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母に見え、私に見え、そして、父に見えない。
それがどういうことなのか。どういう意味なのか。あの少女は一体何なのか。エノリアは喉を押さえたまま一点を見つめていた。
父に何度も『また来るから』と言い、しぶしぶと頷いた父が家へ戻っていくのを見届けた。一度だけ振り返った父の、再び私の姿を確認して安心したように緩んだ視線を忘れられない。
あんなに弱い人だっただろうか。
エノリアはきゅっと唇を結んだ。
心の奥が、からんと音を立てた。空虚な響きだ。
(あんなに弱い人じゃなかった)
エノリアは皆と別れた場所へ足を向けていた。父の背中が頭から離れない。思わず手を伸ばして支えたくなる背中だ。
「エノリア!」
呼ばれて顔を上げると心配そうな顔をして駆け寄ってくるミラールの姿が見えた。
「ミラール」
穏やかな表情が似合う顔に見て取れたのは、わずかな怒りだった。エノリアはそれを珍しいと思った。
怒ってる。怒ってるのは、心配しているということだ……。
エノリアは曖昧に笑った。笑えているかどうか、自信はなかったけど。
「急に居なくなって! みんな探してるんだよ?」
その言葉と瞳を前に、エノリアは表情を作り損ねた。言い訳も謝罪もどちらも出てこずに、一瞬戸惑う。その空気をミラールが察しないはずがなかった。ミラールは声を落として、眉をひそめた。
「……どうしたの?」
「え」
エノリアは目を瞬いた。訝しげなミラールの前で、エノリアは彼の瞳の不思議さを知る。その前では嘘をつけないんだと、ランが苦笑していたことを思い出した。
「あ、えっと」
どんな言い訳を口にしても、ミラールにはそれが本当か嘘かわかってしまうようだ。だけど、多分今の自分を相手にすれば、ミラールでなくとも、気づいただろう。
ミラールにしばらく見つめられていたが、その唇が何かを問う前に、エノリアはがばっと頭を下げた。
「ごめんっ! しばらく時間を頂戴って言っておいて!」
「エノリア?」
「ちゃんと戻ってくるから! 遅くても明日には……! うん。
だからっ、心配しないでって! マリーロッサだっけ? その宿に居て? お願いっ」
そう言うとミラールの顔も見ずに、体を反転させる。その目の端に緑色の瞳がチラリと見えたような気がしたけど、思い切り顔を背けた。
ミラールの制止する言葉が重ねて止めようとしたが、それを振り切って人ごみを縫うようにして走り出す。
おそらく、このまま次の街に行っても、1人で引き返したくなる。
(ランたちには迷惑かけられない)
あんなことを言った以上、どこかで甘えたくない気持ちがあった。 頼るにしてももっと見極めたかった。何が起こっているのか、ちゃんと確かめてから……。
それが自分に対する言い訳のような気がしていたけれど、エノリアはそんな思いを握りつぶす。
急く心はエノリアを先ほどまで居た場所へ導く。
その家を伺える大木の陰で、エノリアはなんどか大きく息を繰り返した。息を吸い、吐きながら胸をとんとんと叩いて、心を落ち着かせる。目を瞑り、そして、ゆっくりと開いた。
(落ち着いて)
見極めなくちゃならない。
母ニ見エテ、父ニ見エナイ。
どくりと心臓がなる。
どくり、どくり。
異常な物。
エノリアは思わず眉間を押さえた。
異常なこと……。
ラント、メロサ、フュンラン。
エノリアが旅した町にはいつも、おかしなことが起こっていて、それは全て『魔物』の仕業だった。
父の混乱したような顔。そして、自分の混乱。全てを心の奥底にしまいこんで、エノリアは真っ直ぐに前を向いた。
『エノリアお姉さん』
そう言って人懐こく微笑んだあの少女が、自分の予測を裏切ってくれることを祈っていた。それでも、疑うことを辞めることのできない自分が、しこりのように残ってしまう。
息を大きく吸って、そして、エノリアはその家へ足を踏み出す。
会って、確かめる。
そう、母に。
一歩足を踏み出して、そして、つかつかと歩く。目に力を込めなければ、何か弱いものを吐き出しそうだ。
家の前、その扉を叩こうとしたのと同時に、その扉が内側から開いてエノリアは驚いた。
「お父さん」
「今、お母さんは留守だ。入りなさい」
急かす父に招かれて、エノリアは家の中へ入った。ふと懐かしい香りがしたと思ったのは気のせいだろうか。だけど、何か温かい感じがする。
しかし、人のうちに入るような気分でもあった。
自分の記憶とぶれる部分が、そういう気分を呼ぶのだろう。
父はエノリアを招き入れると、台所へ向かう。
「お父さん?」
「お茶をいれるから、ゆっくりして行きなさい。お母さんにも、会いたいだろう?」
その言葉に素直に頷けない。
小さな少女をエノリアと呼ぶ母。
『愛しているから!』
狂気の声と重なって、思い出す母の姿は胸の痛みを呼び起こす。
「うん……」
それでもそう返事をしながら、エノリアは木造りの卓に近づくと、無意識に一つの椅子へ手を伸ばしていた。それはエノリアがいつも座っていた椅子だということに気づいた。そこに小さな影があったのでぎょっとした。だが、よく見ると……。
「人形……」
エノリアはその人形に手をかけかける。びりっと痛みが走って、思わず手を引っ込めた。
金色に近い茶色の髪。金色に近い茶色の瞳。愛らしい曲線を描いた、美しく滑らかな陶器の頬を持つ人形。
瞳に反射した光が揺れて、こちらをちらりと見たような気がした。
(この人形は)
メロサで見た。
カタデイナーゼの言っていた人形。
からっぽに作られた人形。
『埋められなかった隙間を、埋めようとする力が働くんだ』
心臓が不安に震える。
『まぁ、具体的に言えば幻を見せるんだよな。思い出とかを引き出して』
(この、人形が)
エノリアはもう一度人形に手を伸ばした。さきほどとは比較にならない痛みがエノリアの手を弾く。闇《ゼク》の波動だと感じた。
どうしてこの人形に闇《ゼク》が?
だけど、そんなことはどうでもよかった。どうしてもその人形に触れなくてはならない気がした。
この人形が原因なら、母が見えて、父に見えないこともわかる。
自分に見えたのは光《リア》を持っているからかもしれない。光《リア》は闇《ゼク》を敏感に感じ取ってしまうから。
この人形が闇《ゼク》を抱えてしまっているなら。
痛みに顔をしかめて、エノリアはその人形を掴んだ。掴んでしまえば、痛みも抵抗もない。
それを抱えて、エノリアはお茶を入れるために水を火にかけている父の後姿へ呼びかける。
「お父さん、ごめんなさい。旅の仲間に何も言わずに出てきてしまったの。心配していると思うから、一言言ってくるわ」
「エノリア? 旅って」
「詳しいことはまた後で!」
エノリアは父が振り返る間も与えずに、エノリアはまた家を飛び出した。この人形を遠くへやれば、きっとあの家は元に戻るはず。
それで、エノリアはランたちと合流してしまうつもりだった。母に会って話をしたくないわけじゃなかったが……。
幻に囚われてしまった母に、今自分があったらどうなるだろうと思う。
多分、そんな母は見たくないのだ。
あのつんざくような声が耳に響く。
家を飛び出してしばらくしてエノリアは息を切らせながら、その速度を落とした。端によって息を繰り返す。無意識のうちに精一杯走っていたらしい。
そのときふと前方に人影を見た。その姿にどきりとする。あたりを見回して、ちょうど家の影を見つけて隠れる。そして、そこから様子を伺った。
母だった。楽しそうに微笑みながら、右手を少し前に差し出して、何かを握り締めているようだ。視線は斜め下で、やわらかなほほえみを浮かべ、ときおり頷く。まるで誰かと会話しているように。
だけど、エノリアにその姿は見えなかった。
ぐっと唇を噛み締め、人形を抱える手に力がこもる。
やっぱり、この人形のせいなのかもしれない。
私にも見えない……。
手が震えた。私にも、見えない!
その場から逃げ出そうと路地を奥へ入ろうとしたとき、どんっと何かにぶつかった。
「ごめんなさいっ」
「エノリア!」
急に呼ばれて、びくりと震えたエノリアが見上げたところに、緑色の瞳があった。
「ラン」
「おまえ……。し……」
エノリアはその脇をすり抜けようとする。一刻も早くここから離れて、早く人形をなんとかしてしまいたかったのもあるし、なによりランから心配という言葉を聞きたくなかった。
「ごめんっ」
それだけ言って、エノリアはランの手を振り切る。ランが怒鳴るように名を呼んだ。そのとき、母がこちらを見たような気がしたので、またその視線から逃げるようにする。
逃げてばっかりだ。
そう気づいて、エノリアは首を振った。
浮かぶのは苦笑だけ。だけど、この人形さえ何とかすれば……。
今はそのことばかりが頭に浮かんだ。
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