目の前の書類の1行を先ほどから何度も目でたどっていることに気づいて、ゼアルークは視線を上げた。輝くように磨き上げられた黒い重厚な机の向こう側に、備えられている長椅子と卓子。その長椅子にはいつものように寝そべっているセアラがいた。あの夜のことを、忘れたわけではない。だが、夢だといわれればそうだとも思えた。目の前にいるセアラは、あのときのセアラは別人のようにも見える。
「陛下?」
訝しがるような声がして、ゼアルークは我に返りそちらに視線をやる。その書類を持ってきて、ゼアルークの質問に答えるために控えていた大臣の一人が声をかけたのだ。
ゼアルークは誤魔化すように微笑んだ。民たちに見せる優しい微笑だった。
「すまない。この件についてはこれで構わない。あとはフュンランとの連絡は、頻繁にとるように」
「新しい水魔術師《ルシタ》が必要かと」
「そうか」
ゼアルークはわからぬように溜息をつき、さりげなく額を押さえた。
前任のキャニルス当主の突然の不幸を思い出した。キャニルスは早くに引退した先代当主が再び立ち、その娘が水魔術師《ルシタ》として王宮に昇って来た。それに任せるようにしたのだが、皆まで言わなくとも大臣の言いたいことは分かる。
「オオガの水魔術師《ルシタ》も……」
大臣が言葉を濁す。オオガに居た優秀な水魔術師《ルシタ》は、全てが原因不明(勿論、民衆への説明の限りだが)の事故で亡くなった。それから、上級水魔術師《ルシタ》は不足している。
「早急に対応をしてくれ」
ゼアルークはそう言うと、頷いて見せた。大臣達はそれを合図のように受けとめ、ぞろぞろと出て行く。
最後の一人が退出し、扉が閉まってすぐにセアラが口を開いた。
「フュンランへの手配は?」
長椅子に寝そべったまま、ラスカフューネの花を目の前で揺らして遊んでいるようだ。
「光魔術師《リスタ》を」
淡々と答えて、ゼアルークは視線を机に落とした。自分の顔が映っていた。侍女がよほどはりきって掃除をしたのであろう。いつもよりも輝きが増しているような気がした。
「闇魔術師《ゼクタ》は?」
セアラは長椅子に寝そべったまま、いたずらっこのような瞳を向ける。ゼアルークの眉が少しだけ動いた。
「私からは送れないだろう?」
「その通りだね。でも送れないと困るだろう」
「セイが手配したと言っていた」
「そう、セイから他に何か?」
セアラの問いに、ゼアルークは視線を書類に落とす。
『水鏡では報告できないことがあります。直接ゼアルーク様に会ってからと』
新しい水魔術師《ルシタ》が初仕事に顔を紅潮させながらそう言ってきたことを思い出した。だがそれはゼアルークの胸の中へしまう。
つい最近までその仕事をしていたルシータと言うキャニルスの当主の落ちついた表情が目に浮んだ。優秀な水魔術師《ルシタ》だったのにと、思い返す。
ゼアルークはついで、彼の祖母を思い出した。キャニルスを長年支えていた彼女が代がわりしてから、キャニルスの当主は落ちつくことなく変わって行く。
(あの若者で落ちつくだろうと思ったが……)
そう言えば、と思い出す。
セイが手配したと言う闇魔術師《ゼクタ》は、キャニルス家の者だったはずだ。キャニルスに闇魔術師《ゼクタ》が生まれたか……。
「ゼアルーク? 私には言えないことでも報告があったかい?」
セアラの問いに、ゼアルークは間髪置かずに答えた。
「ないな」
「そう」
セアラはそう言うと目を瞑った。真紅の花の香りを吸いこむ。
キャニルスの闇魔術師《ゼクタ》。それに興味が沸いた。迎え入れられないだろうか?
ゼアルークはそう思いながら目を細める。
「何故、闇魔術師《ゼクタ》を禁忌としたのだ」
ゼアルークの質問に、セアラは少しだけ目を開けた。突然の質問に聞こえたのかもしれないとゼアルークは思ったが、構わず続ける。
「闇《ゼク》は強過ぎて、人を狂わす。それは、分かる。だが、それに耐える者もいるだろう?」
赤い瞳にとけこむようなラスカフューネの花の赤を映して、セアラは遠くを見つめているようだった。ゼアルークはそれを見つめて、黙りこむ。自分が発する圧力を、目の前の男は感じないだろうとおもいつつも、目に力をこめた。
「セアラ」
「……ラスカフューネの名の由来を、君は知っているかい?」
セアラの突然の話題転換に、ゼアルークは一瞬不快な顔をしたが、それを隠すと再び書類を手に取った。
「知らないな」
「ラは【人】、スカは【赤】、フューネはフュン【香り】。赤は、血と炎の意味をもつから……。【血の香り】というあたりかなぁ」
ゼアルークは顔をあげてセアラを見た。揺れる赤い花とナキシスの微笑が重なる。
「……花言葉は」
自分の唇から出た言葉が意外で、ゼアルークは眉をひそめた。
「花言葉? 君、面白いものに興味を持つね。ラスカフューネの花言葉は、『契約』かな? 血をかけた契約……強い強い約束だね」
セアラがそう言って、ラスカフューネを見つめる。
「この花は、その戒めだよ。約束を忘れるなというね」
『殺してくださいますか?』
約束。
ナキシスの微笑み、言葉。ゼアルークは脳裏に浮かぶ何かを再び心に納めた。
そのとき扉が小さく叩かれる。
「なんだ」
ゼアルークの言葉に、扉の奥から返答があった。
「ナキシス様がいらっしゃいましたが」
「そうか、通してくれ」
そう言ってからセアラをちらりと見る。セアラは長椅子から身を起こし、ゼアルークへ視線を返した。
「席をはずそうか?」
「いや」
セアラはその返答を聞くと、端によって肘置きに持たれかかった。その期を見計らったようにナキシスが開かれた扉からあらわれる。
「お召しに従い参りました」
「こちらへ」
ナキシスがゼアルークの招きに従い、室内へ進む。立ち上がったセアラとゼアルークに迎えられ、セアラとは対になる長椅子に座ると、セアラも腰をおろした。ゼアルークは上座の席に腰を下ろす。絶妙なタイミングで運ばれるお茶の香りに、セアラは目を細めた。
「ナキシスと王と私。珍しい組合せだね。内緒話でもはじまるのかな?」
「似たようなものだ」
ゼアルークはそう言うと、人払いを命じた。部屋に三人のみ残ると、ゼアルークは切り出す。
「フュンランの話を聞いたと思うが。セイをそこへ向かわせている」
その説明はナキシスに向けられたものだった。
「セイ=シャド=レスタですか」
「フュンラン城を占領したのは魔物だと聞いていると思うが、その魔物と共に月の娘《イアル》が居たと言う話だ」
「それを水鏡でかい? 鳥や馬でその手の話は伝えられないだろう?」
ゼアルークはそれには返答せずに、ただ続けた。
「解放された城の水鏡によって月の娘《イアル》のことは伝えられた」
「フュンランにも月の娘《イアル》のことが伝わってしまったと考えていいのかい」
「……王には伝わっていない。意識が戻らないそうだ」
それもナキシスに向かっての説明だった。ナキシスは不思議そうな顔を少しだけしたが特に追求はしなかった。興味がないと言葉にする以上に瞳と表情が語る。事情を知っていたセアラは口に手を当て欠伸をした。それを諌めるように見てから、ゼアルークが口を開く。
「月の娘《イアル》の捕獲が最優先事項になってしまったのだが、そこでエノリアを」
ナキシスが要領を得たりという顔をして、お茶を口につけた。
「殺すわけにはいかなくなったのですね」
「事が済むまでは」
「捕獲とは穏やかでないようですが?」
「勿論、穏やかな話では無い」
ゼアルークの言葉をナキシスは平然と捉えていた。その裏にある意味を痛いほど分かっているのに。薄い金色の瞳を毅然とあげて、ゼアルークを見つめていた。
「それが、娘の意味ならば、仕方のないことです」
諦め。
始終、彼女を彩る静けさはなんだろうとゼアルークは考えていた。ここで答えに行きつく。
諦めだ。
ナキシスはふっと口元に笑みを浮かべた。
「一つお聞きしたいことがあったのですが……。そう、月の娘《イアル》を捕獲とおっしゃる今だから、お聞きします」
「何だ?」
ナキシスは問いかけるゼアルークに向けて、軽く微笑んだ。
「どうして、私を殺そうとは思わないのですか?」
「なにを……」
咎めるような響きを込めて口にした言葉は、思ったよりもわざとらしく聞こえて、逆にゼアルークを責める。彼女が一瞬浮べた笑顔がとても痛々しく見えた。
「婚約を発表したからですか? そのようなこと関係ないでしょうに。手元に居ない方が殺しづらいなら、手元に居る方を殺せばいいではありませんか。
少なくとも、太陽が二つということは避けることができるでしょう?」
「ナキシス」
「それに、どうやら月の娘《イアル》を捉える餌となりうると判断されたのは、エノリアの方……」
ナキシスは淡々と言葉を紡いだ。
「この意味に対して、私は簡単な仮説を立てることが出来ますが……」
ナキシスは視線で聞きたいかとゼアルークに問う。ゼアルークは静かに首を振った。セアラはこのやり取りを一人、静かに見守っていた。
ナキシスは首を振るゼアルークを目の前に、ころころと笑った。
彼女が声を上げて楽しそうに笑うのを初めて見たゼアルークは瞠目する。話の内容も、この緊迫感も、楽しく笑うにはそぐわない状況だ。
「ゼアルーク様らしくないですね。たかだか娘1人。身を守る術も知らない娘一人ではありませんか」
声を押し殺し、ナキシスは普段と変わらぬ表情で言う。そして、そこに落ちる一滴の波紋は微笑となった。
「ふふふ。何の力も持たぬ娘ごときに振りまわされる世界なんておかしいではないですか。違いますか? セアラ様」
最後の言葉は美しい最高魔術師の目を捕らえて向けられたものだった。赤い瞳を見つめて、ナキシスは小さく問う。
「どうして宮など創ったのです?」
「……ナキシス」
困ったような、そして、それ以上の言葉を止めるようなセアラの声に、ナキシスは構わず続けた。
「このようなこと言わせたくなければ、知識など与えなければいいのです。娘が最初に持つ問いです。
問いを持たぬ娘、そして黙殺できる娘は長生きが出来る。どうして、先代の娘達が短命だったかご存知のはずですよ。
いいえ、先代のみならず、娘は総じて短命です。ダライア様は、これまでの娘達の中で1番長命です。それは、あの方がとても聡いお方だから。
先代の太陽の娘《リスタル》と月の娘《イアル》が同時期にお亡くなりになったのか、ご存知でしょう?」
セアラはまっすぐにナキシスを見る。挑むような彼女の視線から逃げたりはしなかった。
「自ら命を絶ったからでしょう、セアラ様」
ゼアルークはナキシスを食い入るように見つめる。そして、その視線をセアラに向ける。穏やかに見えるその表情は、逆にいえば全てが押し殺された表情だった。ほんの少しのゆらぎも見えない。
ナキシスの金色の瞳が薄く光った。
「ご存知なかったのですね、陛下……。そういう世界なのです、宮は」
「自ら、命を?」
ゼアルークはその言葉を呟いた。そんなことがあったのだろうか。
セアラは長く息を吐く。
「臆測でしゃべるのは、危険だよ?」
「臆測とおっしゃるのですか。……そう、それならよいでしょう」
ナキシスは目を閉じた。そして、ゆっくりと開くと目の前のお茶を手に取る。静かに飲み干した。
平然と言いきったナキシスが、ゼアルークには痛々しく見える。セアラは茶器を卓上に置くと、長い指を組み合わせ、長椅子の背もたれへ持たれかかった。
「君は、物語を書くのが得意だというね……」
セアラはにこりと微笑んだ。今までナキシスが話したことを、すべて彼女の物語だとでも言うように。ナキシスはひるまなかった。むしろ、ますます表情を消して呟く。
「何故、セアラ様。あなたは城を去ったのです」
わずかにセアラの眉が動いた。ナキシスが続けようと身を乗り出す。ゼアルークもその問いには興味を持った。
「何か理由があるのですか」
セアラは指を軽く曲げ、人差指の関節を唇に当ててナキシスを見ていた。
「飽きたからだよ。この、城の生活に」
ひらひらと手を振って、セアラは笑った。
「それ以上の理由が必要かな」
ナキシスが口を開きかけたとき、人払いをさせたはずのこの部屋の扉を叩く音がした。続けて3度を、繰り返して2度。叩き方に只後とでない響きを感じて、3人は扉へ視線をやった。
「何だ」
ゼアルークが鋭い声で聞く。
「失礼いたします! ダライア様が」
上ずった声に、セアラが身体を起こした。ナキシスは笑顔の消えたセアラの顔を見つめる。
「お倒れに」
ナキシスの視界の先で、セアラが唇を引き締め立ちあがった。ゼアルークよりも先に扉へ向かう。
「一足先に失礼するよ、ゼアルーク」
「私もすぐ行く」
ゼアルークの言葉に返事もせず、セアラは扉を開け放った。ゼアルークも知らせに来た侍従を扉の側にまで寄せ、いくつかの指示をする。そして、自分もダライアの元へ行こうとナキシスを振りかえったとき、彼女はその場に立ち尽くしていた。
「ナキシス」
「セアラ様、あんな顔をなさるとは……」
ぽつりと呟いたナキシス。ゼアルークは目を細めた。今まで彼が見たことの無い表情の彼女が居た。
「ダライア様のことを……」
呟きは、完全にゼアルークの存在を忘れてのものであっただろう。食い入るように見つめていると、ナキシスはそのままの表情をゼアルークに向けた。
ゼアルークは何かに耐えている自分に気づいた。自分の心臓の上を思いきり押えたい衝動と、彼女に対する哀れみの心。
彼女を哀れに思うのは、この一瞬で誰が誰を思うのか、自分がわかってしまったからだ。
「ゼアルーク様」
ナキシスの瞳に、微かな意志が灯る。それは、ゼアルークを静かに拒絶する光だった。
「私は、セアラ様を愛しております。それでも、私が隣に座ることを望むと?」
ゼアルークは気づかれぬように喉を上下させる。ますます、心臓を押えたくなった。少しはこの気持ちが楽になるのかもしれない……。
彼は表情を固めることに専心した。そして、出来るだけ低い声で言う。
「私は貴方の心まで望んではいない」
ナキシスの表情は変わらない。
変われ、と、強く願った。
少しでも傷ついた顔をしてくれたら、抱きしめるのに。抱きしめて、その細い髪に口づけて、嘘だと言うのに。
「ならばよろしいのです」
視線を外すナキシスは、そのままゼアルークの横を通り抜けた。薄い金色が描く線を追って、ゼアルークは口に手を当てる。
何が嘘で、何が本当だ。
急いで部屋を出て、廊下を見渡した。だが、金色はもう見えなかった。彼女の後姿も捉えられなくて、ゼアルークは唇を引き締める。
そして、足をそのまま進めた。
ダライアが倒れた。つまりは、大地の娘《アラル》が倒れた。
大地の娘《アラル》が、次に渡されるだけだ。ただ、それだけだ。
『娘の意味とはそんなものでしょう』
いつかの彼女の言葉に、首を振る自分が居るのが信じられない。
(私は、何が欲しいのだろう)
何故、傷ついているような気がするのだろう。
娘は娘。ただ、それだけ。
なのに、今は確信できる。たとえそれが最も必要なことだとしても、自分はナキシスを殺したりはできない。
ゼアルークは視線を落とした。自分が弱くなった気がして、片手で自分の肩を抱きしめた。
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