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◇
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「暗くなる前に、帰らないとな……」
そう言ってから、時間が経っていた。
離れがたいと思っていたが、どちらともなくその場に立ち上がる。
「そう、ね」
目の前の山がざわめいた。
一斉に鳥が飛び立ち、羽音があたりを支配する。
驚いて身体を振るわせるエノリアが、空気の重みを感じて振り返ると、そこには。
黒い影。
「ラン!」
「町からだ……。何故!」
溢れる魔物たちは、山からではなく町からこちらへ向かってきているようだった。
狼のような形のもの。空を飛ぶ鳥のようなもの。
硬直するエノリアを背中に庇い、ランは剣を振り下ろした。魔物は四散した。
今までの魔物とは違う。実体がなく、掻き消える。だが、数が半波ではなかった。
「走れ! システィラまで!」
ランがそう言って、町からきた魔物たちの前に立ちふさがる。剣が振るわれ、その空気を聞きながらエノリアは愛馬の元へ駆け寄ろうとした。
だが。
「ラン!」
黒だかりが出来ていた。普段滅多に聞くことのない嘶きを耳にして、エノリアは震えた。
「走れ!」
手首を掴まれて、エノリアは引っ張られる。
町の方へ走ろうとしても、魔物たちはそちらを封鎖する。まるで山へ追い込むかのように。
「ラン、山へ」
「何を」
「……ターラよ。そう。ターラだわ!」
確信めいたエノリアの言葉に押されるように、ランは山へ走りだした。
襲ってくる魔物を剣とそこから発する地の気で振り払う。
そうしているうちに、後ろから力強いひづめの音がした。
「ラルディ!」
追い越し、ランを待つようなラルディに飛び乗る。エノリアを引き上げた。
「いけるか、この山」
ラルディは返答するかわりに低くいななき、駆け出した。
「ちゃんと捕まってろよっ」
自分の身体に手を回させて、その手に左手で触れた。エノリアはランの肩越しに、山の奥を見つめる。
ターラ。
不可侵。
それは、おそらく魔物にとっても。
そして、呼ばれている気がした。
遠いところから。
落雷のような音がして、ラルディが突然、いなないて崩れた。その衝撃にエノリアが落馬し、ランはそれを庇うように落ちた。
興奮したラルディはなんとか起き上がった。だが、その足に怪我しているようだ。ランはエノリアを立ち上がらせ、足を引きずりながらも、まだいけるという風に鼻を鳴らすラルディの首を撫ぜる。
そして、先ほどからラルディが気にしている先を見つめた。
地面にえぐられたような穴が開き、その向こう側に長身の男の影があった。
ザクー。ランは剣に手をかける。
「ラン」
「下がってろ」
警戒するランに向けて、ザクーは少しだけ笑った。何も持っていないということを示すように両手を広げる。
「ちょっとつらいな、ここは」
あらわれたザクーがそう言う。
「ここは、とても排他的な場所だ。特に、闇《ゼク》に」
「あれは、お前の仕業か」
「違う」
ザクーは首を振った。
「影、だったろう? 物理的な力は持つから、攻撃されたら死ぬかもしれないが。
でも、ちょっとしたことで四散する。
もちろん、消えてしまうわけじゃないから。すぐにまた戻ってくる。放っておけば、実体を持つ」
「何が起こっている」
ランの言葉に、ザクーは笑った。
「それを俺に聞くか。
あんなに側に居たのに、ずっとわからなかったのか」
「側にいた?」
「ミラールだよ」
「ミラールが?
これはミラールが引き起こしてるっていうのか」
「知らなかったのか」
「……ミラール……が?」
エノリアの短い悲鳴で我に返った。ザクーが踏み込む瞬間をランは見た。エノリアを下がらせるか、自分が踏み込むか一瞬迷う。
空にひらめくザクーの腕。それが空間から一振りの剣を取り出す。ランは反射的に剣を抜き、受ける。目の前ではじけた閃光と衝撃に片目を瞑った。
押し返す。ザクーが長い軌跡を描いて退いた。
右手に痺れを感じながら、ランはザクーを睨みつける。ザクーは剣を鷹揚に構え、笑った。ランは構えなおした。
「どけろ、ザクー。
それなら、ミラールの元に戻らなければ」
「戻らなくてもいいだろう?
これは異常事態なんかじゃない。
『全て』が本来の姿を取り戻しただけだ。
光《リア》も闇《ゼク》も、ミラールもな」
踏み込むザクー。合わせてランも踏み込んだ。今度はどちらが優勢とも無く、剣を合わせる。その力を利用して後ろへ飛んだザクーが空中で左手を振りかぶった。
「《アルタ・ディス・トヴァ》」
小さく呟き、ランが結界を張る。ザクーが飛ばした力は、跳ね返ってまっすぐに彼へ飛んで行った。
それを避けて、ザクーはランから離れたところへ着地する。
「やっぱり、ここで闇《ゼク》の力を使うのは難しいな」
そう言って、ザクーは剣を構えなおした。
「『失われた神殿』がある山だからかな」
ランは不安そうなエノリアに視線を向けた。エノリアはラルディの首を抱いたまま、ランへ頷いてみせる。大丈夫だというように。
「本来の、姿って何だ?」
ランがそう聞くと、ザクーは首をかしげた。
「知らないのか?」
「知らないな」
「二人の太陽の娘。その光と対になる闇《ゼク》。
その闇《ゼク》から生まれる魔物。
この3つがあるから、この世界は均衡を保っている」
ザクーはそう言って、自分の胸に手を当てた。
「二人の太陽の娘。闇《ゼク》から生まれたもの。
それが存在する世界。
それが本来の姿」
ふとザクーは視線を落とす。
「つまり、今の状況は至極当然なことだ」
「闇《ゼク》から生まれたものが、人を襲う世界がか」
「そう。
だって、闇《ゼク》は人の感情と同調する。人の願いと同調する」
ザクーは嘲笑を浮かべた。
「人が人を憎まない瞬間なんて、ないだろう?」
「……それが本来の姿だと」
ランがうめくと、その目の前でザクーが悲しそうに微笑んだ。
「シャイナの願いから一番遠い世界だ」
「そうよ。シャイナはっ!? シャイナはどこにいるの!?」
「君には、わかるんじゃないか?」
ザクーはそう言って、首を傾げる。
「……死んだよ」
「嘘」
エノリアが言葉を返す。ザクーは真面目な顔で、もう一度言った。
「死んだ」
「嘘よ。存在を感じるもの!」
「散じてはいないからさ」
ザクーはそう言って、胸に手を当てた。
「ここに、いる。
シャイナの光《リア》は、まだここにいるから」
「どういうことよ。どういうことよっ! ねぇ?!」
前に出ようとしたエノリアを、ランが止めた。
「あなたは何を!?」
「俺は、シャイナの願いを叶えたいだけだ」
ザクーは剣を一度振りおろし、切っ先をランに向けた。
「イマルークを呼び、この世界をまっさらにする。
全ての均衡が保たれ、全ての人が悲しむことの無い世界だ」
「それはこの世界が、無くなる、ってことか」
ランがそう言うと、ザクーは首を傾けながら、微笑んだ。
「心配するのは自分のことじゃないのか?
イマルークを呼ぶのに、一番邪魔なのは」
きらりと光る剣。ランを重い気が縛る。
「『ラン』だ」
気を散じさせるので反応が遅れた。懐に踏み込まれ、ザクーの剣をかわしきれない。脇腹を掠めた剣、一瞬の差でランは身体を捩る。痛みに顔をしかめながら、自分の背後で剣を抜こうとしたエノリアを止める。
「よせ!」
ザクーは一旦間合いを計り、ランに打ち込む。ランの脇腹に血がにじみ、エノリアが蒼白になった。
「ラン!」
「逃げろ」
「そんなことできるわけないじゃない!」
ランはザクーの剣を跳ね返した。強く息を吐き出す。
「逃げろ!」
「無意味だよ、ラン」
ザクーは一旦剣をその手にぶら下げるようにして持った。
「俺が殺したいのはお前だから」
「……その後は、エノリアだろう」
ザクーは返答の代わりに笑った。
「殺しはしないがな」
ランはザクーの元に飛び込んだ。地面に手を着く。
「《アラル・メル!》」
耳を劈く轟音と共に盛大な土煙があがった。ザクーはその反動で後方に飛ばされ、それを追いかけるようにランが走り出す。エノリアが沸き起こった土煙からかばった顔を上げたとき、二人の姿は目の前から消えていた。
ラン!
微かに剣を合わす音。それをエノリアは追いかけようとした。止めるようにいななくラルディを振り返る。
「ここにいなさい。怪我をしてるんだから!」
どんどん遠ざかる戦いの気配を、エノリアは必死に追いかけた。剣がぶつかり合う音が、いろんな場所から聞こえている。近くだと思ったら遠くなったり。自分の心臓の鼓動と剣の音と、耳鳴りのようにうねっている。
目の前の重なる木々の間で、何かが光った。同時に剣がぶつかる音が今までに無く強く聞こえる。
逃げろといわれた。
頭では分かってる。だけど、それで逃げられるほど聞き分けがいいわけではない。
それにさっきからしているこの胸騒ぎは!
ちらりと見えた黒髪が、どちらのものかわからない。
エノリアは剣を抜いた。
力にはなれないかもしれない。
それでも。
続く低木の茂みを抜けた。
その先が細い木々と茂った草で視界を遮られていたが、深い谷になっていることに気付いて、エノリアは一瞬足を止める。その目の端で光が走った。
ザクーがランの気を反らす為に、放った闇《ゼク》波動。それがまっすぐにこちらに向かっていた。
それほど大きくない。
そんなことをエノリアは思った。
危険が迫っているとき、全ての動きがゆっくりに見えると聞いたことがある。それはきっとこんな感じなのだろう。
逃げることもできなかった。
立ち尽くしていた。驚いたような黒い瞳に、笑みが浮かんだのも見えた。何かに満足しているような笑み。
私でもよかったんだ。
そう思ったとき、目の前を黒い影が覆った。視界はそこで反転した。
気付いたとき、全身が地面に叩きつけられていた。
右腕と右頬、右足に走った痛みを感じ、そのあとに自分が地面に倒れていることに気付いた。
目の前に手を差し出される。
目の前を覆った黒い影。
そして、地面に叩きつけられた自分。
その意味をつなげようとしたが、何が起こったのか、よくわからない。
「大丈夫か?」
降りてきた声は、ランのものではなかった。差し出された手を見つめ、そして、見上げる。
さっき、笑っていた黒い瞳が、まだ笑っていた。
「大丈夫か? エノリア」
エノリアは、痛みを忘れて立ち上がった。立ち上がった瞬間に、思わずよろけてしまう。それを気遣うように差し出された手を振り払った。
「ランは……」
ランがいなかった。
ザクーがくすっと笑う。
「さぁ?」
その後示された視線の先は、谷だった。駆け寄り、膝をつき、底をのぞいてみる。暗くなった上に木々と、白い霧に遮られよく見えない。細い木の枝が折れ曲がっている。その後は白い霧の中へ続いていた。
「ラン!」
叫んで返事を待つ。急な傾斜だが、木が緩衝となっているはず。落ちても、きっと、助かる。
願うように自分に言い聞かせた。だが、その谷底にむかって名前を呼ばなくては気がすまなかった。
迫っていたあの力をランは受けたんだ。その衝撃は自分にも伝わってきた。その後、ここを落ちていった。
なんでもいい。声が聞きたかった。
無事だという声が。
「助からない」
ザクーのエノリアの願いを踏みにじる言葉も、谷を睨みつけながら聞いていた。ザクーはその場にしゃがみこみ、そんなエノリアの肩を抱く。
「一緒に行こう」
優しくささやいた。
エノリアは深い谷を見つめている。
「一緒に行こう、エノリア」
「気安く触らないで」
そう呟くと、エノリアは自分の肩からザクーの手を振り払う。そして、ランと色の違う瞳を睨みつけた。
「一緒に行くはずがないじゃない」
「俺はランになれるから。
そのために生まれてきたのだから」
「性質の悪い冗談ね」
「ザクーという名前を捨てて、お前のために『ラン』になれる。
そうすれば、寂しくないだろう?
あいつが死んでも」
「決め付けないで!」
エノリアは、すくっと立ち上がり、振り返った。
金色に強い光。その光にザクーは一瞬気おされ、そして笑った。
「綺麗だ」
エノリアは目を乱暴に拭うと、真っ直ぐにザクーを見つめる。
「ランは死んでいない。
貴方がランと関係するというのなら、それぐらいわかるでしょう!?」
「だから、言うのさ。
死んだと」
「嘘よ」
「本当さ」
「嘘」
ザクーは肩をすくめた。
「本当のことだと、何度言っても分からない、か」
「信じられると思う?」
エノリアにザクーは手を伸ばした。エノリアはとっさに剣を抜き、その手へむける。
「そんなものは置いて、エノリア。
俺と一緒に行こう」
「行かない」
「この先どうするつもりだ。
ミラールも、ランも。
あの魔術師も側にいない。お前だけで何が出来る。
俺なら、お前の望むことはなんだってしてやれる!
『笑顔しかない』世界を作って、ずっとずっと幸せに生きていけるんだ。
お前に美しい世界をやれる!」
エノリアは、徐々に熱のこもって行くザクーの言葉を聞き終わり、くすりと笑った。
「シャイナの望んだ?」
「……お前は望まないのか」
「『笑顔しかない、美しい世界』?
『素敵』ね」
エノリアはそう呟きながら、足を崖の方へ一歩一歩進める。
何かを思案するように。そして、その際で足を止めて、ザクーを振り返った。
「素敵だけど、興味は無いわ」
そして、微笑む。
「ここに今、存在する全てを。
ここに住む人たちの『今』を、消し去って……。踏みにじって。
それほどの価値があるようには思えないわ」
後ろへ一歩。エノリアの足元で、小さな小石が崖の下へ落ちていった。
「私は、貴方を選ばない。
ランになれる? 冗談じゃないわ」
エノリアは微笑んだ。近づこうとしたザクーを右手で押しとどめた。
何の力も秘めない右手。だが、それは確実にザクーの動きを止めた。
金色の強い光。
それが、彼を近づかせない。
「望まれなければ、その姿で生まれることができなかった貴方とは違うの。
ランはラン。
『ランで居て欲しい』という願いの中で、生きようとする貴方とは違う」
ザクーの眉がぴくりと動いた。険しくなる表情に、エノリアは美しい笑みを返した。
「貴方は、貴方を貴方だといってくれる人を探しなさいよ。
私は、『ラン』がいいわ」
そして、そのまま谷底に身を翻した。
反射的に伸ばしたザクーの手を、何かが弾く。
エノリアの身体は白い霧の中に吸い込まれるように消えていった。
残されたザクーは弾かれた手を見つめていた。
その痛みに顔をしかめていた。
いや、その痛みだったのか、エノリアの言葉に感じた痛みだったのか。
「……手に入らないなら」
エノリアを飲み込んで、蠢く霧を遠い目で見つめながら、ザクーはそこへ言葉を落とす。
「殺して次を待つだけだ。太陽の娘《リスタル》。
もっと従順な……精神を」
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