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4 海の見える町
 
『望み』を受ける前に、私は『望み』を受けていた。
 長い長い年月の間、そこに居た私は、既に『望み』を受けたものだった。
 それに近い響きを受けたとき、そこに現われることが出来たのだ。
 太陽に対する憧れと、愛おしさと。
 神に対する強い願いを。
 銀色の髪に口付ける。
 目の前で目を閉じる月の娘《イアル》。
 太陽への愛しさは、妬みに掏り替わってしまった。
 何かを求めるように差し伸べられた手を握り締めてやる。
 微笑しか知らなかった娘は、光《リア》と闇《ゼク》に翻弄されて、流れ込んだ負の感情に耐え切れずに泣き、疲れ、眠る。
 彼はその顔を見つめてから、ふと視線を闇へ向ける。
 強く睨みつけた、金色の瞳。
 創造神《イマルーク》が作り出し、失い、摂理を超えて再び作り出したあの強い……。
 太陽の娘《リスタル》。
 2つの名前を持つ娘。
 そのうちの一つを奪えば、この世界はますます不安定になる。
 二つありえない太陽の娘《リスタル》。
「エノリア=ルド=ギルニア……」
 彼はそう呟いて、拳を握り締めた。
 もうすぐだ。
 


 わたしは義兄に売られた。
 わたしが知っている真実は、ただそれだけ。
 憎いかと聞かれても、よくわからない。
 一度、リーシャに尋ねられたことがある。あれは自分がこの宮に来たいきさつを説明していたときだ。淡々とそのくだりを話す私に、『怒ってないんですか?』と聞かれた。
 そのときは、首を振った。やせ我慢でもなんでもなくて、正直言って、本当にわからなかったから。それまで会ったことがなくて、顔もろくろく覚えていない人間を、どうして憎むことができるだろう? 年が離れた姉の顔もあまり覚えていない。駆け落ち同然で義兄と一緒になったらしいけど。
 私はずっと、一人っ子のようにして育てられた。
 ノウレル。
 世界でも1,2を争う高峰である《ターラ》山を後方栄えた町。首都と《ターラ》山とフュンランを繋ぐ要所。
 商人達の家が並ぶ賑やかな町。ここで、私は5歳までの時間を過ごした。
 父の店と家の庭、それを繋ぐ道ぐらいしか、私の自由になる場所はなかったけれども。




 《ターラ》とは【拒否】や【不可侵】といったような意味なのだと(微妙に違うので説明しにくいと苦笑しつつ)言ったのは、ユセであった。いつも地名の意味を説明してくれていた少女は側にいないことを、少し寂しく思いながらエノリアは町の空気を吸い込んだ。
 潮の香りと人々の息吹。耳元で弾ける人々の賑わいは、シャイマルークの市よりも活気があり、明るい。もっと言えば、騒々しいぐらいだ。
 町の中心には噴水がある。そこから放射状に道が伸び、そのうちの一つは高台にある分宮《アル》に通じていた。ノウレルの分宮《アル》はその高台から町を見下ろす。その所属は珍しく月宮《シャイアル》で、月の光を思わせる青みがかった白い壁が美しい宮であった。
 懐かしいと、エノリアは眼を細める。随分と昔のように思える。だけど、この喧騒を、空気を覚えている。
(忘れてなかった……)
「宿ならあっちね! 私のお勧めは『マリーロッサ』ね! ご主人の作った朝ごはんがとーってもおいしいの!」
 喧騒を突き破るような大声でランに説明するカーラの声が、エノリアにも届いた。振り返るとカーラにあわせて少しだけ膝をかがめて耳を向けているランがいる。
 エノリアはその姿に目を細めた。
(なんであんなこと言っちゃったんだろう)
 昨日、森で思わず突きつけてしまった言葉。それからというもの、ランの態度はよそよそしくなっている。いや、ランがというよりも、おそらく自分がなのかもしれない。必要以上には交わされない言葉。晴れ渡った空を見上げても、その感動の言葉を飲み込んでしまう。
 晴れてよかったね。の言葉さえも、かける前に躊躇して、飲み込んでしまう。
(でも、いつかはきっと、言ってた)
 ずっと側にいれば、いつか分かってしまって。分かってしまったときに、きっとぶつけてしまっていただろう。
 分かってるのに。ランがどれだけ自分のこと大切にしてくれているのか。どれだけ一生懸命守られているのか。あのとき、フュンランでしっかりと受け止めてもらえたあの掌を思い出せば、十分すぎるほど分かるはずなのに。
 何が不満だと言うのだろう。エノリアはうつむいた。光《リア》を持っているから? 私が光《リア》を持っていなければ、ランは……。それだったら、多分出会ってなかった。
(いやになる……)
 大きくため息をついた。何度吐き出しても、しこりは消えない。けれど、不満を吐き出してしまいたかった。
 エノリアは目の前を横切り走り回る人々の動きに目を戻し、気持ちを紛らわす。
 懐かしい町で、懐かしい思い出を心の奥から引っ張り出す。
 山奥へ引っ越すまでの5年間。確かに自分はこの町に居たのだ。それから少しだけ変わったような気がした。
(気がした、だけ。はっきりはわからない)
 それでも郷愁のようなものを感じるのは、不思議だと思う。
 じっくり見て回りたいと思っても、ランについてきてとは言いにくい……。
 ふとランのほうへ意識を戻したとき、カーラに向けて言っている言葉が耳に入ってきた。
「ここに泊まろうとは思っていないんですよ。先を急ぐんです」
「そうなの? お祭なのに? もったいないじゃない」
「急いでいるので」
 歯切れの悪いランの言葉。不服そうなカーラに向けて苦笑いをしている。
「急いでいるってどこに? この先の大きな町を目指すにはちょっと遅くない?」
「いや、都にはいかないんで」
「じゃ、ターラに行くの? 観光?」
「夕方までにアトラに着けるだろうって、聞いているのですが」
「アトラねぇ。ま、ギリギリってとこかな?」
 エノリアはその言葉を聞いて、また回りを見渡す。
 少しゆっくりと見回りたい気もしていた。だけど、先を急ぐのも確かだ。あまりわがままを言いたい気分でもないし……と、周りに目を馳せる。
 と、ふと小さな栗色の髪が目に入った。その下の何かを一生懸命に追う眼差しに見覚えがあった。
「エノリアちゃん?」
 呟いて、エノリアはその栗色の頭を追ってしまう。何に惹かれるのか、よくわからなかった。だけど、あのくりくりとした目の少女を見かけると、どうも追ってしまう。気になってしまう。
 誰かに一言言ってから追いかけようと思った。だけど、ユセもミラールもカーラたちと話をしていて、こちらを伺うものはいない。そうこうしているうちに、栗色の頭は雑踏へまぎれて消えてしまう。
「待って」
 どうして自分がその小さな子供を、気にしてしまうのかよくわからなかった。同じ名前だからかもしれないなと思った。ただ、気づけばエノリアは駆け出していて、同じく人にぶつかりながら何かを追いかける少女の背中を追っていた。
 小さな背中を追いかけつつ、あの少女ぐらいだっただろうかと思いを馳せる。
 この街を、出ていく少し前。
『エノリアのこと嫌いなの?』
 多分言ったであろう台詞を、思い出して眉を寄せた。その言葉と父の辛そうな顔を思い出す。
(どうして、辛いことしか思い出さないんだろう)
 父に言った言葉。
 母に言われた言葉。
 それ以外にもたくさんの思い出はあるはずなのに、くっきりと刻み込まれたのはそんなことばかり。
 父は、多分、ぎりぎりだった。
 母が私を庇うために、閉じこもりがちになり、隠せない金色の瞳の強さのために宮からの勧誘が頻繁になってきて、もともと繊細だった母の神経はさらに傷つきやすくなっていた。
 戸を叩く音にさえおびえ、人の気配がすれば私の腕を掴んで奥の部屋へ押し込む。その強さと痛さに涙ながらに訴えても、母には伝わらなかった。
 帰宅するたびに、その風景に出くわし、哀しそうな目をしていた父。玄関から入ってすぐの椅子に座り込んで、額を押さえてうつむいていた。
 思い出したように母は父のために温かいお茶を入れだし、私から気がそれた瞬間に私は父に駆け寄り、その暗い顔を覗き込む。
 暗く疲労のたまったその表情を見て、私は思わずそう聞いてしまった。
『エノリアのこと嫌いなの?』
 その後だった。母と私を連れて、この町を離れたのは。ターラ山の麓の町・ドゥアーラのはずれの山深い場所に住居を求めた。
(今、思えば……あの言葉が父に決心させたのかも)
 なぜそれを今思い出すのか。エノリアは人ごみに消えたり現れたりする小さな背中や小さな頭を一生懸命に追っていた。
 急に方向を変える小さな背中を見失ったのは、それからすぐだった。その先の路地はさらに狭くなり、人もまばらになっている。道も入り組んでしまっていて、エノリアの記憶も薄い場所だった。
 まるで、誘い込まれたような。
 エノリアは上がった息を繰り返し、近くの壁に寄りかかった。
 ふっと泣きそうにもれた息に気づいて、エノリアは口を覆った。
「ああっ、もうっ!」
 きっ、と瞳を吊り上げて、エノリアは壁を押して体を起こす。
 エノリアはその路地へ、力強い一歩を踏み出した。先の小道を曲がり、曲がり、まっすぐに行っては曲がり。
 戻ることを考えずに、エノリアはただ誘われるがままに足を進めた。いつか、その路地を抜け、広い広場に出る。茨の塀で囲まれた、広い庭を持つ家が立ち並び、その前の通りを歩く人もまばらだ。裕福な商人達の住宅街だと気づいたのは、その風景がどこかで見たものだから。
(ここは)
 エノリアは足早に、見知った風景へ向かって駆けていく。
 赤茶色の屋根と白っぽい壁の家。生えた蔦は必要以上に、またそれでいて遠慮がちに壁を登ろうとしている。
(私の家)
 青々と茂った緑樹で作られた低い垣根はあったが、庭がかろうじて見えた。そこに自分が懸命に追っていた少女の姿があった。エノリアの記憶と違うのは、そこにあった大木がもうなかったこと。ただ、それは大きな切り株として存在し、少女はそこに座り込んで悲しそうに足を揺らしている。
 少女は足を揺らし、そして時折空を見上げた。また、揺らす足を見つめ、そして、また空を見上げる。
(新しい住人だとか?)
 あの山奥へ住居を移した時、父がここを売り払ったかどうか、はっきりとしない。
 でも、新しい住人だという以外にどんな可能性が?
 エノリア。同じエノリア。
 ただの、偶然?
 ぱたんと音がして、家の扉が開いた。一瞬、身を竦めかけたエノリアの目の前に現れた姿に、息を呑む。
『愛しているわ』
 ゆがんだ感情の声と共に、思い出すのは暗い瞳だ。
『愛しているから』
 エノリアの脳裏に刻まれた暗い瞳。ときおり見せる優しい微笑が、エノリアを救っていた。
 だけど、目の前に現われた人の瞳はとても穏やかだ。4年ぶりにしては年老いてしまったようにも感じたけれど、穏やかで。信じられぬほど穏やかで……。
 エノリアは身を乗り出した。
「……お母……さん」
「お母さん!」
 思わず駆け寄りかけたエノリアの動きを止めたのは、その少女の声だった。
 駆け寄り、差し伸べられた腕の中へ飛び込み、無条件の愛情を受け、抱きしめられ、抱き上げられ、頬擦りをされる小さな少女。
(お母さん?)
 エノリアと名乗った少女。
 母と呼ばれ、嬉しそうにその少女を抱き上げる女性は、まぎれもなく自分の母。
 確かに5年の歳月を過ごしたこの家。
 そして、エノリアの知らない、母の満ち足りて穏やかな笑顔。エノリアという呼ぶ声にこめられたのは曇りのない純粋な愛情。
 お母さん。
 エノリアはその女性を見つめていた。もう会えないと思っていた母。そして……。
『愛しているのよ』
 耳をつんざくあの声がよみがえる。
 ここから出して、お母さん。愛しているの。愛しているからよ。だからよ。エノリア、貴方を手放したくないの。あなたは、私の大切な……娘……。
 ふと訪れる狂気におびえながらも、温かい母から離れることは出来なかった。
 だけど、あそこにあるのは。
 私が欲しかった、優しさと温かさだけ。
 狂気のない母の笑顔。
 エノリアと呼ばれる少女に向けられているあの笑顔は。
(私の、お母さん)
「……誰だ?」
 エノリアは、我に返った。木陰から食い入るようにその家を見つめていた自分の異常さに気づき、どう取り繕うかを考えながら振り返る。
 老人が居た。いや、一瞬老人だと思った。
 白髪と皺の刻まれた顔。その中にある面影を見つけることができなかったら、言い訳を思いつくことができずに、エノリアはその場から逃げるように走り去っていただろう。
「あ……」
「エノリア、なのか?」
 じわりと白髪の男性の目が潤む。エノリアは口を開いたまま、その場を動けないで居た。
「お、父さん?」
 エノリアの呟きが、同じようにその場で足をとどめていた男性を動かす。彼は、エノリアの手をとって、まじまじと彼女を覗き込んだ。
「エノリア」
「そうよ。エノリアよ」
「生きていたのか……生きて」
 かすれる声でそう呟いて、地面にへたりこむように膝をつく。そんな父を支えて、エノリアは木を背にして父を地面に座り直させる。
 その空ろな瞳を覗き込んで、エノリアは父の手を取った。
「そうよ。生きているわ」
 そう言って、エノリアは次の言葉に迷った。疑うように見る父になんと言えば伝わるのか。考えたあげくに「こんなに元気よ」などと、おかしな言葉をつなげてしまった。
「よかった、よかったエノリア……。すまない、すまない……」
 何度も謝る父を見ながら、エノリアは自分の目を押さえた。
 なんだろう。よくわからない。
 けど、目の前の父を見て思うのは、たった一つのことだった。
 謝る父を見て、かわいそうだと思った。宮に連れて行かれ、命まで狙われるようになった自分だけど、父の小さな姿を目の前にしては、そんなことも忘れてしまう。
 謝られることがつらい。4年よりも倍もの年月を経てしまったような父の姿。何度も頭を下げる父の姿に、自分以上の苦しみを味わってきたのだということを知る。
「お父さん。泣かないで。
 私は平気だったの。全然、辛くなかったのよ。宮でも、みんな親切だったわ。丁重に扱われて、誰にも傷つけられたりしなかった」
 一部分は嘘だったけれど、そうとでもいわなければ父は顔を上げようとしない気がした。
 父はようやく顔を上げ、目をしょぼしょぼとさせた。
「お父さんこそ……辛かったんじゃ……」
 そう言うと父は大きくかぶりを振った。そして、エノリアの両手を取る。震える肩をそっと撫でて、エノリアは大丈夫だと繰りかえした。その皺皺の手の感触に、エノリアは眉をひそめた。
 きっと、普通に過ぎる歳月ならば、ここまで人を衰えさせはしなかっただろう。
 しばらくして父が落ち着きを取り戻すと、エノリアは話す言葉を失う。
「お母さんにも会いたいだろう? さ、エノリア。覚えているか、お前が小さいころ住んでた家だぞ」
 と腕をひっぱられた。だが、エノリアはそれについていくことができない。あの家には、『エノリア』がいる。そして、幸せそうな母の笑顔がある。
「エノリア?」
 自分の腕に抵抗を感じて、父は不審そうに振り返る。
「どうした、エノリア。お母さんもいるぞ?」
「あの子は、誰なの? お父さん」
 自分の声が思ったよりも沈んでいる。そう聞くエノリアに、父は驚きの表情を隠せなかった。
「あの子?」
「小さな子供がいるじゃない」
 ぽそりと呟いて、エノリアは笑顔を作ろうとした。
「エノリアってお母さんが呼んでるじゃない? ね、養子でももらったの? でも、同じ名前付けなくても……、ちょっと、ひどいな」
 笑顔が引きつる。父が驚いたような目をして見つめてくる。傷つけたくなくて、焦ってエノリアは笑顔をもう一度作りなおした。
「妹になるのかな。……でも、同じ名前ってまずいよね。ううん、別に怒ってるわけじゃない……。お父さん?」
 父の表情は、エノリアが考えていたものとは少し違う。驚きとそしてわずかな恐れと。その表情の意味をつかめずに、言葉を途中で止めてしまった。
「お前に……見えるのか……?」
「見えるのかって。お母さんのことお母さんって呼んでて……。名前もエノリアだって……」
 悲愴な父の顔。救いを求めるように、エノリアを見上げ、そして視線を降ろす。
「……エノリア」
 そして、力のない様子で肩を落とす。ただごとでない様子にエノリアは心配になって、父を覗き込んだ。
「わしには見えない」
「?」
 言葉をそのまま受け取れなかった。聞き間違いかと覗き込むエノリアに、父は切迫した表情で訴える。
「あいつにしか見えないんだ。お前の言う女の子の姿など、わしには見えない! 見えないんだ!」
 言われたことを理解するのに時間がかかった。それを理解したとき、押しつぶされるかのような胸の苦しさに息が詰まりそうになった。
 
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