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小さく開けられた窓から入ってくる風が少々強く、持っていた書類が煽られた。セイは足を止めて書類を押さえて少しだけため息を落とす。
この書類を受け取る彼の主……ゼアルーク王が、普段仕事場としている書斎に珍しく居らず、急ぎ決裁頂きたいと主張する大臣に変わって、城内に点在する心当たりに足を運んでいるところだった。
書類を押さえた手から進む方向へ視線をやって、心当たりとはかけ離れた場所でその姿を見つけてしまう。声をかけねばと息を吸いかけたが、廊下の窓際に佇んで、何かを見つめている王の姿がそれを躊躇させた。深緑色の瞳には、ゼアルーク王が幼い頃から側に居るセイでさえ、滅多に見ることの無い柔らかさがあった。
何を見ているのか……。その視線の先を追うようにセイは窓の外へ視線をやった。
そこにいた人物の珍しさに、セイは目を細めた。
赤い花を摘む少女は、セイの中にある彼女への印象と重ならない。一本摘んでは胸に抱き、唇に微かな笑みを浮かべる。
薄い金色の髪が風で揺れた。なんとも脆弱な光《リア》を前にして、セイはその対極にいるような少女を思い出した。
エノリア。
美しい光という名の少女の、力強い生命の光《リア》を思い返す。
自分に向けられた鋭い剣先。その剣先よりも強い瞳の力。
こちらが気圧されする覇気を持つ彼女こそ、我が王の隣にはふさわしい。彼女にそんなつもりが無かったとしても、それほどの鮮烈さがセイの脳裏に焼きついていた。
それを思い出しながら、再び王に視線を戻す。
声を掛けづらいと思うほどに、思いのこもった視線をセイはなるべく見ないように務めた。王は知らない、いや、知りたくないはずだ。
どんな顔で、あの少女を見つめているのかを。
心はいらぬという言葉とは裏腹に、感情は育ってきている。側にいれば情が沸く。それを王は切り捨てることが出来るのか。
セイは再び少女に視線をやった。
脆弱な光。
エノリアと彼女が並び立てば、私は王にこう囁くだろう。
『あちらを消すべきです』
いや、王の許可を待つまでもない。王は必ず躊躇する。
あのような目が出来るようになった王であれば。
ふと笑みを落として、セイが顔を上げたとき、丁度王もこちらに気付いたようだった。
「セイ」
「お探し致しましたよ、陛下」
笑みを隠そうとして隠し切れなかった。そんな微妙な空気を王はすぐに感じ取り、少しだけ仏頂面を見せる。
「……何だ」
「セルク大臣が……」
「違う」
ゼアルークは、つかつかと足音を立てて近づき、セイ以外の側近や大臣達には見せたことがないだろう子供じみた不機嫌さをセイにぶつける。
「何を笑っていた?」
「失礼しました。……こちらのことです」
頭を下げて表情を隠した。しかし、いつまでもそれ以上の言葉をかけてこないゼアルーク王の空気に負けて、再び顔を上げると、ゼアルークの納得いかないような表情が目に入る。
「陛下」
「嫌な奴だ。言えばいいのに」
セイの手から書類をひったくるように奪い取って、さっと目を通す。
それを見守るセイに、ゼアルークは目を落としながら呟いた。
「何を笑っていた」
3度目の問いを前にセイは隠し通すことを諦めた。
「……少し思い出したのです。私と陛下が出会った頃を」
ゼアルークは、その言葉に目の動きを止めた。そして、しばらくしてセイへ視線を向ける。
「出会ったとき?」
「覚えていらっしゃいますか」
軽く見開かれた瞳が、否と返答する。セイはそうでしょうと微笑んだ。
「陛下はまだ小さかった。私は覚えていますよ。
陛下は病気で会えない母君のことを思って泣いていらした」
「……随分小さな頃のことを持ち出すものだ」
「自分が一人なのだと泣き、一人である母君のことを思って泣き、しばらくして、一人で生きていくのだと呟いておられた。
とても厳しい目をして……」
ゼアルークはその言葉を黙って聞いていたが、書類をめくる手が止まっていた。
「そのときの陛下と、ナキシス様を見ている陛下と随分変わられたと思い、つい」
無表情に近いゼアルークの顔に険しさが加わる。
「私は別にナキシスを」
「柔らかな目でご覧になっておられました」
ゼアルークはセイの言葉をしばらく考え、そして、力を抜くようにしてうつむいた。
「そうなのか」
セイはゼアルークの手から書類を取り、そして、外に視線をむけた。光《リア》は既に立ち去っていた。自分の目に軌跡さえ残さない、脆弱な光《リア》。
「お戻りになりますか、陛下」
「そうだな」
ゼアルークはセイがやってきた方向へ足を向け、歩き出す。セイはその後に続いた。
「セイ。お前は私より幾つ年上だった?」
「いかがなされました、陛下?」
ゼアルークの質問に、セイは内心首をかしげた。
「結婚の話は」
「ありませんが……」
すると、ゼアルークは足を止めて少し振り返る。
「レスタ家は、確か」
「私には兄がいます。兄には妻がいますし、跡継ぎとなる子も。陛下に心配していただけるのは、嬉しいですが」
「そうか……」
ゼアルークはそれ以上問いかけることをやめて、セイを従えて歩き出す。
セイはその背中を見つめた。
出会った頃、その背中はとても小さかった。次期王として必要なもの以外は、遠ざけようとしていた瞳。その深緑に映っていたのは己のみだっただろう。
それが今は、他者を映し、優しい光が揺れる。
『裏切るな。それだけでいい。
誓え。そうすれば、お前が何者であろうと許す』
昔、子供には似合わぬ険しさでそう言った貴方が、今、この時に私に会っていたら……。
いや、今の貴方なら私は必要なかっただろう。
「不安です」
書斎に続く廊下に差し掛かり、セイは呟いた。ゼアルークは足を止めたが、今度は振り返らない。
「不安? 何がだ」
「結婚なさることにです」
ゼアルークはセイを振り返る。微かな苦笑を浮かべていた。
「何も不安になることなどないだろう?」
「……一人を深く思うことに、です」
ゼアルークの表情をセイは見つめていた。ゼアルークは笑みを浮かべたままだった。無理に貼り付けたような笑みだと思った。
「セイ」
「戯言を申しました」
お忘れ下さいと言うと、王は少し目を細めてから、唇を引き結んだ。
「忘れる」
掠れた声でそう言って戻した王の視線の先に、一つの小さな影を見つける。黒髪に紫色の瞳の少女は、王の姿を認めて小さく膝を折った。
「キャニルス」
王が呼ぶと少女は姿勢を正し、年齢にそぐわぬ無表情さで王に告げる。
「チュノーラからフュンランを通して入った連絡を報告に参りました」
焦りを感じられぬ言葉だったが、ゼアルークは直ぐに彼女を書斎に招き入れ、セイ以外の者を下がらせた。
ゼアルークが椅子に座り報告を促すよりも先に、ジェラスメインは口を開く。
「チュノーラにあるターラ山の麓の町、ドゥアーラが魔物に襲われました。住民の半数以上がが死傷。不明者も多数と」
「分宮《アル》の結界は」
「役には立たなかったようです。内部から発生しました」
「何」
椅子に座りながら、ゼアルークはジェラスメインに視線をやる。セイはそんなゼアルークの後ろに控えた。
「魔物は私達が認識している魔物とは異なっていたようです。実体を持たず、されど、人を傷つける力はありました」
「原因は」
「不明です」
「過去に例は」
「ありません」
二人のやり取りを聞きつつ、セイはふと思い出し言葉を足す。
「その町には確か」
ジェラスメインの視線を感じ、あえてセイはそちらを向いた。
「二人目の太陽の娘《リスタル》が」
見事なことに少女の紫色の瞳は少しも揺るがなかった。ゼアルークは冷たい目でセイに視線をやる。
「お前の方に報告は」
「まだです。報告が出来る状態であれば、あと半日後でしょう」
「出来る状態……。ああ……ほぼ壊滅状態、だったな」
王が視線をジェラスメインに戻すと、ジェラスメインは報告の続きを始める。
「首都チュノーラで対応し、応援は不要とのこと」
「応援は要らぬ?」
ジェラスメインに向けられた言葉だった。少女は真っ直ぐに王を見詰め返す。
「ドゥアーラ規模の町、またはその周辺に、充分な光魔術師《リスタ》がいるか、力のある巫女《アル》がいるか、心配です」
「他の町に、同じ現象が起こると思うか」
「用心に越したことはありません」
「そうか? 『二人目』は1人しかいないがな」
王の言葉に、ジェラスメインは目を細めた。
「『二人目』が原因だと思われぬほうがよいと思いますが。月の娘《イアル》の跡も追えてはいません」
「……そうだったな」
ゼアルークはセイに目を向けた。
セイはそれに首を振る。
「申し訳ございません」
「充分に力のある光魔術師《リスタ》が足りないな、ジェラスメイン」
「現地に行けば、まだ何か分かるかもしれません」
「チュノーラが許さないだろう」
「何が原因であるか、それだけでもはっきりしていれば、力を集中させることができるのでしょうが」
「次を待つか。それともセイへの報告を待ち、対応を考えるかだ。
ルスカ、ナスカータへ警告を。
そちらが足りるか足りないかを判断させよう」
ゼアルークはそう言ってジェラスメインに指示を出す。そして、帰り際に彼女にセアラに伝言を頼む。
「最高魔術師が動くでしょうか」
ジェラスメインが書斎から出て行った後、セイがゼアルークの背に問いかける。ゼアルークは鼻で笑うと、こつりと机を指先で叩いた。
「素振りぐらいはするだろう」
そして、そのままセイの持ち込んだ書類に没頭し始めた。
セイは視線をそっと窓の外へ移す。赤い花が揺れている。散り際の大きな花びらは、明日にでも全て大地に落ち、踏みにじられ、朽ちる。
その危うさが、今はセイの心をゆっくりと叩いていた。
迷いがある。『王』のためか、『ゼアルーク』のためか。
『裏切るな』
その言葉は、どちらのものだったのか。
そして、その望みを、私は本当に叶えることができるのか。
揺れていた赤い花の花びらが、一片、ゆっくりと落ちていった。
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