|
|
|
|
この屋敷の前へ赴くのは、何年ぶりだろう。いや、シャイマルークへ足を踏み入れるのも……。
シャイマルーク国の都・シャイマルーク。王宮を囲む城壁の側に広大な敷地を持って建てられた一つの館がある。蒼天にとけこむような青い屋根と、からむ蔦の曲線さえ計算された美しさを持つ白い壁。その周りを囲う緑の生命力と川のせせらぎ。シャイマルークの王宮魔術師の筆頭を代々勤めてきたキャニルス家の屋敷は、常にシャイマルーク城と宮を守るように建てられた。
シャイマルーク城を守る魔力の要。無論、シャイマルークにはセアラがいる。気まぐれという程度の力ではあったが、あの伝説とされる最高魔術師はシャイマルーク城を守る要だ。それでも、その「気まぐれ」を支えてきたのがキャニルスだった。
特にもう三代前になるノーラジルの代は、その気まぐれなセアラが城から出てしまい、その魔力を支える必要があった。だからこそ、この位置のこの屋敷には意味があった。
その屋敷を、年齢には不釣合いな静けさを湛えて、馬車の窓から紫色の瞳が見つめている。
(弱いものが当主である、今は無意味)
「カシュー」
御者台にいる壮年の男を、そう呼び捨てるのは、その紫色の瞳を持つ少女。キャニルスがその存在を隠そうとしてきた、フォルタのジェラスメイン=ロード=キャニルスだ。
「はい」
「行くぞ」
ほんの少しの抵抗を造作もなく振り切って、ジェラスメインを載せた馬車は、屋敷の玄関へ止まる。予定外の客にあわただしく扉が開いた。
まずに出てきたのは執事……ジェラスメインの執事であるカシューの父。禿頭の老人はカシューを見、カシューによって開かれた馬車の扉から姿を現した影に目をやった。
「ジェラスメイン様」
「久しぶりだ。ハイム」
「お久しぶりでございます」
「父上はいるか」
ジェラスメインはさっさと屋敷内に足を踏み入れようとした。
「ジェラスメイン様! 今日はどのような御用で」
「ここは私の家だ。どのような御用も何もないだろう」
「カシュー」
ハイムは困ったように自分の息子に目をやった。カシューはこくりと頷く。
「戻ってこられたのですよ」
その言葉を聞いて、ハイムはジェラスメインを見下ろす。ジェラスメインは毅然とした態度でハイムと向き合った。
「ハイム。通してくれ」
ハイムは一度瞬いて、ジェラスメインを見つめた。しばらくの間、見つめ、そしてふと微笑む。
「……ノーラジル様によく似ておられる」
その言葉に微動だにせず、ただジェラスメインは彼を見つめていた。ハイムは一礼して屋敷への道を開け放した。
ジェラスメインは背筋を伸ばし、玄関の扉を入ってすぐの広間まで一気に歩いた。そして、足を止める。目の前にあるまっすぐ二階へ伸びた階段の上に人の気配を感じた。その顔を上げると、そこには二つの影があった。
一つは自分の父デュラムのもの。もう一つはこのキャニルスの次の当主に確定されたばかりと義理の姉・ラーデイルのもの。少しおびえたような光を浮かべた義姉の瞳に対し、父の瞳は一遍の動揺もない。
昔感じたのと同じく、その影は大きかった。その魔術の力は自分より弱い。だが、張り詰めた空気と硬質の暗い瞳が持つ力は重くのしかかる。
ジェラスメインはその重圧に耐えるように父をにらみつけた。
「ただ今、戻りました。父上」
その言葉に父は少しだけ目を細める。
「戻った?」
掠れたような低い声に、畳み掛けるように声高に返す。
「戻りました」
「お前は自ら望んでこの館から出たのだろう? それを戻った、と」
「ええ戻りました。キャニルスの当主の座を頂きに」
単刀直入な言葉に、ぎょっとしたのは父の斜め後ろに控えていた義姉だった。父はことさら驚くこともなく、黒色の瞳をジェラスメインに向けている。
「ジェラスメイン様」
あまりの率直さを咎めるカシューを無視して、ジェラスメインは一歩前へ出た。
「頂きたいのです。父上」
「……たかだか10歳の娘に務まると?」
「たかだか中級程度の魔術師に、務まる座だとは思われる?」
そのジェラスメインの言葉に反応したのは義姉であった。
「黙れ! 闇魔術師《ゼクタ》が、よくこの館に足を踏み入れることができたものね!」
「外の結界を張られたのは、義姉上か。よく出来た結界だ」
ジェラスメインはそう言いながら、睨みつける。
「小さな魔物程度なら追い払えるだろうが、私には無理だ。私はフォルタだ。上級の風魔術師《ウィタ》でもあり、水魔術師《ルシタ》でもある。ご存知なかったか」
「なっ」
「もっと強い結界の張り方をお教えしよう。私は結界の方は苦手だが、さらによく効く言葉を知っている」
義姉は助けを求めるような視線を父へ向けた。
父はその視線に答えずに、ただ静かに言い放った。
「当主はこのラーデイルと決めている。少々、遅かったようだな」
「一つお聞きしたい。父上」
ジェラスメインの小さな拳がぎゅっと握られた。
「……兄上は何故死んだのです」
「……事故だ」
ジェラスメインは、じっと父の目を見つめていた。
「私は兄上とは連絡を取り合っていた。最後に、最後に連絡したときに交わした言葉を思い出せる。
兄上は、自分の死を確信していたんだ。だって、そうじゃなきゃ、あんなこと、言わないはずだ」
震えだす拳を自分の身体に押し当てて、ジェラスメインは叫び声をあげた。
「そう思わせる何かがあったはずだ! 義姉上」
ぴくりとラーデイルは小さく震えた。落ち着きのない目でジェラスメインを見る。
「……あなたか」
「何を根拠にそのような! お前、どんなに無礼なことを言っているのかわかっているの!」
「私は、貴方の恐れる闇魔術師《ゼクタ》だ。あなたが恐れていることをして確かめられる」
「お前の言うことなど、誰も信じない!」
「それでも、私には真実がわかる。
私にわかれば、それで十分だ」
ぎらぎらと光る紫の瞳を前に、父は一つ大きく息をつくと、少し首を傾ける。
「ラシータに会いたくないか」
その言葉はジェラスメインの表情を崩した。目を見開き、かつてこのように長時間見つめたことはないだろうというほどに、父の顔を見る。
ラシータが死んだということは、随分前に聞かされた話だ。
葬儀も終わっている。埋葬も終わっている。
そう、思っていた。
会うとはどういうことだ。
ジェラスメインは無表情な父の目から何かを読み取ろうとした。だが、ジェラスメインには無理だ。ただ、そこにはジェラスメインへのかすかな蔑視が含まれていた。幼い頃から向けられてきた、闇《ゼク》に対しての父の目。
何かを、企んでいる。それは、ジェラスメインにとって良い話ではないはずだった。でなければ、このようにその瞳に邪な光を感じることはないはずだ。
「ついて、来るがいい」
長衣の裾を翻して、父は館の奥へジェラスメインを誘った。ジェラスメインを睨みつけてから、その父の後を追う義姉。ジェラスメインは迷うように床を見つめていたが、顔を上げてそのあとを追おうとした。だが、気づいたように後ろを振り返る。彼女の後をカシューが追っていた。
「カシューは……」
「付いていきますよ。ジェラスメイン様。貴方は私に力を貸して欲しいと言ったのです。それは、執事としての力ではありませんでしょう?」
「カシューさん……」
「我々も長年キャニルスのために尽くしてきた一族。代々強い当主を望んできた一族です。私たちは、貴方が適任だと感じている。ノーラジルさまもそうでしょう。だから、私を貴方の側に置いたのです」
「ありがとう」
ジェラスメインはようやく微笑んだ。この屋敷に入ってから、ずっと強張っていた空気が緩んだ気がした。
「だが、ここへ残って欲しい」
「お嬢様」
「母上に会いに行ってくれないか。ジェラスメインは少し遅れると……」
「しかし」
「……ひけないんだ。カシュー」
強く押しとどめるように言って、ジェラスメインは父の後を追いかけ始めた。
オオガの館よりも長く居た場所のはずなのに、記憶は薄れてこの屋敷は自分のなじみの場所ではない。さらに奥へ。
祖母が住処としていた場所とは違う方向へ、父は向かっていっていた。足早に進む彼に、懸命についていくラーデイルはときおりこちらに視線をやる。ジェラスメインはなるべく駆け足にならぬようにして父についていった。
幼子の歩みなど、構わない歩き方を目の前にして、ふと柔らかな思い出が頭をよぎる。
ときおり、後ろを確認するように足を止める長身の影。自分の歩みが速かったと気づいたとき、謝るかわりに少しだけ申し訳なさそうに笑った緑の瞳。
決して自分より前を歩こうとしなかった茶色の瞳。
そして、手を握り締めて誘導してくれた金色の瞳。
……その背中に負ぶってくれ、ときおり笑いながら振り返る青紫の瞳……。
それを思い出して、泣きそうになった自分の顔を、ぎゅっと引き締めてジェラスメインは歩き続けた。
一番奥の部屋。父はそれを開け放った。
「入りなさい」
ジェラスメインは、ラーデイルと父の顔を睨みつけると、その部屋に足を踏み入れた。
冷気が足元を登っていった。
普通の空気ではなかった。
水の気があたり一面を囲っていた。その真ん中に、棺が置いてある。
ジェラスメインは自分の背中を登る寒気に、思わず目を見開いた。
「これは」
「……私も上級水魔術師《ルシタ》の端くれ」
低い声が響いた。自分の背後にいる父の存在。ジェラスメインは一歩足を踏み入れ、そして、その棺に駆け寄る。
「まさか」
「……会いたかっただろう? ジェラスメイン」
その名を、父から初めて呼ばれたような気がして、振り返る。父は冷たい目でジェラスメインを見つめていた。
無感情な瞳を始めて怖いと思う。
「のこしたの」
「……そうだ」
「……なんて、こと……をっ!」
怒りが溢れ出そうだ。その怒りに反応するように、周りの空気がピシリとひずんだ。ラーデイルがあたりを見回す。驚愕の表情をジェラスメインに向けた。まるで化け物を見るかのように。
だが、ジェラスメインにはその視線も気にならなかった。
微量の動揺さえ表さない、父の目を前にして、怒りの感情が体中を駆け巡った。
「冒涜だ!!」
「だが、ジェラスメイン」
父は首をかしげる。
「会いたかっただろう? それに……お前には、出来る」
かつかつと足音を立てて父が近寄ってくる。ジェラスメインは思わず後ずさりをして、彼から離れた。その様子を見て、父は片眉を上げる。まるで、あざけるように。
父は躊躇なく棺のふたに手をかけた。一気にそれを向こう側へ押す。重い音を立てて、そのふたは地面に落ちた。
響き渡る音に、ジェラスメインはまた後ろへ下がる。棺から溢れ出た一層の冷気は、ジェラスメインの足へまとわり付いた。
「お前は、闇魔術師《ゼクタ》だ。完全で強い闇魔術師《ゼクタ》だ」
「許されない……」
「さぁ、ジェラスメイン」
父はジェラスメインの肩を掴んだ。そして、棺に押しやる。ジェラスメインは目を瞑り、肩をひねりその手から逃れようとした。だが、父の指が肩に食い込んで離してくれない。
「こんなこと、許されないよっ!!」
「許されるか許されないかではない、ジェラスメイン。
お前が、望むか。
……望まないかだ」
囁くように言われて、ジェラスメインは堅く閉じていた瞳をゆっくりと開いた。
眠るように穏やかな表情をした、最愛の兄が居た。
「ラシータ……」
「まだ、間に合うだろう」
ジェラスメインは肩越しに父を振り返る。
空っぽな目をして、父はラシータを見つめていた。
わからない。何を考えているのか。
愛しているはずがないのだ。
常に冷たい瞳だった。幼いころも抱きしめられた記憶さえない。
義姉上たちにだけ、向けるわずかばかりの笑顔。
それでも、冷たい人だと思っていた。
蘇らせて欲しいのかと一瞬だけ錯覚した。
この人も、たった一人の息子を望むのかと。
本当に事故で、そして、この人も悲しんでいるのかと。
こうやって遺体を残したのも、本当に私に会わせるためだったのかもしれないと……。
ただ確実なのは、ラシータをよみがえらせた瞬間に、キャニルス家への当主の道が断たれるということだ。
禁忌だ。
能力のあるものには寛容だという王も、そのようなことをして許してくれるはずがない。
「どちらが、お前の幸せか。おまえ自身が知っている」
人の心を読むかのように、父はそう言い、ジェラスメインの心を揺さぶる。
「ラスメイ」
ジェラスメインはラシータの顔を見る。そして、周りを見回した。
(いない)
いなくてよかったと思った。そこに、ラシータを見つければ、迷いなく……。
だけど、呼ぶことが出来る。
死体が朽ちていなければ。まだ、可能性はある。
それが出来るということを、私は知っている……。
メロサで見事にその術が完成しているのを見ている。あれよりも、もっと完全に近いものが出来る自信がある。
出来るんだ、私は。
(ラシータをよみがえらせる言葉と魔術を知っている)
説明しがたい衝動が身体を駆け上った。拳に力が篭る。
『ラスメイ』
あの声を、聞くことが出来る。
あの笑顔を見ることが出来る。
棺の淵に手をかけて、ラスメイは眠るような兄の顔を見た。
今にも動き出しそうな。
目を開いて、そして、私を見て。
『おかえり』と。
ジェラスメインは反射的に棺を押し返した。そして、そのまま踵を返し、部屋を飛び出す。
(震えている)
手が、体が、震えている。
振り切ってしまえば、出来ることだ。
禁忌など関係ない。
何度、闇魔術師《ゼクタ》と、蔑まれてきたのか。その蔑まれてきた力で、自分の望みが叶うのだ。
だけど!!
だけど……!!
(おにいちゃん……)
小さな自分の声が聞こえる。
舌足らずな声。呼んで、微笑んで、抱きしめる、小さな手。
『ラスメイ』
そう呼び始めたのも兄だった。
長い名前。自分の名前を読み上げられない自分に、その名を与えてくれたのも兄だった。
「……あ……ぁ……」
声が出ない。喚きちらしたい。
だけど、声が出ない。涙が出ない。
出来る。出来るんだ……。私には、出来るんだ……。
玄関まで走り、そこにハイムの姿を見つけて、その速度を緩めた。ハイムに気づかぬ前に歩みを戻し、何度か両目をこする。
息を繰り返した。
何度も、何度も……。まだ、距離が足りない。立ち止まり、大きく息を繰り返す。
そして、平静な顔を取り戻そうとした。
「ジェラスメイン様」
その前にこちらに気づいたハイムの声に、体が震えた。
「母上をお尋ねする。案内を……」
ハイムは少し怪訝な顔をした。それを見て、ジェラスメインは自分が顔を作り損ねたことに気づいた。
「いや、一人で行く」
「お部屋が変わっております。……ご案内いたします、ジェラスメイン様」
ハイムはそれ以上のものを感じ取っていたのか、すぐに返事をしてジェラスメインから顔をそらした。
その所作が何故か、とても憎らしいと思った。
私は、子供だ。
何も隠し切れない。
(早く、大人になりたい……)
こんな思いも、早く切り捨ててしまって。ただ、求めるものだけを手に入れる強さが欲しい。
見慣れない廊下を通され、一室に通される。
心配そうにこちらを見るカシューの顔と、寝台に身を起こしている線の細い女性の姿が目に入った。
ジェラスメインはゆっくりと微笑み、そして、一礼した。
「お久しぶりです。母上」
おそらく、また失敗したのだ。
カシューの心配そうな顔はますます曇り、そして、一番心配をかけたくない母の顔も、笑みを浮かべてはいたが、やはり心配そうだった。
その顔を見ていられなくて、視線をそらす。
昔から、私は祖母に似ていると言われ、兄は母に似ているといわれていた。
微笑をいつも浮かべているような唇と、柔らかな印象の目元。
「ラシータのことを聞いたのですね?」
微かに発せられる母の声に答えられず、ジェラスメインは顔を伏せたままだった。
「ジェラスメイン……」
「……聞きました」
ジェラスメインはきゅっと唇を結ぶと、思い切って顔を上げる。瞳に力を込める。拳を握り締める。背筋を伸ばす。顔を上げて、そして、唇を開く。泣き声にならないように願いながら。
「私は、キャニルスに戻ります」
「ラス……」
「戻ります。それだけを伝えに来ました。
お体にさわるといけないので、部屋に戻ります」
母が何を言いかけたのか、そのときは気にもならなかった。ただ、そう断言した後に、諦めるように目を伏せた母の顔に、ラシータの顔が重なった。
「ラスメイ」
柔らかな声がジェラスメインの背中にかかる。
「隣の部屋を使いなさい。いえ、使って頂戴」
「でも、私が近くに居るのは、あまり」
「お願いよ。ジェラスメイン」
振り返ると母が微笑んでいた。細く淡い印象のある母に、ジェラスメインはこくりと頷く。
拒めば、消えてしまいそうな気がした。
光《リア》を持った母。そう、光《リア》とは繊細で消えてしまいそうなほど淡いものだと思っていた。あの人に会うまでは。
母の微笑みの向こうに思い出す。
強い光《リア》を持ったあの女性を。明るく笑い、ときには優しく抱きしめてくれた。
光《リア》を持っているくせに、躊躇なく抱きしめてくれた。
(どうしてだろう。思い出すだけで、暖かくなる)
泣いてもいいんだって、教えてくれたけど。
もう、泣きたくないよ。
泣きたく、ないよ、エノリア……。
|
|
|
|