|
|
◇ |
|
深い蒼に世界が染められ、満天に青白い星星が輝きだす。この白い建物の昼の輝きは、静けさの中に閉じ込められてしまった。
いつもより強い満月の光を背後に受け、『彼』は廊下を足音一つ立てずに歩いていた。
この建物の一室の扉を開け放つ。閉じ込められていた冷気が、開け放たれた扉に向かって流れ出した。その流れと逆流して『彼』は部屋の奥へ足を進めた。
何の飾りも施されていない、さらされた岩肌の壁に立てかけられていたのは、全身を映し出す丸く大きな鏡だ。
壁の上の小さな窓から細く入る月光を受けて、その鏡には辛うじて二つの瞳が映し出される。『彼』は鏡の前にしばらく立ちすくんでいたが、一歩前に出た。
唇に手をやる。鏡の中の人物も唇に手をやった。その手で右の瞳を覆う。左の瞳を覆う。
「ラン」
唇が動いた。彼は、鏡に手をついた。そして、自分の顔を近づける。極間近で見る鏡に映った『自分の瞳』は、迷いと困惑に満ちている。
「君の命を断つ勇気もない。
救う力もない。
私には、託し、願うことしかできない」
指をその鏡に強く強く押し当てた。押し返す鏡の中の自分は、思ったよりも穏やかな顔をしている。
「君に幾千という無を与える。
あの女性を、悲しませる……。
なのに・・・・・・」
月光がその瞳に差し込む。
瞳の青は一瞬だけ緑に輝き、再び青となり、闇に沈んだ。
◇
『ドゥエルーラ様。
それでも、私は幸せです。
貴方が後悔に飲み込まれ、
これから生まれる全ての人が悲しみに沈み、
この世界が闇に埋め尽くされても、
私の思いは残り、
貴方から受けた愛は輝き、
闇の向こうの世界は一層、
美しくなるのです』
◇
庭に落ちる明るい日差しを指の間に空かして、エノリアは青空を見上げて目を細めた。
あれから、何日経ったのか、エノリアには分からなかった。だが、焦る気持ちを失い、また、それを失ったことに気付かないぐらい穏やかな日々が流れていた。
ドゥエルーラの優しい看病を受け、エノリアは怪我をする前よりも元気になった。だが、その怪我をする前のことも、どこか遠い時代の出来事のように感じていた。
庭の石造りの椅子に腰掛け、色とりどりの花とそこに注ぐ光を見つめていた。光は跳ね、花と花の間を踊り、そして、時折エノリアの手を掠めていく。
その光を追うことに夢中になっているエノリアに、人影が落ちてきた。エノリアはその影を作り出した人を仰ぎ見て、笑う。
「ドゥエルーラ様」
「顔色が良くなったね。よかった」
ドゥエルーラは、青い衣を揺らしてエノリアの隣にそっと座った。持っていた杯をエノリアに渡す。透き通って甘さのある水を、エノリアは一口飲み込んだ。
ドゥエルーラは、エノリアの隣で目の前の花々に視線を向ける。頬杖をついて、穏やかな視線を向ける。
そんな表情を見ていて、エノリアはどこか悲しい気持ちになった。
穏やかな時間。そして、穏やかな場所。
この何が彼をこんなに寂しそうな顔をさせるのだろう?
「穏やかだね」
ドゥエルーラの呟きに、エノリアは眩しそうに目を細めた。
この目の前の風景を正確に表現した言葉だった。だけど、違うという声がする。
自分が何故ここにいるのか。
その答えとその言葉は、とてもとてもかけ離れていた。そう、この風景の中にいる自分自身が違和感の根源なのだ。
「大切なことを、忘れている気がします」
「辛い、ことかな」
「辛いことだと思われますか」
「君の顔は、そう言っているよ。
思い出せないのなら、それでもいいのではと私が思う程度にはね。
体がちゃんと癒えるまで、忘れていても構わないのではないかな?」
充分に癒されている。どこも悪くは無い。
「不思議なことに、私は……。ここにいるのが自然なことのように思えるんです。
だけど、時々不自然なほどの焦りに襲われます。
私は何かをするために・・・・・・、いいえ、何かをしなくてはならないのではなかったのかと」
「私は、君がいつまでもいてくれると嬉しいよ」
エノリアはドゥエルーラを見つめた。あの目があった。
静かで穏やかで、疑いようのない好意に満たされた瞳。
だけど、素直に受け止められない一つの壁があるようにも感じる。
その壁を、エノリアは今まで何度も感じてきた。
『私』を『私』にしてくれない壁だ。
「ここに、私と君と二人で。
いつまでも穏やかに暮らせるのなら、それ以上の幸せはない」
いや、違う。エノリアは食い入るようにドゥエルーラを見つめる。ドゥエルーラも視線を外さなかった。
『この人』が『この人』ではない壁なのかもしれない。
ドゥエルーラの頬に、エノリアは手のひらを置いた。ドゥエルーラは視線を落とす。エノリアは彼の両頬を両手で包み込み、視線を合わす。
「ドゥエルーラ様?」
壁。重ならない。
印象が、だぶる。
「……ラ……」
エノリアがそう問いかけようとしたとき、弾かれたようにドゥエルーラは立ち上がった。その反動でエノリアは後ろ手をつく。
「ドゥエルーラ様?」
驚いたエノリアが彼の名を呼ぶが、青い目は何も存在しない空を睨んでいた。否、何も見てはいなかった。
衣に伸ばしかけたエノリアの手に気付きもせず、その場を足早に去ろうとする。
その緊迫感に驚き、エノリアは彼を追いかけた。
普段の優雅さなど欠片もない焦りと不安に満たされた空気は、エノリアの気持ちも不安にさせていった。
そして、ドゥエルーラが飛び込んだのは、エノリアが提供された部屋からは一番遠い部屋だった。
急に広がった空間に、エノリアは足を止める。
高い天井と、広い空間。等間隔に置かれた長椅子。天井を支える丸い柱と、その天井に描かれた無数の花の絵。
それはエノリアに、小さな痛みを感じさせる見覚えのある空間だった。
光宮《ヴィリスタル》に良く似ている。連れて行かれて、初めて太陽の娘《リスタル》と顔をあわせた『神殿』と呼ばれた場所だ。
ドゥエルーラはその神殿の入り口となる大きな扉へ向かおうとしていた。
エノリアはその背中に向けて声をかける。なぜか、そうしなくてはならない気に急かされていた。彼を止めなくては!
「ドゥエルーラ!」
何度呼んでも反応の無かった彼の体が動きを止めた。そして、ゆっくりとエノリアを振り返る。
青い瞳には、しっかりとした意志が認められてエノリアは安堵の息をつきかけた。だが、その瞳からはいつもの穏やかさが消えている。
「どうされたのです?」
そう問いかけたエノリアの元へ、ドゥエルーラは衣を翻して駆け寄ってきた。そして、彼の両腕は荒々しくエノリアを抱きしめた。
いつも壊れ物に触れるかのように扱われていたエノリアには、驚くような反応だった。
息苦しくなって、抵抗するエノリアの動きを塞ぐように、ドゥエルーラの腕の力はますます強くなっていく。
「ドゥエルーラ……!」
「お願いだ……」
その言葉の弱弱しさに、エノリアは力を抜いた。すると、そのまま崩れ落ちるように膝をつく。ドゥエルーラはエノリアを抱きしめているのではなかった。すがり付いているのだ。
「ドゥエルーラ様」
「お願いだから、私を止めて。こうやって抱きしめていて。君の存在こそが真実だと思わせて」
「どうしたのです。何をそんなに怯えているのです」
「返事を……」
エノリアの視界が、急に明るくなった。ドゥエルーラの体が震えだす。
「エノ……リ……」
「ドゥエルーラ様!」
エノリアはその震えを抑えるように彼の背中に手を回し、懸命に抱きしめる。
そうしながらも彼の背中越しに、明るくなった先を見つめる。
入り口の扉が、少しだけ開いていた。
逆光になったその入り口には、くっきりと人の影が浮かび上がっていた。
エノリアは息を呑んだ。ここ数日、ドゥエルーラ以外の人の気配を感じなかったこの空間で、その影は異常なものに見えた。
人の影は、柔らかな女性の曲線を描いている。
その影は恐る恐るこちらを伺っているようだ。やがて、扉は少しずつ開き、完全に開いた。光の奔流に目を細めるエノリアの腕の中で、ドゥエルーラの震えが止まった。
『ドゥエルーラ、様?』
その声はエノリアのものではない。どこから聞こえてくるのかと、エノリアが天井を見上げたとき、ドゥエルーラの手から力が抜けた。エノリアの腕からすり抜け、ドゥエルーラは光に向かって歩き出す。
止めなくては。彼を苦しませているのは、あの影なのだ。そう思ったのに、エノリアは動けないでいた。
ただ、視線だけはドゥエルーラの背中を追いかけた。その視界の先で、影は光の中をすり抜けるようにして、こちらへ寄ってきた。
そして、影は人となった。
金色の巻き毛。優しさに満ちた金色の瞳。
ふわりと柔らかに長い服の裾が揺れた。
その空気にエノリアは包み込まれた。暖かく柔らかな日差しの匂いがする。あの大嫌いだった光宮《ヴィリスタル》で、大好きだった大木の枝に上ったときに包まれていた空気に似ている。
ドゥエルーラはその空気を求めるように、手を伸ばす。
彼女は、彼を見つめて、その瞳を細めた。唇に花のような笑みが刻まれる。
『ドゥエルーラ様』
「キールリア……」
ドゥエルーラがそう答えた瞬間、たちまち光は消え、ドゥエルーラの伸ばした手は空を泳いで、落ちた。
大きな音を立てて扉は独りでに閉じ、同時にドゥエルーラの長衣が翻り、その体が床へ崩れ落ちる。
「ドゥエルーラ様!」
金縛りにあったかのように硬直していたエノリアは、慌てて彼のもとへ駆け寄った。
扉へ腕を伸ばしたまま、ドゥエルーラは気を失っているようだった。
「ドゥエルーラ!」
堅く閉じられた瞳と、いつもの彼に似つかわしくない苦悶の表情に驚き、エノリアは彼を揺り起こそうとした。
だが、彼の体に手をかけた瞬間。
落ちる。
エノリアはその感覚に驚いた。
目の前がぐにゃりと曲がり、抗えぬ脱力感に襲われる。
そのままエノリアは支える力を失い、ドゥエルーラに重なるように倒れた。
目を開いたまま浅い呼吸をくり返し、エノリアはしばらくその浮遊感から逃げようとあがいた。しかし、突然視界は黒く塗りつぶされ、意識はその黒に引き込まれるようにして、遠ざかっていった。
|
|
|
|