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 何曲目に当たる曲を吹いていたときだろう。ふと、ミラールは視線を感じた。
 歩いていた人が立ち止まり、こちらへ意識を向ける気配はしていた。それが徐々に増えていく、そういう気配には慣れていた。だが、このような視線を受けたのは初めてだ。
 気になって確かめずにはいられない視線。
 ミラールは瞳を開き、その視線のほうを見定めた。
 幾重かの人の隙間から、ミラールを見つめる茶色の瞳。瞳と顔の一部分しか見えなかった。なのにそこからは気品と美しさが溢れ、はっきりとミラールに存在というものを示していた。
 女性の茶色の瞳が少しだけ輝き、そして、それを押さえ込むように伏せられて、消えた。人ごみにまぎれて消えてしまった瞬間、何かがミラールを突き動かした。
 美しい音の流れが不意に途切れる。
「続きは!?」
 不満そうな声に視線をやった。
 謝る代わりに一礼だけして、振り返る。だが、もう女性の影は見えなかった。
 不審そうに自分を眺める人々の間を縫って、さきほどまで女性が立っていた場所にたどり着いた。しかし、そこにもその先にも彼女はいなかった。ミラールがもう続きを吹かないと感じた人たちは、また日常へ溶け込むように足を動かし始める。
 また演奏してねという言葉に、無意識の愛想笑いで頭を下げながら、意識はいつまでもさきほどの女性を追っていた。
 瞳しか見えなかった女性に、何故こんなに必死になる必要があるのか、自分でもよくわからなかった。
 探すにしても、どんな人だったのか分からない。だけど、多分、あの瞳を見ればその人だとわかる確信があった。
 しばらくあてもなく歩き回り、やはり人影を見つけれずにミラールは立ち尽くした。
 気づけば、息があがっていた。
 繰り返される自分の呼吸の荒さむけて苦笑する。
 その笑いが自嘲であることに気づいたとき、わだかまる思いに残っているのは、馬鹿馬鹿しさだけだった。
 期待を追いつづけ、希望を見せられれば、その先にあるかもしれない絶望に逃げ腰になる。
 だから、すべてに言い訳して。
 ただ、会いたいからでいいじゃないか。
 逃げたいとか、離れられないとか……そのための言い訳にして。
 全部、全部、自分の弱さから生まれてきているだけだ。
 ランもエノリアも、何も悪くない。ただ、自分が弱いだけだ。
 怖いだけだ。
 ミラールは再び笛を手に取る。
 いっそ、捨ててしまおうか。
 これも、全て。
 手を放してしまえば、割れて消えてしまう。割れてしまわなくても、そのまま背を向けて立ち去れば。
 立ち去れば……。
「その笛、吹けるの?」
 後ろから声をかけられて、ミラールの肩が震えた。笛を持つ手に、抜きかけていた力が戻る。
 振り返っても、誰もいない。ただ、手入れされた芝生の庭が、低木の向こうに見えていた。
「私も吹けるかな?」
 下から声がして、ミラールはようやくその声の持ち主に気づいた。きらきらと輝いた目が飛び込んでくる。低木の間から、小さな子供が顔を出していた。
 ふわふわとした茶色の髪と同じ色の大きな瞳。好奇心一杯だった瞳が、ミラールの困惑した目とぶつかった。それは何かを思案する光に変わった。あたりをきょろきょろと見回してから、しばらく何かを考え、思い切ったように顔を上げる。
「お兄さん、もしかして迷子さん、ですか?」
 真剣な眼差しで訪ねてくる少女に、ミラールは思わず笑っていた。
「ううん。違うよ」
 そう言うと、少女の目は再びミラールの笛へ釘付けになる。
 ミラールはその場にしゃがみこんだ。
「これ、吹きたいの?」
「うん」
 ミラールは、あたりを見回す。
「あっちに回れるかな? この格好じゃ吹けないよね」
「うん」
 ずぼっと少女の頭が低木の向こうに消えたかと思うと、すぐに元気よく手を振る姿が現われた。
「お兄さん、こっちです」
 ミラールは少女に笛を渡してやる。
 少女は好奇心たっぷりの眼差しでそれを受け取ると、さっそくみようみまねで口をつけた。
 かすれた空気の音に、瞳が翳っていく。
「これも、やっぱり鳴らない」
 『これも』という言葉に多少引っかかりつつ、泣きそうな少女の頭をぽんぽんと撫でてから、ミラールは手を差し伸べる。
「貸してごらん」
 ミラールはそう言って、笛を受け取るとその場に膝をついた。少女の視線の高さで、笛を吹いてみせる。
「こうやって傾けてね。あまり息は強く吹かないんだよ。
 そぉっと優しく吹き込むんだ」
 吹いてみせる。
 音はたやすく出た。
「ね」
 そう言うと、少女は目を輝かせて見つめている。普通に吹けば音が出ないということを、すっかり忘れてしまっていたミラールには、その少女の驚きと期待の表情が新鮮に映った。
「あの、あのあの!」
 ミラールの腕に小さな手を軽くかけて、少女はこちらに身を乗り出してきた。
「もっと吹いてください!」
 そのあどけない表情に、ミラールは思わず笑みをこぼしてしまう。先ほどまでの暗い気持ちが、すぅっと溶けていくのを感じた。
「いいよ」
 ミラールはその場に立ち上がると、少女ににこりと微笑んでから、唇に笛を寄せる。
 さきほどまで吹いていた優しい曲の先にある、弾むような曲を吹き出した。
 吹きながら、少女の様子を見る。楽しそうに、その曲にあわせて身体をゆすっている。それを見ると、ますます優しい気持ちになった。
(僕は、音楽が好きだ)
 きっかけはこの笛だった。だから、自然に音を紡いでいくことを選んだ。
 だけど、本当はすごく好きなんだ。
 こんな風に聞いてくれる人がいるから。この音に少しでも慰められてくれる人がいるから。楽しんでくれる人がいるから。
 そして、もっと吹いて欲しいといってくれるから。
 だから好きなのかもしれない。
 吹き終わって、ミラールは小さな手を叩いて一生懸命に拍手してくれる少女に、気取って一礼した。
「上手ね!」
 ミラールがにこりと笑うと、その少女の軽くて高い拍手の音に、少し低めの拍手の音が重なった。
 他に観客がいたのかと、ミラールが顔を上げるとその広い庭を持つ屋敷の中から1人の女性が出てきていた。
 その女性は、先ほどまで追いかけていた茶色の瞳を持つ女性だということに気づき、呆然としてしまう。
「ありがとう」
 美しい声だった。高くもなく、低くもなく、ただ心に染み入るような声だと思った。
「先ほど、広場で演奏されていた方ね?」
 優しい茶色の瞳。結い上げられた長い黒髪と黒い服。黒い服には細かな美しい刺繍が入っていて、その上品さを際立たせていた。
 宿の主人が言っていた「ご婦人」。それはこの人だろうと思った。
 ミラールは頷いた。笛を握り締めている手に力が入っていることに気づいた。何か挨拶をしなくてはと思いながらも、戸惑っている自分に気づく。
 挨拶ぐらい簡単だ。微笑んで名乗ればいい。もしくは、拍手に対して礼を言えばいい。なのに、どう言ったらよいのか迷っている自分が居る。こんなことは初めてだ。
「リタさん! 私、このお兄さんに笛を教えてもらいたいの!」
 少女はそう言ってリタと呼ばれる女性の服を引っ張った。
「フェリシャ。でも、ご迷惑が」
「だって、そうしたら、リタさんの代わりにあの笛吹いてあげれるもの!」
 フェリシャと呼ばれた少女はミラールの手を取った。
「駄目かな」
 柔らかな手の感触。小さな手に視線を落としてから、ミラールは困惑するような表情を浮かべている女性に、視線を向ける。
「僕は構いませんが、……貴女の方がご迷惑では」
 そう言うミラールに女性は穏やかに首を振る。細い絹糸のような髪が柔らかく揺れるのを、ミラールは見つめていた。
「そう言っていただけるなら、願ってもないことです」
 穏やかな微笑み。暖かな微笑み。だけど、どこかで悲しそうな……。
どうしてあのときこの人は、食い入るような強い瞳で自分を見つめていたのだろう。だけどその光は嘘のように消えていた。
「どうぞ?」
 もう一度声をかけられ、フェリシャに手を引っ張られるがまま足を進みいれたとき、ミラールは自分の顔がすごく熱くなっていることに気づいた。
「失礼します」
 消え入るような声に、女性は再び微笑んだ。
 心が引き寄せられる。
 そういうことだと思った。それ以外にこの気持ちを表現する言葉を、思いつくことは出来なかった。
 
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