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II 夢の呼ぶ声
 
 強烈な眩しさで真白に近くなった視界に、エノリアの頭の中も一瞬真白に塗りつぶされ、きつく目を瞑った。
 焼きついた白さが薄れ行くのと同時に、思考が動き出す。
 ここがどこなのか、そう思う前に指先が微かに動いた。
 動いたと思ったところから、ゆるゆると自分の感覚が全身へ広がっていった。
 指先に感じるのは柔らかな布の感触。閉じたままの目に感じるのは、清浄な明るさ。頬に感じるのは、気持ちの良い清涼な風。耳に入るのは、愛らしい鳥の鳴き声。
 ここ暫く感じたことの無い空気と、自分自身の体の軽さに、自分を見失いかけ、『何故』と問うた。
 何故、自分がこの状況にあるのか。
 一体何が起こったのか。
 記憶を辿りかけて、そこにある大きな不安と恐怖に、目を開くのを躊躇した。
 この心地よさが、目を空けた瞬間に消えてしまう気がして。
 だけど、次に浮かんだ風景が、目を開かせた。
 暗闇に浮かんだ緑色の瞳を。
 エノリアはかすれた声でその名をつぶやきながら、瞳を開いた。瞬間飛び込んでくる明るい光に再び目を閉じかける。それを止めて、目が光に慣れるのを待った。白の中から徐々に、周りの風景が浮かび上がってくる。
 まずは白い天井。その天上に彫られた繊細な模様。小さな花と丸く小さな小鳥。
 ゆっくりと体を起こした。思ったよりも簡単に、起きあがることが出来た。
 周りを見回す。白い石で作られた壁、床。柔らかな布が風に揺れる衝立の向こうは、色とりどりの花が咲き乱れる中庭が広がっている。光を受けて揺れる花々を、まるで別世界の出来事のように感じていた。
 視界を自分の側へ戻していく。壁と同じく白い石で作られた円卓に、白い陶磁器。水が並々と注がれた杯には、花びらが浮かべられていた。
 清浄。そんな言葉が頭に浮かぶ。
 触れるもの全てが美しく、眩しく、清らかな場所だと思った。
 そして、記憶にある崖から落ちた自分と、この清浄さに包まれている自分が重ならなかった。
 ふと自分の体に視線を落とす。
 白い服。傷にまかれた白い布。それだけが、あの崖から落ちた自分が現実だったということを思い知らせてくれる。
 自分が来ていた服は、足元に置かれた小さな棚の上に畳んで置いてあった。ということは、誰かがこの服を着替えさせ、傷を洗い、布を巻いてくれた、ということだろう。
 この白い建物に誰かがいる。
 エノリアは寝台から足を下ろしてみた。丁度そこに、布履きが置いてあった。足を差し入れると柔らかな感触がする。
 少しふらつきながらも、歩いてみる。衝立に手をやり、そして、側の柱に体重を移動させ、開放的な中庭に続く廊下まで歩く。
 こちらの建物と中庭を挟んで向かいにある建物を観察した。
 白い石で作られた、繊細な印象のある彫がめぐらされた建物には、どんなに目を凝らし、どんなに気配を探ってみても、人がいるような空気がない。
 エノリアは左右を見渡す。向かいの建物へ通じる2本の廊下がある。しかしその廊下の向こうには、この中庭と同じように花の満ち溢れた場所が続いていた。それは新緑のまぶしい木立に続いている。
 どうやら自分がいるこの建物が一番奥ということらしい。向かいの建物の奥には、まだ建物が続いているようにも見えた。
 エノリアは、おそるおそる廊下へ出てみる。とりあえず、誰かに会わなくては。
 そう思い、ふらつく体を前進させようとしたとき。
「危ないよ」
 ふわりと両肩を右後ろから支えられた。
 人の気配をまったく感じてなかったエノリアは、予想外の展開にびっくりして、その手を振り払うように振り返る。
 そこには驚きを隠せない表情の青年がいた。その驚き以上に驚いているエノリアを見て、その表情はすぐに柔らかな笑みに変わる。
「ごめんね。驚かせたみたいだね?」
 エノリアは自分の置かれた状況を忘れ、視線を上向けて青年の笑顔を見つめてしまう。
 肩まである黒髪は艶やかで、赤い丸石の額飾りの下、長い睫毛に隠されて微笑む瞳は、晴天の下の遠い海のような深い青。白い肌に紅を差したような形良い唇。
 エノリアは返答をするのも忘れて、彼を見つめてしまった。
 セアラを見たときも、美しいと思ったが、彼もまたとても美しい容貌をしている。人間離れした神々しさを感じて、エノリアの思考は完全に止まっていた。
「あ、あの……」
 彼が少し首を傾げて、何かを聞いてくれそうだったので声を出してみたが、エノリアはその先、何を聞くべきなのか迷ってしまった。
 聞きたいことは山ほどある。山ほどあるから、全てが優先順位を争って中々言葉が出てこない。
「……私。あの、ここは……。それから……」
 くすりと笑って、彼はエノリアの肩に手をかけて、くるりと進行方向を寝台へ向けた。
「あの……」
 戸惑うエノリアに、柔らかな所作で寝台に座るように促す。
 エノリアは彼をもう一度見て、促されるまま寝台へ座った。
「少し、混乱してる? 落ち着いて。私は、しばらくここにいるから」
 エノリアと向かい合わせになるように膝をつき、彼は下からエノリアを見上げた。透き通るような声だと思った。今まで聴いたことの無い、心安らかになるような声だと。
 座ったエノリアに、寝台近くの小さな円卓に置いてあった、杯を差し出す。杯の中の水には花びらが浮かべられていた。それを素直に受け取って飲みながら、エノリアは再び彼を観察する。
 青い瞳によく似た青い長衣。エノリアと目が合うたびに、微笑で満たされる青い瞳。言葉にするよりもはっきりとした好意に満たされた視線を、初対面の青年から向けられているのがとても不思議だった。
「ここは、どこですか」
 エノリアの質問に、彼は瞳を細めた。
「ここがどこなのか……それは、君自身が望んだ場所であって、私が知っている場所ではないんだよ」
「私が?」
「ここは、その意志を持つものしかたどり着けない場所。
 願うものだけがたどり着く場所だよ」
「……私が願っていたところ?」
 彼は声にせずに唇を動かした。唇の動きから感じ取れた言葉を思い出して、エノリアは弾かれたように立ち上がる。急に力を入れた右足が、酷い痛みにさいなまれて、彼女はその場に崩れ落ちた。
 それを青年は慌ててエノリアを支えた。その差し伸べられた腕にすがりついた。
「あのっ、私……どうしてここにいるか分かりませんが、1人でしたか? もう1人!」
 驚いたように丸まった青い瞳は、直ぐに落ち着きを取り戻し、エノリアの手には彼の手がそっと重ねられた。
「少し、落ち着きなさい。体によろしくない」
「貴方が私を助けてくれたんですか!? もう1人いませんでしたか!?」
「いたよ」
「ほんとうっ!? あの! 彼は!」
「大丈夫。酷い怪我をしていたから、別の場所で介抱してる。後であわせてあげるから……。君も心配ないとは言えない状態なんだよ?」
 だから、もう少しお眠りなさい。
 子供をあやすような柔らかな美声に、エノリアの体も従いかけた。しかし。
「少しでいいんです。様子を見てはいけませんか?」
 エノリアの真っ直ぐな視線の前で、青年は困ったように息をついた。
「でないと、眠ってくれそうにもないね?」
 青年はエノリアの手から杯を取り上げ、そこに水を張り始めた。
「本当、彼は酷い怪我をしてるから、ちょっと違うところにいるんだよ。だから、これで見るしかないんだけど」
 青年は指先をその水面に浸すと、青い目をエノリアに向けた。
「水鏡、わかるかな?」
 エノリアはこくりと頷いた。
「じゃあ、映すよ」
 青年はそう言うと、水面から指を引き抜く。波紋が広がって、大きく輪を描いた中に、その姿は映し出された。
 エノリアがいた部屋と同じように白い壁の部屋。寝台に仰向けになって堅く目を瞑ったランの姿だった。
 白い服。その袖から出た腕にはエノリア以上に白い布が巻かれていた。
「命に関わる状態ではないんだ。だけど、もう少し眠らせておいた方がいいんだと思うよ」
 ランの無事がひとまず確認できて安心したのか、エノリアの頭の中で疑問がさらにむくむくと湧き上がってくる。
「あの。助けてくださったんですか?」
 青年は微笑んで、頷いた。
「ありがとうございます。その、私、お礼も言わずに失礼しました。
 私、私の名前は」
 青年は長い指をエノリアの唇に当てる。
「知っているよ。だから、声にしないで」
「……はぁ……」
 エノリアは触れるか触れないかの指の感触にどきどきしながら、曖昧に返事をする。
「では、貴方のお名前は聞いてもいいですか?」
 彼は微笑んだ。
「いいよ」
 そして、自分の胸に手を置き、優雅に一礼した。
「私の名は、ドゥエルーラ」
 青い瞳がいたずらっぽく、そして、優しく微笑んだ。
「ただの、ドゥエルーラ」
 エノリアは記憶を辿る。
 どこかで聞いたその名前。
 ドゥエルーラ。
 同じく美声の持ち主が、その名のことを語ってくれた。
「まさか」
「そう。だけど、それは口にしないで」
 ドゥエルーラは、エノリアの前に跪き、その手を取って甲に口付けした。
「貴女の光《リア》の中では失われてしまっている、脆弱な存在だから。私はただのドゥエルーラ」
 誰もが見惚れる美しい笑みを残して、彼は部屋を去っていく。残されたエノリアは自分の手の甲に視線を落とした。
 美しい笑みよりも、その口付けの柔らかさよりも、彼の声に含まれた悲しい響きが尾を引いていた。
 
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