◇
マリーロッサは、周りの宿よりも花で飾られたかわいい宿だった。その前で立ち止まって、エノリアは何度か息を繰り返す。
この人形を持って、そして、早くこの街から出よう。
「エノリア!」
宿の2階から顔をだしたミラールに、エノリアは呼ばれ顔を上げる。エノリアがぼうっとしたまま上を見上げると、ミラールはいつもと違う鋭い口調でそこに居るように言った。
しばらくして、宿から飛び出てくる。エノリアの両肩を掴んで、ミラールは、張り詰めた表情をようやく緩めたが、それと同時に言葉が次から次へとあふれ出した。
「よかったぁ……。あんな顔で飛び出していくからさ、心配で心配で。僕、すぐに追いかけようとしたんだけど、ちょうどランに会って。ランが追いかけるから、僕にはここに居るようにって……」
「ごめん」
神妙に答えるエノリアが珍しかったのか、ミラールは開いた口から言葉を出すことを辞めた。そのかわり、大きく息を吐き出して、くしゃりと前髪を握り締める。
「いいんだけど……、?」
斜め下に向けられた視線は、彼女が握り締めた人形で止まった。
「これ」
ぴくりと何故か肩が震える。ミラールの視線から隠すように、エノリアはその人形をぎゅっと抱きしめる。
「この人形、メロサの」
エノリアは唇をぐっと噛み締める。小さな子供のような仕草だとミラールは思い、そして、背筋に走る悪寒を感じた。
その人形を、エノリアに触れさせていてはいけない。そう思った。
だけど、エノリアの表情はかたくなで、その人形を握り締める手にも力がこもっている。人形はエノリアに抱きしめられ、その肩に顔をうずめていたが、今にもこちらを振り返るような気がした。
(そんなこと、ありえないのに)
そこから、何か重く冷たいものがゆっくりと流れ出し、あたりを埋め尽くしてしまいそうだ。
「離したほうが、いいよ、エノリア」
呟くように言うのが精一杯。ミラールはその人形をエノリアから無理矢理にでも引き剥がしたい持ちになったが、出来ないでいた。そこにはありえない圧力がある。恐ろしいと思う気持ちが、力になってミラールの動きを止めている。
ふるふると幼子のように首を振るエノリア。
そのときだった。エノリアの肩をぽんっと叩く者が居た。その瞬間、ミラールは軽い風と同時に人形から発していた何かが解かれるのを感じる。大きく息を吐き出しながら、エノリアの肩を叩いた人物を見た。
「おかえりなさい、エノリアさん」
柔らかな声だった。エノリアはそれでもじっと人形を抱きしめたままだ。
彼女の肩を優しく叩き、そして、その耳元に唇を寄せたのはユセだった。
「その人形、珍しいですね。私によく見せてくれませんか? エノリア=ルド=ギルニア」
柔らかな声だった。小声なのにミラールの耳にも届き、そしてしっくりと染み渡る。そう言われて、エノリアの腕に入っていた力が緩んだ。はっと我に返るように顔を上げたエノリアは、抱きしめていた人形をゆっくりと自分の体から離し、手を差し伸べていたユセへ渡す。
「ユセさん……。私……」
「随分強い人形ですね。闇《ゼク》が篭った光《リア》の人形ですか? 声がしますよ」
ユセはにこりと笑って、その人形を受け取る。そして、ぽんっとエノリアの肩を叩き、ミラールへ目を向けた。
「部屋に戻りましょう。ここで立ち話していては、邪魔になりますからね」
そう言って、ユセは二人を促した。お帰りなさい、夕食の準備ももうすぐできますよ、という愛想のいい宿の主人の言葉に、同じように愛想よく答えるユセの手に促されて、階段を登るエノリアはまだ夢心地な表情を浮かべていた。
「強い、人形ですね」
卓上にそれを座らせて、ユセは正面からそれを見ながら呟いた。部屋にある3脚の椅子のうち2脚をその人形の左右において、片方にミラールが座っている。エノリアはその円卓よりも離れたところに置かれた寝台の上に、膝を抱えて座っていた。
メロサでの話をミラールが一通り説明している間、エノリアはお茶を数杯飲み干し、ようやく意識をはっきりと取り戻していた。だが、人形を真正面から見ることは出来ず、人形と対峙しているのはユセである。
「空の人形には力があると聞きますが……、こんなにも強いものでしょうか」
「キールさんは、『込める』ために作ったらしいから」
「ああ、なるほど。そこに闇《ゼク》が篭ってしまったんですね? ミラールさんにはこの人形が言っていることが聞こえますか?」
「僕? いえ」
「エノリアさんは?」
急に話を振られて、エノリアは顔を上げた。
「……いえ」
言葉を発して、エノリアは息をつく。頭を軽く振って、そして抱えていた膝を解放した。
「わかりません」
「どうして、持って来たのですか?」
エノリアは顔を上げた。そして、ユセをじっと見つめる。
「どうしてって」
「いえ、責めているわけではないのです。この人形は強いし、僕には何を言っているかも聞こえます。断片的にですが。
この人形があった空間は、もっと強い力に満ちていたはずです。だからこそ、怖いんですよ」
「怖い?」
ミラールがそう聞き返す。エノリアは目を見開いて、食い入るようにユセの次の言葉を待った。握っていた拳にさらに力を込める。
「反動が出ますよ」
エノリアはその真剣さの篭ったユセの目を見ていたが、視線を下げてぽつりと語りだす。自分がここに住んでいたこと、それは幼いころ父から贈られた人形であること。自分がエノリアと名乗る少女に出会ったこと。その少女はエノリアが昔住んでいた家へ住んでいて、自分の母から「エノリア」と呼ばれていること。そして、父にはその存在が見えないこと。
「だから、私。この人形が影響しているのだと思って……」
「それで、持ってきてしまったのですね? らしくないですね、エノリアさん」
「らしくない、ですか?」
エノリアが弱弱しい視線をユセに向けた。どこまでも穏やかな彼の瞳は、少しだけ微笑むようにして細められると、彼とは対照的にこわばった顔をして考え込むようにしているミラールへ向けられた。
ミラールはユセとエノリアに視線を向けられ……特に問いかけるようなエノリアの視線を受けて、息をついた。
「らしくないよ、エノリア」
「ど、ゆこと?」
「どうして、『見えることのほうが正常』だって思わなかったの?」
「え」
その瞬間、バンっとけたたましい音と共に扉が開いて、エノリアとミラールは驚きに身を縮めた。
入ってきたのは息を切らしたランであった。そのランもエノリアとミラールの驚き方に驚いたように目を見開いていた。
「わ、悪い」
「ラン!」
想像以上の反発をミラールからくらって、ランはますます目を丸くした。
「い、いや。エノリアが帰ってきてるって宿の主人が言うから」
「だからって!」
ランはミラールの小言に気のない風に返事をして、寝台に座っているエノリアを見つけて息をついた。
「様子が変だったから、心配で……。逃げなくてもいいだろ? わかる、けど」
「あれは、別にランから逃げたわけじゃ……」
ないこともないのだが、あれはむしろ……。
「お前のお母さんだろ、あの人」
「私のこと、気づいてた?」
「何、ラン。エノリアのお母さんに会ったの?」
ミラールの言葉に、頷いてから、またエノリアへ向き直る。
「うん、まぁ……。お前が逃げるからさ、俺、お前のお母さんに根掘り葉掘り聞かれて……心配してたぜ」
「そう、覚えてたんだ、私のこと」
「母親だろ?」
エノリアはぎこちなく笑った。その笑いに卑屈なものが含まれていて、ランに怪訝な表情が浮かぶ。
「お前の妹もさ。お前に無視されたって嫌われたって泣いてたけど。いいのか?」
今度はエノリアが怪訝そうな顔をする番だった。
「妹?」
「違うのか? あ、お姉さんがいるって言ってたから姪か? お前に似てる感じがした……」
その言葉を聞いて呆然としているエノリアを見て、ランは何かを思い出すように口を閉じた。
「いや、余計だったな」
またたくまにランは気配を閉じて、部屋から出て行こうとする。エノリアとぎくしゃくしていたことを思い出したかのように。
「見えたの?」
その背中にかけられた質問の異質さに、ランは足を止めた。そして、振り返る。
「何って?」
「見えたの? 女の子が」
「見えたかって……。居たじゃないか、お前の母親が手を繋いでた。お前と結構似てたから俺はてっきり」
「どうして?」
自問して、エノリアは円卓に置いた人形を振り返る。
人形の横顔はただ、微笑んでいた。
「見えなかった、わ。私にも」
『埋められなかった隙間を、埋めようとする力が働くんだ』
どくり。
あの子は本当にいる。
ランに見えた。
関係ないランに見えた。
エノリアは答えを求めるように、ミラールを見る。ミラールは言いにくそうな顔をしていたが、呟いた。
「人形から離れているときに会ってるんでしょう? その『エノリア』ちゃんに。そのときは人形の影響は受けていないはずだし。
その子が見えなくなったのは、その人形を持ってからだよね」
それが、真実。
では『見えない』父のほうがおかしい。
この人形は、からっぽで、人の望みを映し出そうとする。
人の望みを。
父の望みを。
そして、私の望みを。
凝視していた人形の首が、ぎぎっと動いた。
微笑んでいる。
微笑んで、言う。
「それがお前の望みだろう」
お前のカワリなんて、あっちゃいけないんだ。
(私のカワリなんてあっちゃいけない)
(だって、あのお母さんの)
『愛しているの』
(暖かな愛情が欲しかったのは)
『愛しているからよ!』
(狂気以外の愛情を向けられていいのは)
あの子じゃない。
揺れた。目の前が。
「エノリア!」
ゆさぶられて、エノリアは我に返った。手を床についていて、自分が倒れかけたことに気づく。
真剣な目がこちらを覗き込んでいた。緑色の瞳に映る自分の姿。この目には、自分しか映っていない。
真剣に、一生懸命に、私を支えようとする瞳。
「言え。どうして欲しい。俺に、どうして欲しい!?」
私の動揺を感じ取って。
私の不安を感じ取って。
いつも不器用なくせに。
何にも気づかないくせに。
こんなときばかり、敏感に感じ取る。
わかって、くれている。
「家に。お父さんを、止めて!」
ぐっと右手首を掴んで、ランはエノリアを引っ張った。
「走れるな」
こくりと頷いた瞬間に、エノリアは走り出した。ランに引っ張られ、そして、自らも走り出す。
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