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視界の端で揺れる赤い色。その色はあの人の瞳の色。
強い風が通り抜けた後、ナキシスはその色に惹かれるように足を止めた。大きく咲き誇る赤い色の花が、ナキシスの思いも知らずに揺れ続けていた。
王宮の庭の花を、庭師以上に気にかけているその人は、時間さえあればこの庭のどこかに佇んでいた。
その姿を遠くから見るのが好きだった。花を見つめているその人の瞳が好きだった。その赤い瞳にある、誰も立ち入らせないための表面的な優しさと、立ち入ろうとしたものを拒絶する冷たさが、そのときだけは取り払われていた。
それを横からそっと見つめる。
だけど、その光は、私に向けられた瞬間、優しさと冷たさによって再び覆い隠されてしまう。
決して自分に向けられないその光を、私は追い求めている。
彼をこんなにも恋焦がれているのは、決して私には向けられないその光を、得たいと思っているだけなのかもしれない。
白い可憐な花が、赤い花の影で揺れている。
ナキシスはしばらくその動きを目で追い、視線を地面に落とした。息を吐き出し、再び辺りを見回した。
(いない)
もう拒まれた思いなのに。
それでも、会えば優しく微笑んでくれる。その優しさにだけでも触れていたくなる。
何故と自分に問うと帰ってくる言葉は同じだった。
(『懐かしいから』)
自分の中から溢れる答えを、自分が一番不思議に感じていた。
何故、懐かしいの?
あの人のことを知ったのはつい最近なのに。
(とてもとても遠い昔から、知っている……気がする)
ナキシスは物思いに耽りかけて、怪訝そうな侍従の声で我に帰る。
「ナキシス様?」
たった一人だけ供に連れている侍従に、ナキシスは頷いた。
「ごめんなさい。花がとても美しくて」
「本当に。陛下にお許しを頂いて譲っていただきましょうか?」
ナキシスはしばし考えて、首を振った。
「香りがきつくて、ダライア様のお体に障らないかしら?」
「そうですわねぇ……。では、お部屋に飾るためにいただきますか?」
無邪気に微笑む侍従に、ナキシスは微かに頷いた。
「帰りに寄りましょう。……私が摘んでも良いかしら」
「それは……」
「陛下はきっと、許してくださるわ」
にこりと微笑むと、侍従は少しだけ頬を赤らめて微笑を返してくる。
「そうですわね。ナキシス様なら」
はにかむ侍従の思いの奥に、きっと自分と陛下の仲睦まじい姿が映っているのだろうと、ナキシスは予想する。
陛下と会う回数が増えた。何を話すわけでもない。話したことを覚えている訳ではない。ただ、その回数を重ねるごとに周りの視線が変わっていくだけだ。
そして、ナキシスはそんな侍従を促して、足を進めた。今日は大地の娘《アラル》のご機嫌を伺いに行く途中だったのだ。
「珍しいこと……」
大地の娘《アラル》の私室に通されると、目の前の老女は皮肉と解釈されそうな台詞と一緒に、嬉しそうに目を細めた。
その視線の先で、ナキシスは髪を揺らしながら小さく頭を下げる。
「申し訳ありません」
「近くに。ナキシス」
老女は侍従の手を借りて、寝台の上で身体を起こした。
ダライアが倒れて直ぐに面会したときよりも、その線は一層儚い。
差し出された椅子に座り、ナキシスは師に教えを請う弟子の従順さで老女の顔色を伺う。
「お元気そうで、安心いたしました」
ナキシスがそう言うと、ダライアは微笑んだ。世辞の言えぬ娘が言う世辞に笑ったのか、世辞の言えぬ娘だからこそ、その言葉に喜んだのか、ナキシスには計りかねた。
自分はどちらの意味で言ったのだろうと漠然と考える。
おそらく本心だった。
『思ったよりは』という言葉を隠してしまったけれども。
ダライアはゆっくりと息を繰り返すと、かすれたような声でナキシスに語りかける。
「大地の娘《アラル》・月の娘《イアル》不在では、貴女の任は重いな」
「私と陛下の式が近いことが、少しでも民の気を紛らわせているようです」
ふとダライアの顔色が翳った。それを不思議そうに見つめながら、ナキシスはダライアの台詞を待つ。
「そう……。もう直ぐ、だったか」
「もう20日もすれば」
翳りはゆっくりと引いていく。
「では、それまでは元気でいなければね……」
明るい声と微笑みは、その後ゆっくりと消えていった。そして、一番側に仕えていた侍従頭に顔を向ける。視線だけで全てがわかったかのように侍従頭は部屋の後方で控えていた侍従たちをつれて出て行った。
ナキシスも自分の侍従に目配せをする。急に静かになったことと、ダライアに手を握られていることが、ナキシスを不安にさせていた。その不安を感じ取ったのか、侍従はしばしそこに留まる様子を見せたが、ダライアの視線に負けて慌てて一礼して出て行く。
「ナキシス」
低く諭すような声だった。ダライアは宮の長を勤めてきた時間が長い。娘達の中で一番の年長者が受け継ぐものだが、ダライアほど長くその座にいた娘はいないだろう。
「本当に良いのか」
一瞬何のことを言われているのかわからず、ダライアの顔をじっと見つめ返してしまう。
いつもの『ダライア』ではない。
大きな違和感は、大地の娘《アラル》をその顔に感じていないところにあった。
大地の娘《アラル》という立場を捨てたとき、ダライアがナキシスに聞きたいことなど限られている。
ナキシスはそれを感じ取ったが、聞き返した。自分は太陽の娘《リスタル》であるから。
「本当に、良いとは」
「結婚」
「勿論です」
「陛下を、愛しているのか」
「……敬愛、しております」
「では、ゼアルークは」
「同じことです」
「違うな」
重ねるような言葉の後に一呼吸おいて、ナキシスは静かに、けれども強く言い切った。
「……この結婚に、必要の無いことです」
その言葉に、ダライアははっきりとため息をついた。それに構わず、ナキシスは続ける。
「陛下と私の結婚は、契約です。私の肩書きが増えるだけのこと。それが、私の務めです」
「……双方が、そう思えばだろう」
ナキシスは眉を寄せた。不審と不快をあからさまにした表情をダライアにぶつけたが、ダライアは気にかけなかった。
「ナキシス。
貴女は『娘』であることをどう思うのだ」
「務めです」
「では、今の状況をどう思う。
太陽の娘《リスタル》が二人。月の娘《イアル》の不在。そして、魔物の出現……」
「何が起ころうと、私の務めに変わりはありません」
「無駄だとしてもか」
「大地の娘《アラル》のおっしゃることだとは思えません」
「貴女が陛下と結婚しても、一時的な対処にしかならなくとも」
「それでも、それが太陽の娘《リスタル》としての務めであれば」
言い切ってナキシスは、ダライアを強く見つめた。ダライアは、その視線から逃れるようにして、視線を手元に落とす。ナキシスもそれを追う様にしてそこを見つめた。
自分の手と、ダライアの手。そこにある何十年もの隔たり。そこにぽつりと、ダライアの声が落とされた。
「私は随分長い間、大地の娘《アラル》を勤めてきた。私は大地の娘《アラル》であったが、大地の娘《アラル》が私であったわけではない……。
それに気付きながら、私に向けられる純粋な笑顔から受ける安寧を、その思いとすり変えてきた」
ナキシスはダライアの手を痛いほどに握り返した。瞬きを忘れ、ダライアを見つめる。
「……その話は聞きたくありません」
掠れた声にこもる懇願を無視するように、ダライアは言葉を続ける。
「貴女のことを言っているのではない。……私の遺言だと思って聞いて欲しい」
それでも聞きたくないと叫びかけて、ナキシスは堪える。一瞬頭に迸った怒りとも焦りともいえる感情を、段階的に再び抑えていく。
「言葉」をただの「言葉」として頭に蓄積していく準備をする。
そこに感情を感じなければいいこと。
瞳の光を冷まして、ナキシスはダライアの手を握り締める力を緩めた。
そっとダライアがため息をつく。
「貴女は……そうやって守っていくのだな」
微かな呟きをナキシスは、『遺言』には含めなかった。ダライアの言葉の先を、視線を落としてじっと待つ。
「ナキシス……。人を愛したことがあるかい」
「……いいえ」
「では、セアラのことは」
弾かれたように顔を上げ、そして、後悔をする。穏やかな瞳を見てしまった。
「好きなんだね」
ナキシスはゆっくりと視線を落とした。今のやり取りを無かったことにしようとする空気と時間が流れ、ダライアは言葉を続けた。
「私は恋をしたよ、彼に。
そのときだけは、大地の娘《アラル》であることを恨めしく思った。その思いを自分の中で殺していくことはとても困難だった。
彼には何も言わなかったよ。
だけどね。私の彼を慕う思いと、それを抑えられない自分への苛立ち、それを抑えなくてはならない大地の娘《アラル》という立場。それを期待する民への煩わしさ……、それは彼にはお見通しだった」
ナキシスはうつむく自分の頭に、ダライアの視線を感じた。だが、顔を上げなかった。
「彼にはこう言われた。
自分にも長い間孤独な期間があった。
押しつぶされそうな孤独を救ってくれたのは、人の愛だった。
人を愛することは、義務ではない。
君は、義務のために人を愛しているのではない。
君が人を愛せる人だから人を愛し、人から愛を得られるのだと」
ダライアの手が、優しくナキシスの手を擦る。
「だから、その思いは殺す必要は無いんだと」
ナキシスは顔を上げていた。
これは『遺言』。
ただの『言葉』だ。
「彼が私を受け入れてくれたわけではない。
彼にはとても大切にしている大きな愛があって、そこに少しだけ居させてくれただけなんだ。
たった一人にはなれなくとも、彼は私を愛してくれた。
それは、私の生涯の中でたった一つの『ダライア』という証であったろう」
「何を……おっしゃりたいのか分かりかねます」
「……ナキシス。私は貴女に義務で結婚という選択をさせたくないのだ。そんな顔をして、これ以上『役目』を背負わせたくはないのだ。
ちゃんと、ゼアルーク王を見て欲しいのだ。『王』と『娘』の結婚ではない。『ゼアルーク』と『ナキシス』の結婚だと。
そうして、考えて欲しいのだ」
「だって『王』と『娘』の結婚ではありませんか」
「それでは、双方が不幸になるだろう?」
「ただの契約です。不幸にも幸福にもなりはしません。今までと何が変わるというのです。
愛することも、愛される対象となることも求められてはいないのです」
ナキシスの言葉を受けて、ダライアは口をつぐんだ。そして、思い切ったように言う。
「ゼアルークが、貴女を見ようとしていたら」
「……ありえないことです」
震えた。
「私は『ナキシス』であることなど望んではいません。
どうして、太陽の娘《リスタル》でいてはならないのです。
今だけで構わないのです。
私が太陽の娘《リスタル》であればいいのです。
私の後、誰が太陽の娘《リスタル》になろうと興味はありません。
今、このとき、私が太陽の娘《リスタル》なのです」
「ナキシス」
そのために『在る』ことを、
望んで、
望んで、
望んで……。
息をしてきた。
(そう『ナキシス』。私は……)
目を堅く瞑る。
(私は……そう望まれていた。望まれて生まれてきた)
目の奥に浮かぶ、狂おしいぐらい愛しい赤い瞳。
求めたくて、帰りたくて、手に入れたくて、仕方なくなるその存在。
細く長い指先。
小さく刻まれる唇の笑み。
契約の口付け。
そうか……。
力が抜けた。
(そうか……)
「ダライア様」
ナキシスはゆっくりと顔を上げる。感情を脱ぎ去った冷たい瞳と表情で、ダライアを見つめた。
「私には、義務なのです」
ダライアの瞳に浮かぶ光が、軽い失望に変わっていくのを見つめていた。諦めてくれた印は、ナキシスにとってはこれ以上無い喜びだった。
(貴女と私は、違う)
「お時間頂きありがとうございました。
お体に障るといけませんので、私はこれで失礼いたします」
「ナキシス……」
ナキシスはそっとダライアの手を外させると、深々と一礼をしてその部屋を後にする。
ダライアの目は見なかった。
金と銀の不均等な光。
それを見てしまえば、この胸の微かな苛立ちを形にして、認めてしまう気がしていたから。
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