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I 風の泣く声 |
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嵐の音がした。
この山沿いの町では日が落ちるのは早く、急激に暗くなることを知っていた。しかし、今日の日の落ち方は異常だった。
ユセは宿へ引き返す足を止めた。
空を見上げて目を細めた。
得体の知れない胸騒ぎを感じさせる暗さを見つめていると、自分の目を疑うような現象が起こり始めた。
視界にぽつりと浮かんだ黒い点。それが、震えながら大きくなっていく。
何かが近づいている。背中に走る緊張感と共にそう思ったのと、裂くような悲鳴が上がったのが同時だった。
あまりにも大きな悲鳴に思わず耳を塞ぎかけたユセだが、周りの人間の反応が全く無い。
ユセの重苦しい思いを嘲笑うかのように、家路を急ぐ人々は幸せそうに見えた。
その悲鳴が自分の耳にしか届かない、風《ウィア》の悲鳴であることに気付いて、ユセは周りを見回した。
目の前を歩いている薄茶色の髪の少年。
自分の息子と同じぐらいの姿形に、思わずユセは声をかけた。
「早く……」
逃げろと警告しかけたユセの目の前を、黒い影が横切った。
少年は何が起こったかもわからないまま地面に転がっていた。
急に道端で倒れた少年を、周りの人々が見つめる。その倒れた少年の背中にのしかかった黒い影が、何者なのか認識するには時間がかかった。
少年の倒れた体の下に、染みが広がっていくのさえユセはまじまじと見ることが出来た。見た瞬間に毛が逆立つような嫌な色だった。
周りの空気に完全に支配されたユセも、動くことができなかった。
「まもの」
そう呟いたのは誰だったのか。
その言葉を聞いた途端、再び時間は流れ出す。
黒い影が咆哮をあげた。
逃げ惑う人々の悲鳴が新たな災厄を呼ぶかのように、黒い影は次々と現われる。
ユセは少年の上に居座ったままの影と対峙していた。ユセは左手を少しだけ動かす。
囁いただけだった。
彼の周りの風は刃になり、その黒い影を引き裂く。
ユセの想像以上のあっけなさで、その影は四散した。
風の悲鳴はまだ続いていた。
声にならない声で、ユセにしかわからない言葉で訴え続ける。
悲鳴と喧騒。
それに血の臭いが加わり始めた。
ユセは風の声のする方向へ駆け出した。
助けを求める声に、表情の険しさを深め、断末魔のような人の悲鳴から意識をそむけながら、ユセは走った。
嵐の音。
その先に、この全ての元凶がいることを知っていた。
ミラール。
彼を巡っていた風《ウィア》が、泣き叫んでいる。
助けを求めるようなその声はゆっくりと、諦めに変わりつつあった。
人々は魔物に襲われながらも、分宮へ向かっていった。その流れに逆らうように、ユセは走り続ける。
人々はそんなユセを障害物程度にしか思っていないだろう。
老人を先導する若者。子供の手を懸命に引っ張る母親。妻子を抱きかかえ、守り、襲ってくる魔物を振り払いながら逃げる男。
老若男女関係なく、無差別に襲う魔物たち。
(守りがない)
分宮の結界など、意味が無い。もう破られているのだから。
そして、守る人々もいない。
分宮の巫女たちや兵士達が、この事態に対応できるとは思えない。
黒い影、黒い点を風で引き裂きながら、ミラールの元へ向かうユセには、いくつもの救いを求める手が差し伸べられた。それを苦い思いで振り払いながら、ただ風の泣く場所へ足を進める。
一歩一歩歩む度に、重苦しい思いがついてきた。助けられない人への悔恨のせいなのか、近づくほど重くなっていく風《ウィア》の嘆きのせいなのか。ユセの心に重い塊が出来上がったころ、ミラールの姿の見える場所へ辿りついた。
彼はうつろな瞳で空を見つめていた。
彼の周りには渦を巻く風しかなかった。
抉られた地面。その向こうには大きな力で潰された屋敷の痕が見えた。
「ミラール……」
意志をもった一筋の風が、かろうじて彼の周りに耐えるように残っているのを見つめる。
彼の中にあった風《ウィア》。長年、彼の本質を隠し通してきた風《ウィア》とは別に、あの少女が残した契約の風《ウィア》。
この殺伐とした状況下で、あの少女の響きを与えられた風《ウィア》は、一筋の奇跡に見えた。
「風《ウィア》」
命をかけた魔術は、ミラールのその源に食い込んでいる。
長い間、声という響きと引き換えにして風《ウィア》に近づいたユセの血だからこそ、見える軌跡である。
彼の中心にある闇《ゼク》の塊を封じて、しばらくの間押さえることが出来るだろうか?
ユセは大きく息を吸うと、拳を握り締めた。
「《ディス・ユセ=ダルト=カイネ》」
ユセは腰に下げた袋の中から小さな刃物を取り出すと、自分の指先を傷つけた。
一滴の血を風《ウィア》がさらい、空に飛ばす。
「《ケルタ・ケスタ・ウィタ》」
そして、その傷口を舐め、舌に血を行き渡らす。
「《カイネ・シスタ・ルスカ・カー・ウィタ》」
目を細める。
最後の言葉を口にしようとしたとき、ミラールがゆっくりとこちらを見た。
こちらを見たとは言っても、その目には何も写してはいない。
「ミラール……。《ウィタ・ラン・ゼクタ》」
ユセの言葉を受け、風は急速にミラールの中心に集まった。そして、ユセの響きを糧に力強くなり、抵抗するような力を押さえ込んで、収束していく。
闇《ゼク》が緩んだ。
そう感じたとき、風は静まり、同時にミラールが地面に倒れこむ。
ユセは彼に駆け寄り、膝をついて覗き込んだ。
「ミラールさん?」
答えはないことが分かっていても、ユセはそう声をかける。ミラールは目を堅く閉じて、眠っていた。
苦しそうに寄せられた眉間の皺と、土にまみれた頬を流れ落ちたような涙の痕に、ユセは悲しい目を向ける。
弱弱しく打つ脈を確認し、ユセはうなだれた。
「……こんな方法でしか、救えないのですか……」
ミラールを抱きかかえ、その顔の汚れを小さな布で拭いとって、天を仰ぐ。
「貴方を愛し、貴方が愛した子でしょう!? セアラ!!」
答えなどない。
ただこの響きがあの魔術師に届くことを願っていた。
穏やかな町は静けさを取り戻していた。
その静けさは数え切れない嘆きが作り出したものだったけれど。
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