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酷く熱い。
胸の奥が熱い。
叫び声をかみ殺して、口の中に血の味が広がった。
掻き毟りたいのを堪えて、両腕を前へ伸ばす。
……来た。
もう遅い。
汗が噴出し、そして、乾いてゆく。乾いたところから、冷めていく。
目を見開いて、震える女性をにらみつけた。
女性は小さく悲鳴を上げて、壁へ背中を打ちつけた。
自分のした事の重大さに、今更震えている。いや、自分のしたことだということから、逃げている。
その気持ちは、よくわかる。
だけど、あなたのほしいものは、そんなに魅力的なものじゃない。
なのに、罪に手を染めてまで、手を伸ばそうとする。
ああ、でも、それもどうでもいい。
今はただ。
君の事を。
……ラスメイ。
僕の妹。
守りたかったんだ。
君も。
君の大切な人も。
僕の大切な人も。
だから。
だから、僕はこれを選んだ。
この思いは残せるだろうか。
闇《ゼク》は、これを彼女に伝えてくれるだろうか?
大好きだ。大好きだよ、ラスメイ。
とても大切だったから。
だから、幸せになって……。
お母様のことも、僕のことももう構わないで。
君の一番望むことをして。
幸せに、笑っていられるところにいて……。
願いながら、目を上げると、先ほどの女性の姿は消え、代わりに冷たい目の男が立っていた。
ああ……。
あなたも、
かわいそうなひとだ……。
『妹は……そっとしておいて……下さい。父上』
僕のこの姿を胸に刻み込んで。
『あなたの、娘です……』
そして、もう、やめればいい。
このキャニルスにこだわることを。
「……ぁ……シっータぁっ!!」
ジェラスメインはその場に跳ね起きた。
大きく見開いた自分の瞳に入ってくるのは、闇。その次に、うっすらと浮かび上がってくる線。それが家具の線だと認識できたときに、耳障りに繰り返される空気のすれる音に気づいた。
何の音かと耳を澄ませば、それは自分の口から漏れていることに気づく。
大きく呼吸を繰り返している自分の感覚が、徐々に内へ戻ってくる。
「……ラシータ」
口はその名をはっきりと刻んだ。前のめりになり、自分の両目に手を押し当てた。
声が出ない。
空気ばかりが口から漏れて、叫び声にさえならない。
(ラシータ)
繰り返す。声じゃなくてもいい。空気でもいい。自分の内の思いを吐き出さなければ、押しつぶされてしまう。
「お兄ちゃ……」
指の隙間から、自分の方へ伸びている一筋の光が目に入る。寝台の上、窓からこぼれる灯りが作り出す光の道。それで月の高さを知った。そして、ジェラスメインはようやく、自分が今まで眠れていたことに気づいた。
しばらくあたりをゆっくりと見回した。
あの夢をもたらしたものを、その紫の瞳に映し出すために。
闇が落ちている見慣れぬ部屋。
静まり返った屋敷には、空気の動く様子もない。
ジェラスメインは頭を抱えた。
ラシータの気配もない。だけど、あれは間違いなくラシータだった。
ラシータの最期の思念だ。
闇《ゼク》は時に、望む望まずに構わず強い思いをつれてくる。それもしばらくはなかったというのに。
望んだからだろうか? 本当のことを。
ジェラスメインはこくりと喉をならす。そして、寝台から降りた。
まだ、どくりどくりと大きな鼓動を繰り返す胸に、小さな手を置く。目を伏せる。意識的に落ち着こうと、大きく息を吸い、吐き出した。
窓際により、冴え冴えとした月の光に目をやる。
(朧な月が好きだった。柔らかな光だからって……)
『君の一番望むことをして。』
声がした。
その声と、昼間に見た兄の顔が重なる。
今にも置き出しそうな穏やかな兄の顔。
母の微笑。
父の声。
『許されるか許されないかではない、ジェラスメイン』
あんなに嫌いだったあの声が、
『お前が、望むか。
……望まないかだ』
どうしてこんなに優しく聞こえるのだろう?
揺れている。
視界も、誓いも、信念も。
(禁じられた術)
それは、闇魔術師《ゼクタ》として踏み込んではいけない領域。闇《ゼク》を否定しなかった祖母さえも、それだけは固く禁じた。
では何故教えるのかと問えば、知っていなければいけないことだからと答えられた。
だが、それは存在することは事実で、それを行うか行わないかが問題であるのだと。
ジェラスメインは駆け出した。
『望むこと』
その部屋には、たった一度しか行ったことがない。
この屋敷に居たときでさえ、足を向けなかったあの場所に、どうしてこんなにも容易く向かうことが出来るのだろう。
ジェラスメインは自分への問いで頭を埋め尽くした。そうして、全ての感情を排除してしまいたかった。
自分の望むままに足を動かし、そして、その部屋へたどり着く。
重い扉の前で足を止め、そして、その扉へ手をかける。
開かなければいい。そんな思いが頭をよぎった。
この小さな身体で、開けることが出来ない扉なら、自分がまだ子供であることを、初めて喜ぶことができるのに。
だが、扉は開く。
ジェラスメインを待っていたかのように、力を入れずとも音無く開き、彼女を招き入れる。
そうなればあとは容易なことだった。ジェラスメインは足を踏み入れ、その棺の前で止まる。
開かなければいい。
あとは、この蓋が動かなければいい。
そう思ってみたのに、やはり蓋はジェラスメインが手をかざそうとしなくとも、震え、動いた。水《ルーシ》の気が動き、開いた蓋の中へ入り込む。
昼間と同じように、そこに兄は眠っていた。
ジェラスメインはそれを眺める。
『望むことを』
私の望みは、
紫色の瞳に光が揺れた。
これは涙ではない。
泣かない。泣かない。泣かない。
私は小さな子供じゃない! そうであってはいけない。
だから、泣かない。
「私の望みは、『笑顔』」
ジェラスメインは、手をかざす。
闇《ゼク》の波動を感じる。
私は知っている。
その方法を。
その言葉を。
「『笑顔』だよ、ラシータ……」
唇が開く。
望むか、望まないか。
そう。望むか、望まないかだ。
・・・・・・。
微かな音がした。
その音に気を取られ、視線を落とす。
紫の石が目に入った。
フュンランで、大好きな人に貰い、大切な人に首飾りにしてもらった指輪だった。
それをそっと握り締める。
思い出すのは深緑の瞳。
最初に見たとき、とても綺麗な色だと思った。
初めて、嫌われたくないと思った人だった。
『……お前は逃げていない。すごいな……』
(ラン……)
ジェラスメインの瞳にあった紫の光が、急速に和らいだ。
身体から力が抜ける。
「……ルーシ・シア」
ふと、周りの空気が止まった。
ジェラスメインは、兄の顔に手を伸ばした。
冷たい兄の頬に触れる。
硬い頬だ。もう、生きる者ではない頬だ。
そして、顔を上げる。
声を張り上げた。
「ジェラスメイン=ロード=キャニルス・ルーシ・シア!!」
泣いていないはずなのに、それは泣き声だと自覚した。
ラシータの体を守っていた、水《ルーシ》の気配が離れていく。
通常ではありえない冷気が、開け放たれた扉から出て行った。
ジェラスメインは、もう一度兄の顔を見た。
彼の時間はまた流れ出した。そしてもう、同じようにとどめておくことは出来ない。
そこにあるのは、二度と動かない身体だ。
二度と微笑まない身体だ。
少しだけ目を瞑って、そして、ジェラスメインはその場を背にした。
「カシュー!」
部屋を出る間際に、その名を呼ぶ。
と、開け放たれた扉から、長身の影が現われた。
「……はい」
「……セイに連絡を。力になってもらう。兄上の遺体を……調べて欲しいと。あとは埋葬の手配を。……任せていいか?」
「はい」
ジェラスメインはそのまま立ち止まることなく部屋を通り抜ける。
カシューはその姿に一礼しつつ、背中を見送った。
途中、気になって振り返ったジェラスメインが見たのは、まだこちらに向かって頭を下げ続けているカシューの姿だった。
しばらくそれを無言で見ていた。自分が何かを待っていることに気づいて、ジェラスメインは重い息をつく。
振り払うように前を向いて、足早に立ち去る。
膝をついて崩れ落ちてしまいそうな自分を、カシューには見せたくなかった。
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