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 もしも、私が金色の髪でなかったら?
 もしも、私が金色の瞳でなかったら。
 そう考えなかったことがないなんて、言えない。
 あのとき、小さな手からこの金色から逃れる術を貰い、彼女から離れ、そして、徐々にこの髪に光《リア》が戻りつつあることに、不安を抱かないなんてことはない。
 チュノーラ。私の生まれ育った国。
 この地に足を踏み入れてから、小さなざわめきが聞こえている。
 彼らには言えない。
 一歩一歩が重たくて、ときどき全てを捨ててしまいたくなるなんて。
 柄を握り締める。
 私はいろんなものを誓ってきたのに、いろんなものを忘れてしまおうとしている。
 少し伸びた髪が、肩に軽く触れるたびに、思い出そうとしてるのに。
『二つ目の太陽の娘の仕業なんて言わせないわ! 私が、シャイナを見つけ出してみせる! 魔物の現れる原因を突き止めて、そして、リーシャの敵を討ってみせるわ!』
 自分の声が、とても遠い。
 リーシャの仇……。
 ザクーにあったとき、そんなことも思いつかなかった。そうだ、彼はリーシャの仇。
 だけど、その思いは遠い。あのときよりもさらに遠い。
 コウトールとカーラ、ミラールとランとユセ。彼らが何かを相談している様子を後ろでぼんやりと見つめていたことにエノリアは気づいた。この旅は、自分のものでもあるのに、何をまかせっきりにしているのかと思いつつ、そちらへ足を向けようとした。  そのとき彼女の瞳の端に映ったのは明るい栗色の髪。随分低い位置に。どうしてかその存在に目を取られて、エノリアはその栗色の髪の……少女を目で追った。
(あの子)
 何かを探しているかのような様子。その足取りはふらふらとしていて、大人たちに踏み潰されてしまいそうだ。泣きそうな目を見たとき、エノリアは思わずそちらへ足を進めていた。
 不注意な大人が急な方向転換をして、他の方向へ気をとられていた少女へぶつかる。小さな体がぐらりと揺れて、無防備に地面へ倒れかけたとき、エノリアは夢中でその体を支えた。
 反射的に目をつぶり、体を固くした少女を覗き込む。
「やっぱり」
 思わずもれた言葉は、その少女の表情を柔らかくした。少女はおそるおそる目を開け、そして、自分の体を支えてくれているエノリアに目を向ける。
「あ」
 素直に驚いた様子の少女に、エノリアはニコリと微笑んだ。
「エノリアちゃん」
 昨日、酒場で会った少女だ。こんなに沢山の大人たちの間をくぐりぬけていたので、気が張り詰めていたのだろう。知っているエノリアの顔を見て、少女のエノリアは安堵の表情を見せて、目を潤ませた。
「おねーちゃん」
「どうしたの? お父さんとはぐれたの?」
 できるだけ優しい声でそう聞くと、少女はますます目を潤ませ、そして、ぐいっと目元を拭った。
「ううん。ちょっとだけなの。探してるから、すぐに見つかるの」
「大丈夫? 一緒に探そうか?」
 すると少女は大きく首を振った。
「ううん。違うの。大丈夫。私が見つけないと駄目なの」
「?」
 むきになって断る少女を怪訝に思いつつ、言葉を重ねる。
「でも、危ないよ?」
「ううん。これは、試しているの。……ううーん。お遊戯なのよ。私がお父さんを見つけなくちゃならないの」
(試す?)
 ますます怪訝に思いながらも、その強い表情にエノリアはそれ以上は何もいえなかった。ひとまず、相槌を打ちながら、エノリアは手を差し伸べる。
「じゃあ、少しの間、お姉ちゃんとお散歩しない?」
「でも……お父さん……」
「エノリアちゃんは、お父さんを探しながらでいいよ。お姉ちゃんは、船を待っている間退屈だから、エノリアちゃんが一緒に散歩してくれるとうれしいな」
 エノリアの言葉に、少女はしばらく考え込みながら、さもいい考えだと思ったらしく明るい顔でうなずいた。
 しっかりと自分の手を握る小さな暖かさに、不思議なうれしさを感じつつ、エノリアは小さなエノリアをつれてきょろきょろとしながら歩き始めた。
 昨日のちらっとみた後姿を捜せばいいのだろうと、散歩と言いながら周辺を見渡した。
 人々は困り果てた顔をしている。そういえば、若い人が多いななんて思ったりもした。コウトールほどの年齢は少ない。これなら探しやすいかと思い始めていたとき。
「あ、お父さん!」
 小さなエノリアが声をあげた。ぱっと手の暖かさが消える。それに気づいた瞬間、小さなエノリアは小さなお辞儀と感謝の言葉を口にして、瞬く間に人の間を抜けて、真っ直ぐに駆け抜けて行った。
 小さな体が目指す先に、昨日の夜見かけたあの後姿があった。
 エノリアの手は先ほどまで小さな手を握り締めていた形のままで、冷たい風を受けている。
(お父さん?)
 懐かしいと。そして、暖かいと。そんな気がした。
 あれは私のお父さんではないだろうか。
 そんなはずがないと思いながら、その大きな背中を凝視してしまう。自分の記憶の中の父にあと10年ほど年を重ねたららあんな風になるかもしれない。そんな想像がそう錯覚させるのだろう。
(近づいてみようか)
 声をかけてみようか。間違いだったら謝ればいいだけのこと。
 ふと足を進めようとして、その動きは肩にかけられた手で止められる。驚いて振り向くと、同じように驚いた表情を浮かべた緑色の瞳が目の前にあった。
「ラン?」
「はぐれるなよ。……どうした?」
 エノリアの心臓は必要以上に早く鼓動する。その動揺を見てとったからか、ランの言葉の最後の方は少し柔らかな響きをしていた。
 エノリアは自分の動揺に戸惑っていた。父のことを考えていたところにランが声をかけてきたからだろうか。現実に急に引き戻された。
「ううん……。ごめん」
 しおらしく謝るエノリアに、ランはますます驚いたように目を見開いた。心配そうにエノリアを覗き込む。
「お前……腹でも痛いのか?」
 握り締めた拳をランの腹にぶつけていたのは、多分条件反射だったのだろうと思う。
「失礼ねっ。悪いものなんて食べてないわよ!」
「そこまで言ってないだろ」
 だけどこのやり取りはエノリアの気分を浮上させた。
「話の途中で抜け出したのは、悪かったわ。で、どう?」
「大きな船がないらしいな。2隻ほどあったらしいが、どれも今修理中らしい」
「修理?」
「小さな船ばかりで馬も乗せられない。これだけの人数を運ぼうと思えば、どれほどかかることか」
 ふと見渡すと人はどんどん増えているようであった。きりがないだろう。船の持ち主と旅人達の交渉は、過熱気味である。
「どうするの?」
「コウトールさんが、旧道を思い出した。そこを通ろうかって言ってるんだけど」
 ランの表情に渋さが見られるのは、何もエノリアが腹を殴ったせいではないだろう。
「どうしたの?」
「森なんだよな。旧道が通ってるのは」
「だから……?」
 聞きながらもエノリアの中には答えが浮かんでいた。
「魔物?」
 ランは頷く。頷いて、そしてみんなが待っているほうへ足を向けた。歩きながら話そうということらしい。
「ねぇ、そんなに急がなくてもいいんじゃないの? 私達は。別に次の町に明日までに付かなくてはいけないってわけじゃないじゃない? 今の道が封鎖され続けるようだったら、海路が確保されると思うわ。そう遅いことじゃないと思うし」
「いや、急ぐんだ」
「どういうこと?」
「……ユセがそう言ってる」
「どうして?」
 この質問に、ランは吐き捨てるようにさあなと答えた。そう言ってから、少し眉を寄せた。
「それに、俺も急いだ方がいい気がする」
 単なる予感の話。確信を欠いた迷いの言葉だったが、エノリアはそれを否定しなかった。
「……その旧道を通ればノウレルにはどれぐらいで付くの?」
「順調に行けば明日の昼前には」
「なんだか引っかかるわね」
 順調という言葉が強調されたことに対して、エノリアはそう言った。
「最近になって魔物の増え方が尋常じゃないって聞いたな。これまでとは比較にならないほど早いらしい。しかも、強くなっている。どの村でも誰かが襲われたとかいう話を聞くらしいな」
「それで、急いだ方がいいってランは言うのね?」
 失われた神殿というところで、何かが見つかるかもしれないから。魔物が増えるのを食い止められる何かが。
「それだけじゃないけどな……」
 ミラールに飛びついたあの美女が勢いよく手を振っているのが目に入った。それにエノリアは苦笑しながら手を上げる。
 どうも憎めない女性だと思いながら。
 カーラはエノリアが合流すると勢いよくその両手を握り締めた。戸惑うエノリアを目の前にしながらも、ぶんぶんとその手を上下に振る。
「よろしく」
 何がよろしくなのか。額を押さえるミラールと、いつもと変わらず微笑を浮かべたままのユセを見て、そして、傍らのランを見上げた。
「ど、ゆ?」
「あーっとな。一緒に行くことになった」
「え?」
 怪訝な表情をする間もなく、エノリアはカーラに引っ張られた。
「大丈夫。私は何も出来ないが、コウトールはそこそこ剣が使えるし」
 コウトールは穏やかな笑みを浮かべる。この紳士が剣を振り回す姿を想像するのは容易でなく、エノリアの表情には不安が刻まれた。
「スーライは火魔術師《ベイタ》だっ」
 ひらひらと手を振る青年。なんとも頼りなさそうな笑みに、ますますエノリアは不安になってくる。
「ラン」
「大丈夫、だろう」
「私が言ってるのは、危険に巻き込まないか心配ってこと!」 
 ザクーのこともある。彼は、私の位置を把握しているのだ。おぞましい記憶がよみがえった。
 と、カーラがランの代わりに再びエノリアの手を上下に振って、にっこりと笑う。
「私達が無理矢理付いていくと言ったんだ。迷惑はかけない。かけられても文句は言わない!」
 なんだかしっくりこない台詞であったが、エノリアは一応「はぁ」と気の抜けた返事をした。
「さ、行こう!」
 気合を入れるカーラに続いた6人と4頭の馬の足、今はほとんど使われることのない旧道へ向けられた。



「何もなければ半日だね。何もなければ」
 コウトールの言葉をランは正直恨んでしまった。この道を通ろうと最終的に判断を下したのは自分でもある。だから、その恨みは情けないものでしかないのだけども。
 旧道に入ってしばらくして、この旧道を思い出したのは自分達だけではなかったということが分かった。なぜなら転々と赤い液体が落ちていたからだ。
(死体の一つもない)
 転々と落ちた赤い液体の先には、ぶちまけられた赤い液。そして、思わず鼻を覆う鉄の匂い。
「何もなければ、か」
 先頭を歩いていたランはそう呟いて、その液体を見つめる。時間は経っていない。
「戻る?」
 ランのすぐ後ろに居たエノリアがそう聞く。ピクリとランの耳が何かを捉えた。
「ラン」
 ミラールの声色で察する。彼は風魔術師《ウィタ》で、音には敏感だ。
(何もないはずがない)
 ランは背後を振り返った。殿にはコウトールが居る。
「コウトール!」
 『さん』をつける余裕はなかった。風が襲う。ランはそれを避けつつ、手を振り払った。大地の結界を馬達にはりめぐらした。無論範囲はエノリアとカーラを含むはずだった。
「きゃっ」
 短い悲鳴と、草がこすれあう音、人が倒れる音。ランは振り返った。カーラとエノリアが何かに足をつかまれ、草むらへ引きずりこまれそうになっていた。結界が及ぶ寸前だった、ランは自分を襲う大きな鳥のような魔物に剣を振るう。そして、ミラールを振り返った。 「ミラール!」
 最後までは言わなくてもいい。ミラールとスーライはカーラとエノリアを襲う魔物へ攻撃を始める。
 草むらの中でその実態は見えない。ミラールの風が草をなぎ倒し、人のものでない悲鳴があがる。
 ランはその姿を確認する暇はなかった。結界を張り巡らせた馬達は、自分達の判断でこの場を離れていく。戦いが終わり、合図を送ればランの愛馬ラルディは他の馬もつれて帰ってくるだろう。
 大きな鳥は鷹にも似ていた。鋭い爪をランに振り下ろしてくる。それをかわして、剣を付いた。青い血がぼたぼたと落ち、痛みに体勢を崩した魔物は、木に激突して地面に落ちた。
 ランは肩で息を繰り返す。周りをぐるりと見渡すと、狼の形をした魔物たちがいる。とんっと背中に触れたのは、どうやらユセらしい。
「あんた、戦えるのか」
「傷つけたりはできませんが。動きを抑える程度なら」
「……もしかして、今それをやってるのか」
 魔物たちはこちらを伺ったまま、威嚇の音を漏らすだけで襲い掛かってくる気配はない。
 息を整え、そして、狼の形をした魔物たちの向こう側を睨んだ。大きな影が動いた。そして、こちらへ向かってくるようにも見えた。
「……あれも、魔物か」
 ランの呟きにユセは何を対象にしているのかをすぐに察する。
「でしょうね。こちらにこられると少々厄介では」
 ランは大きく息を吐いた。あの大きな影が動くたびに、地面が揺れているのは気のせいだと言い聞かせた。
「補助、してもらえるか」
「もちろん」
 ランは柄を握りしめる。そして、コウトールへ顔を向けた。
「コウトールさん! ここは任す!」
 コウトールが剣を振るっている姿は目の端に捉えていた。その腕は中々のものだった。
 カーラとエノリアの周りの魔物は、彼らに任せて置けばいい。
 ランとユセは同時に走り出し、狼の頭上を越す。越した瞬間、狼達はコウトールたちに向かい始めた。その音を聞きながら、ランが森の奥で対峙したのはもっと巨大な。
「いくらなんでも育ちすぎだろ」
 言っても無駄だと思いながらも、ランは呟いていた。
 木の枝葉が作り出す影よりももっと濃厚な影がランとユセに落ちている。見上げるほどの青い肌の巨体。凶悪と形容してよい顔立ちは何に似ているだろう。狼だろうか……。
 鋭い牙の間からおちる唾液が、腐臭をあたりへ撒き散らしていた。白い牙は赤い色で染められている。
 道に落ちていた大量の血と、残されていない死体、血に染まった魔物の牙。これらを線で結びつけて、ランの中にふつふつと浮かび上がる感情があった。
「これを放っておくか? 普通」
 ランの独り言に近い言葉に、後ろに立っていたユセが冷静に答えた。
「その代わり、強力な結界が張ってあるはずです。この森には」
「臭いものには蓋をしろってことか?」
 微量の侮蔑を加えたランの言葉に、ユセは弁解するように続けた。
「対応が間に合わないんですよ。魔物の成長の速度に」
「場、か」
 フュンラン城でセイが言っていた言葉を思い出していた。
 ランは剣を構えなおした。
 魔物が大地を揺るがすような足音を立てて、こちらへ向かってきている。動きは緩慢だが、力はありそうだ。
「あんた、しばらく抑えられるか」
「やりましょう」
 簡単に承諾するユセの言葉の響きに、ランの心は落ち着いた。疑いを持たさぬ響きがある。簡単なことではないだろうに、無条件に信じられる空気があった。
 こちらに巨大な腕が圧倒的な力をもって振り下ろされる。それをランは飛びよけた。大地を揺るがす衝撃音がして、ランは思わず片目をつぶる。
 と、もう一方の手が横に振り払われる。それをギリギリでかわして、懐に入った。が、重たい足が振り上げられる。
 ランは目を見開いて、後ろへ飛びのいた。そこへ、再び巨大な腕を振りおろしてくる。
(思ったより、動けるんだな)
 あの巨体をどんな力で支えているのだろう。そう思いながら、よけかけたランの後ろで、ユセの落ち着いた声が響いた。
 やすやすと。そう、本当にやすやすと彼は一言二言つむいだだけで、魔物の動きを束縛する。
 どうやったのかと問いかけそうになったが、ひとまずランは目の前の魔物に集中する。低いうなり声に重ねるように、ランが魔術をつむぐ。
「《ラン=ロック=アリイマ=アルタ・ディス・メル》」
 ざっと右腕を振りかぶると魔物が上下に激しく揺れた。うなり声が驚愕の声に変わる。ユセが掌を下ろした。と、入れ替わるようにランが剣を振りかぶる。
「《ベイタ・メル》」
「《ウィタ》」
 ランが驚くぐらいの絶妙な間合いで魔物を襲った火は数倍になって魔物を襲う。逃れられぬ熱さに魔物は耳を劈く金切り声を上げた。
「ユセ、あんた……」
「止めを」
 ユセはいつもと変わらぬ穏やかな表情で、熱さにもだえる魔物を示した。
「ああ」
 炎を振り払うように無造作に振りまわされる腕が、森の木々をなぎ倒していた。こちらに完全に後ろを見せた魔物の背中へ、ランは走り込み、心臓だと思われるところへ剣を突き刺した。
 長い断末魔の悲鳴の後、巨大な魔物の身体は地響きを立てて崩れ落ちる。ランはその死体から剣を抜き、振り返った。
「上級魔術師か、あんた」
 ユセはランの言葉に、笑って答える。
「いいえ」
「でも、あの言葉で……セアラ並だ」
「そうでしょうか? 彼なら言葉など紡がなくてもあれくらいすぐに」
 と言いかけて、ユセははじかれたように振り返る。
「呼ばれました」
「?」
 ランが一瞬怪訝な顔をするが、すぐに表情を引き締めた。次は、彼の耳にも届いた。
 気づけば、エノリアたちの姿が確認できないところまで移動してしまっていた。
「戻る!」
 軽くうなずいて二人は木々をくぐりぬけて走っていく。



 ミラールの額から汗がしたたりおちて、草葉を濡らした。エノリアはその後ろで剣の柄に手をかけたまま、硬直していた。
 複数の魔物が何度も牙をむいて、踊りかかってくる。それをミラールが作り出した風の障壁がはじきとばしていた。
 あまり時間をかけられないことはエノリアにも分かっていた。ミラールの集中力が切れれば、この風の壁はもろくも崩れ去る。
 いつかランが言っていた。ミラールの結界は完璧なんだと。
 だけど、何かが起こっている。
 彼の額にびっしりと浮かんだ汗の粒を見て、エノリアは叫んだ。
「私が行くわっ!」
 だが、再びミラールはかたくなに首を振る。それを3度ほど繰りかえし、今では語りかけるのも憚られた。同じく結界内にいるカーラは、息を潜めてこの状況を見守っている。草むらに引きずりこまれかけたときに、カーラは掴まれた足に傷を受けていた。布で抑えていたが、その布もじわりじわりと血を吸っている。彼女はその場に座り込んで動けない。これでミラールの結界も破られたら……。
 ミラールだって、体調がおかしいみたいで、2人を同時に守れるか不安だった。
 柄を握る手に汗がにじんできた。
 コウトールやスーライの手で、魔物の数が減りつつあった。こちらを狙っているのはたった3匹。機会さえ見間違えなければ、エノリアにだって倒せるだろう。
(私はなんのために再び剣を持ったの)
 ランには及ばない。そんなことは分かっている。でも守られるだけでは嫌だから。
「ミラール」
 最後に一度だけ声をかける。ミラールはかすかに首を振った。
 そこでいつもと様子が違うことに気づく。エノリアはもう一度、ミラールの名を呼んだ。さきほどまでの口調とはまったく違う響きで。
「ミラール?」
 ミラールの身体が揺れた。その場に崩れ落ちかけたのを支えたのはカーラだ。
 エノリアは一瞬気を取られた。だが、カーラの強い瞳がエノリアに向けられた。
 何か言う前に、エノリアは動いていた。崩れ落ちたミラールを狙う魔物の前にエノリアは立ちふさがる。
(やれる!)
 自分に言い聞かせて、軽い剣を振った。魔物の身体のどこを切ったのかさえも分からない。ただ、剣を振った。
 びしゃりと血をかぶった。顔に生ぬるさと鉄の匂いが広がる。その瞬間に覚悟した。拭うことも忘れて、3匹をにらみつけた。エノリアの斬った魔物が、どおっと地面に倒れる。それを合図に、2匹が同時に跳躍してきた。
 右にしか対応が出来ない。剣は魔物をかすり、魔物は体勢を変えて地面に着地した。それを目の端で捕らえながら、背中に来る一撃を覚悟した。だが。
「……!」
 後ろで押し殺した悲鳴が上がる。エノリアは驚いて振り返った。カーラが自分をかばっていた。
「カーラさん」
「早く」
 さきほど仕留め損ねた魔物は、その一瞬さえ見逃さなかった。エノリアへそれはもう一度跳躍する。カーラの右腕に牙を立てている魔物から視線をはずし、エノリアはくるりと振り返る。間際まで迫っていた魔物を串刺しにする。どおっと倒れる魔物に剣を取られて、エノリアは前のめりになった。少しだけ息の残った魔物の腹に足を置いて、エノリアは無我夢中で剣を引き抜いた。そして、カーラの右腕に牙を立てた魔物の胴体へエノリアは思い切って剣を差し込んだ。青い血が飛ぶ。カーラが右腕を押さえて、地面に横たわったミラールのもとにうずくまった。
 終わったかと思った。だが、エノリアは背後に魔物のうなり声を聞いた。自分達へ向かっていたのは3匹だったが、それで魔物が全てというわけではない。
 振り返ったエノリアのすぐ側にまで、魔物はやってきていた。
「ランっ」
 反射的に名前を呼んでいた。剣を顔にかざす。
 やってくるだろう痛みに備えて身体をこわばらせた。だが、いつまでたっても痛みはやってこずに、地面に軽く何かが落ちる音がする。
「エノリア」
 名前を呼ばれて、剣を握った手に暖かい感触。反射的にこわばる体。だが、何かが自分をゆさぶった。
「エノリア、終わったんだ」
 ランの声だ。エノリアは恐る恐る腕を下ろす。と、心配そうな緑の瞳がこちらをのぞきこんでいた。
「エノリア、終わった」
「ラン……」
 こわばった身体に安堵が急に駆け抜けて、エノリアはその場にへたりこみそうになる。だけど、気を取り直して足に力を込めた。
「ラン、ミラールがっ」
「ああ、カーラさんも」
 ランの手がエノリアの腕から離れる。そして、うずくまる二人のもとにランがしゃがみこんだ。
「大丈夫か」
 カーラが血だらけの手で自分の右腕を押さえていた。やっと魔物を片付けたコウトールがよってきて、てきぱきとカーラの右腕と右足に処置を施していく。
「傷つけて……」
 コウトールの声に少々の怒りが篭っていた。ごめんと呟くカーラに、エノリアは顔を寄せた。
「ごめんなさい。私をかばってくれて」
「いいって。あなたが剣を振るってくれなかったら、これだけじゃすまなかったって」
 カーラがにっこりと笑い、そして笑顔を収めてミラールの様子を見るランに顔を寄せる。
「どうかしら、ミラール」
「……一度、シャイマルークに戻った方がいいかもしれない」
 ランが苦々しく呟いた。その低い響きにカーラは顔に浮かぶ心配そうな色を深めて、蒼白なミラールの顔を覗き込んだ。
「セアラに見せないと」
 ランが落ち着きなく言い、そしてカーラと同じようにミラールを覗き込む。その目には心配以上に驚愕の色があって、エノリアは視線をミラールの顔とランの顔の間で往復させた。
 と、ミラールがうっすらと目を開いた。唇を開く。
「いい、戻らない」
「ミラール」
「……こっちのほうが大事だ……。大丈夫、大丈夫」
「大丈夫って、お前……」
 反論しようとしたランにミラールは手を伸ばした。彼の肩のあたりをぐっと掴む。
「わかってるんだ。ラン……」
 そう言って、ミラールの瞳は再び閉ざされ、ランの肩を掴んでいた力も抜けて地面に落ちた。
 いつもよりも短く呼吸を繰り返す彼の表情をランは今度は幾分か怒気を含んだ目で見つめた。エノリアにはランの不安に混ざった苛立ちが不思議だった。
 どうしていいのか分からず、意識を失ったミラールを囲んで皆の間に沈黙が落ちた。
「今日はここで、休みますか」
 コウトールの声が皆を現実に引き戻す。もう日は傾き、影が濃くなりつつあった。
「あと、どれぐらいかかりそうなんですか」
 ひとまず立ち上がり、ランは顔をまっすぐにあげてコウトールに聞いた。
「今まできた道ほどでしょう」
「……予定外だな」
「こんなはずじゃないんですけどね」
 さすがにコウトールは眉を寄せた。
「どこも予定外ですよ。魔物の動きなんて」
 ランはそう呟いて、ふと顔を上げた。心配そうにこちらを見ている金色の瞳と目が合う。
「この森が異常なんじゃないの?」
 のんきそうなスーライの声には誰もあえて反応しなかったが、それもありえるとランは思った。
(場、か)
「ここらへんの魔物は今出てきたので全部でしょう。それに、今日殺害した魔物の数から言って、魔物は警戒心を強めているはず。魔物は結構利口ですからね、かなわないと思えば襲ってこないんです。ですから、火はおこしましょう。あれよりも弱い魔物なら避けてくれる」
 あれと言ってコウトールが指し示したのは、ランがしとめた魔物のことだ。
「あれだけ巨大な魔物を見るのは、私もはじめてですよ」
 コウトールの言葉に、ランはうんざりだとでも言いたそうなため息を付け加えて、聞き返した。
「弱くなければ?」
「まぁ、襲ってくるでしょうけどね。だから、結界は2重に」
 長年の旅の経験があってのコウトールの助言はありがたい。ラン達は魔物の死体の山から、少し離れたところで宿をとることにした。道よりも少し離れたところだ。
 ひとまず、馬にくくりつけていた荷物の中から厚手の布を引っ張り出すと、ミラールを包んでその場に寝かせた。
 微かに青白い顔色にランが心配そうな視線を落とす。
「ラン?」
 異常なほど心配そうな表情をするランを気遣って、エノリアが肩に手を伸ばした。と、ランは少しだけ笑みを浮かべて、エノリアに視線を向ける。
「木でも、集めてくる」
「……私も」
「いや、エノリアは、ミラールの側にいてくれ」
 そう言ってランは茂る木々の間に消えていった。一人でいたいと言わずとも伝わる、拒絶した背中をエノリアはしばらく見つめていた。
 
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