけれども。
「ナーゼリアには頼めない、君にしか頼めないことなんだよ」
 その一言に気持ちは浮上した。
「キールリア。その花を預かろう。これは、ナーゼリアにだね?」
「ええ。黄色い花が似合うと思って」
「ナーゼリアには黄色い花か。覚えておこう」
 緑の瞳はとても柔らかな光を湛えている。この表情が私は大好きだった。妹も大好きだと言った。けれどその大好きは私の大好きとは違うんだと、皆がくすくすと笑いながら言う。
「では行ってきます」
「頼むね」
 そう言って運ぶ食事を受け取りに館に入りかけて、私は振り返る。彼は私を見送ってくれていた。
「イマルーク様も、お気をつけて」
 そう言うと、目を眩しそうに細め、頷いた。
 

 
 エノリアはゆっくりと目を開けた。
 神殿で倒れたことを思い出したが、ここは自分に与えられた部屋のようだ。ドゥエルーラが運んでくれたのだろうか……。
 夢現を彷徨う頭で、見つめていたのは白い布。鼻をくすぐるのは暖かな太陽のにおい。不安を包み込むような柔らかな布の感触を確かめて、息を吐き出した。
(イマルーク)
 夢だ。
 だけど、夢の中のイマルークは、とても似ていると思った。
(誰にだっけ……?)
 逆らい切れなくて、再び重い瞼を閉じた。
 手に触れている柔らかな布を懸命に握り締めて、思い出す。
(ラン……だ)
 意識は再び引きずり込まれるように落ちていく。
 

 
 森の中へ進むなだらかな坂道を、私は片手に小さな籠を持って進んでいく。
 イマルーク様以外は見たことも会ったことのないという『弟』。その『弟』へのお使いを頼まれたということが、自分の心を高めていた。
 その『弟』への好奇心も隠すことはできなかった。
 たった一人、イマルーク様以外の誰にも会わずにお仕事をしている。きっと私は久しぶりに合うイマルーク様以外の人。何をお話してあげよう。お母様の話をしようか。それとも妹の話をしようか。いや、その前に自分のことをお話しよう。
 それから、その前に……イマルーク様からの伝言。
 いろいろと考えを巡らせているうちに、視界が急に明るくなった。森を抜けたのだ。
「大きい……」
 自分が住んでいる館と同じぐらいの大きさの館があると教えられてきた。だけど、あんな森を抜けたところにそんなに大きな館があるなんて信じられなかった。だから、想像の中でその館はとても小さくなっていた。
 白い石で作られた大きな館。森の中、ぽっかりと広がった平地に、美しい佇まいでそれはあった。光が差し込み、美しい花々でぐるりと囲まれている。
 その花は、自分の見たことのない花も沢山あった。
「綺麗」
 うっとりとその花畑を愛でかけて、小さく首を振って気を引き締める。
 重そうな扉に手をかけて、おそるおそる開く。外とは違って館の中は、とても暗くて一瞬目を瞑った。しばらくしてあけると、目が慣れてきて中の様子が見て取れる。
「ドゥエルーラ、様?」
 おそるおそる声をかけた。
 返事は無い。
 建物はこれだけでなさそうだから、もっと奥にいらっしゃるんだろうか? そう思いながら扉をもっと大きく開き、中に入ると衣のすれる音が聞こえた。
 そちらを見ると、一人の男性がいた。
 黒髪に、紅い額飾り。
 驚いたように見開かれた瞳の色は蒼。
 その蒼に、吸い込まれそうになった。
 なんて美しい、蒼。
 イマルーク様に少しだけ似ていると思った。
 だけど、ずっとずっと優しくて、ずっとずっと暖かい印象だ。イマルーク様をみると一杯になる心は、もっともっと一杯になれるんだということに驚いた。
「ドゥエルーラ様?」
 もう一度聞くと、その人は返事をした。
「……キールリア?」
 その声を聞いたら、とても嬉しくなってしまった。気付いたら私は、彼に抱きついていた。
「何故……」
 戸惑った声が降ってくる。見上げると、軽く見開かれた瞳があった。
「お使いに来ました。ドゥエルーラ様。
 イマルーク様から、お食事と……そう、伝言を」
「伝言?」
 何かにおびえるような瞳。それをまっすぐに見つめて、伝言を口にする。
「『許す』と」
「……『許す』」
 ドゥエルーラ様は、一瞬悲しそうな顔をした。『許す』という言葉は、肯定的な意味だと思っていた私は、その悲しさが意外だった。
「どうしました?」
「なんでもないよ」
 すぐにその表情を隠して、ドゥエルーラ様は私を優しく自分から引き離した。
 ドゥエルーラ様は、私がしっかりと握り締めていた籠に視線を落とした。
「伝言と食事をありがとう」
 私は籠をドゥエルーラ様に渡しながら聞いた。
「あの、ドゥエルーラ様。よかったら一緒に食べませんか?」
「え?」
「私、自分の分も持ってきたんです。
 イマルーク様はお出かけだから、ドゥエルーラ様、一人でお食事しなくちゃならないでしょう?
 私、一人でお食事したことあるけれど、とても寂しいものですから。
 だから、一緒に」
 ドゥエルーラ様は、目を丸くしていた。驚いているようだった。自分が常識に外れたことを言ってしまったのかと、慌てて首を振る。
「ごめんなさい」
「……すぐに帰れとは言わなかった?」
「いいえ?」
「私との会話を禁じるとは?」
「いいえ、何も。
 ただ、食事を運び、伝言をしてくれと」
「そう……」
 ドゥエルーラ様はもう一度悲しそうな目をした。その視線にどんどんと不安になっていく。だけど、ドゥエルーラ様はすぐに笑顔を向けてくれた。その笑顔を見ると、もやもやとかかっていた霧が一気に晴れるような気分になった。
「嬉しいよ。キールリア。
 一緒に食べよう」
「ありがとうございます。 じゃあ、外で食べましょう!
 とてもよい天気です。
 それにここには私の知らない花があるので、名前を教えて欲しいんです」
「いいよ」
 ドゥエルーラ様は私を促して庭へ案内してくれた。美しい花に囲まれて、その花々の名を聞きながらの食事は、今まで感じたことのないぐらい楽しかった。
 

 
 エノリアは再び目覚めた。長く余韻のあるまどろみの中で、先ほどまでのことが夢なのか、現実なのか分からなくなる。
 手のひらを自分の目の前で揺らそうとした。
 だが、指一つ動かすのも億劫だった。
(私は夢の中で、キールリアで)
 重くなる瞼を一生懸命に留めて、暗い天井を見つめた。
(ドゥエルーラ様は、本当に幸せそうだった)
 自分に向けられていたドゥエルーラの優しい視線が、本当は誰に向けられていたのか、わかった。
「ドゥエルーラ様」
 視界が震える。目が熱くなる。
「ドゥエルーラ……様」
 可哀想な人。
 キールリアは、どこにもいないのに。
 私の中にも、いないのに。
 あなたもここに、いないのに。
 すっと零れ落ちる涙と共にに、エノリアは再び目を閉じた。
 
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