人々の影が動くようになった城内でエノリアは人々とすれ違うたびに微笑を浮かべそうになる。彼女が最初に見た城は、人々が微動だにしない異様な光景だったからだろう。
城の2階の一室は、客室として機能していた。今は、小さな闇魔術師《ゼクタ》のための部屋となっている。彼女が闇魔術師《ゼクタ》であり、この城の異常を回復している張本人だということを、知っている人は少ない。その役目はセイが受け持っていた。彼女は、フュンザス家の一人娘、アルディラの友人であり、水《ルーシ》と風《ウィア》のフォルタとして助力するということになっている。
(ラスメイはすごい)
エノリアはその部屋へ向かっていた。目の前で闇魔術師《ゼクタ》の力を見た。止まっていた人の動きが徐々に回復して行く姿を……。
ふと、エノリアは一つの部屋の前で動きを止める。シャイナの部屋だった。
あの頃と変わらぬ笑顔が目に浮ぶ。ランとそっくりのザクーを連れて、微笑んでいた。
(助からなかった人も居る……)
ラスメイがこの城に居た人すべてを救えたわけではなかった。あのまま眠りから覚めなかった人も居る。
セイは見事だった。彼はラスメイが傷つかないように、彼女の目から死を上手に隠した。だけど、ラスメイが傷つかないはずが無い。
エノリアの目にもそれは明らかだった。それ1点だけでも、シャイナはすでに許せない存在となっていた。
裏切られたという感情が1番近いかもしれない。勝手だと思ったけれども、もう、あの友人と昔のような時は分かち合えない。
(あの時間を分かち合ってたと思ってたのは、私だけだったのかも)
裏切られたのは、自分。だけど、きっとシャイナにとっては自分が裏切り者なのだ。
あのときの笑顔は嘘だったんだろうか?
シャイナは、私が本当に笑っていないと言った。私が逃げるのを見送るとき、本当の笑顔を見れて嬉しいって言っていた。だけど、本当に笑ってなかったのは彼女だったのかもしれない。
笑い方を覚えて、笑いたいときに笑えるようになったのは、彼女の方なのかもしれない。
そういえば、シャイナの笑顔しか覚えていない。怒った顔も、困った顔も、泣いた顔も見たことが無い……。
ふと、エノリアは右耳に触れた。そこにあった白い色の耳飾の感触はもうない。青と白の一対は、もうつけることはないだろう。
エノリアはラスメイのいる部屋の前で立ち止まる。軽く扉を叩いて、小さな返事を聞いてすぐに入った。
ラスメイだけだと思っていたが、そこにはランもミラールも居た。
「あれ、みんな揃って」
明るく言ったエノリアだったが、ランもミラールも浮かない顔をしているように見えた。その表情は微妙で、エノリアは自分の気のせいかと思ったのだが。
部屋の奥、ただ1人だけラスメイが椅子に腰掛けていて、右側の壁際、暖炉の側にミラール、左側の低い箪笥の側にランが立っていた。ラスメイは顔を上げて、エノリアに少しだけ微笑んだ。いや、微笑もうとして努力した。
「どうしたのよ」
「今日、出発する」
ランが完結にそう切り出した。エノリアは面食らったようにランを見て、ミラールに視線を移す。ミラールは反論の様子も見せない。3人で既に話はついているのだろう。
「ラスメイ、もう動けるの?」
肝心の王が目覚めていない。王女と王妃も。今は、フュンザス家の当主……つまり、アルディラの父が代わって執政を行っていた。この時期にラスメイがここから離れることができるとは思わなかったから、エノリアには意外だったのだ。
その質問に答えたのは、ラスメイではなくランだった。
「ラスメイはここに残る」
「……そうなの?」
それがラスメイにとっていいことなのか悪いことなのか、判断がつかなかったことと、その事実に対する驚きがエノリアの表情と声色を複雑にした。
「ラスメイを、置いていくって事? 1人で、この状況に」
言っているうちに、その言葉には刺が含まれて行った。なぜ腹がたってきたのか、エノリアにもよく分からない。ただ今の状況がラスメイにとって厳しいということを、心配していた矢先の話だったからかもしれない。
「それでいいの?」
質問の対象は不特定だった。ラスメイは珍しく黙ったままで、どちらかというと戸惑っているようだ。
「ラスメイはそれで……」
「俺が、そうしたほうがいいって言ったんだ」
左側から声がして、エノリアはそちらをきつい目で見た。
「この状況にラスメイを1人で?」
「これからの俺達の状況の方がもっと不確かだろ」
ランのわざと低くした声。ミラールが少し顔を上げて、ランを見つめ、再び視線を落とす。
「こちらのほうが、安全だ」
ランがラスメイのこと、何も考えてないわけでもなく、自分達のことを優先させたわけでもないことは分かった。
「じゃあ、私が一人で行くわ。ランとミラールはここに居て……」
「駄目だ」
ランは顔を上げてエノリアを見つめる。緑の瞳の真剣な光の前に、エノリアは条件反射のように口を閉じた。だが、気を取り直して息を吸う。
「確かめに行くだけよ。もう、危険じゃないわ! とりあえずは……」
「追っ手についてはそうだろう。だけど」
ランはそれ以上の言葉は言わなかった。言わなくてもエノリアにはわかると思ってのことだろう。事実、エノリアには言いたいことは痛いほど伝わっている。自分が短慮だと言うことも反省した。
「でも」
「勘違いしないで、エノリア。これは私の意志だ」
やっとラスメイの口から言葉が発せられた。今まで聞いたことのない、強くて大人びた口調だった。
「私がそう頼んだ。ランは同じようなことを考えていた。それだけだから」
「ラスメイは平気なの?」
その言葉に、ラスメイは大きく息を吐き出す。そうして、ようやく微笑んだ。
「私の旅は終わったんだ。……城が解放されて、ディスルーシがシャイマルークと連絡を取った」
ディスルーシ。アルディラの教育係で有るカイラのことだ。
紫色の瞳が曇った。
「……私はシャイマルークに戻らねば……ならないし」
「どうしたの?」
エノリアはラスメイの目の前まで歩み寄った。そして、椅子に座った彼女の前にしゃがみこむ。ラスメイはびくりと肩を震わせた。その瞬間、彼女の張り詰めたような空気も揺らいだ。
エノリアは手を上げて、彼女の膝に置かれていた小さな手に重ねた。そのときもラスメイは少し震えた。ラスメイは唇を噛み締め、一生懸命、瞳を見開いていた。震えないように、全身に力をこめて。
「どうしたの、ラスメイ?」
「……向こうで水鏡を受けた水魔術師《ルシタ》……、兄様じゃ、なかった……」
ぽたりとエノリアの手の甲に水滴が落ちた。
「ラスメイ!」
ラスメイは瞳を見開いたまま。そして、そこからはもう涙は零れていなかった。ただ、うわごとのように呟く。
「兄様、帰って、確かめないと……」
「じゃあ、私も帰るわ! シャイマルークに。みんなで、帰りましょう!」
「それだけは駄目だっ」
ラスメイが激しく首を振り、そして、首を項垂れた。
「……エノリアがすることは別にある」
「でも」
エノリアは助けを求めるようにランを見て、それからミラールを見た。だが二人は諦めたような顔をするだけだった。
「どうしてよっ」
エノリアは立ちあがり、二人を交互に睨みつける。
「どうしてよ!」
ランが眉間に皺を寄せ、棒読みの言葉を綴った。
「ラスメイの負担になる。ミラールは、問題ないが。俺とエノリアはな……王宮にも近寄れないし、1度近寄ったらお前、今度こそ外に出れないぞ」
「ラスメイのお兄さんがもしも……の場合は、ラスメイがキャニルスを継ぐんだ。キャニルスを継ぐって事は、王宮に登るってことだよ。そして、ラスメイはここで頭角を表した……。間違いなくキャニルス家の中で1番の力を持っていることを示したんだ。闇魔術師《ゼクタ》だと言っても、シャイマルーク王も無視できないよ」
冷静な言葉だった。冷静さは冷たさと一緒だとエノリアは思った。
「そんな冷たいこと!」
「俺は、ラスメイの負担になりたくない。そして、お前も守りたい」
「そんなこと……!」
「エノリア、ランとミラールを冷たいだなんて言わないでくれ」
困った顔をして、ラスメイはエノリアの肩にそっと手を置く。あの揺らぎは治まっていた。こんな短時間に冷静さを装えることを、エノリアは心配した。
この子には感情の揺らぎさえ許されないのだろうか? これから、そんな世界へ行くのだろうか?
「ランもミラールも一緒に戻るって言ってくれたんだ。それを断ったのは、私だ。私自身の都合で断ったんだ。ただ、それだけなんだ」
泣きそうなのに、もう、その感情が溢れそうなのに、それをこらえて、声色を抑えてそう話す。だけど、その声に含まれた小さな震えを、エノリアが気づかないはずがない。ランもミラールも聞き逃すはずがない。
「抑えないで、ラスメイ」
綺麗な曲線を描いた頬に手をやりながら、エノリアはそう語りかけた。
「もっと、泣いてもいいの。ううん、もっと泣き喚いてよ。寂しいって言ってよ!」
「寂しくなんかない」
「私は寂しいわ。ラスメイ」
口に出した瞬間、エノリアの目から涙が落ちた。
「貴方と離れるのも、貴方がそうやって1人で歩こうとする姿も、そうやって感情を押し殺す術を身につけてしまったことも」
「勝手だ、エノリア。私は……」
ラスメイの口が開いたまま止まった。エノリアはラスメイを見て、そして、その頭を自分の胸に引き寄せる。
ラスメイの鼻を甘い匂いがくすぐった。頬に当たるエノリアの胸。一定の間隔で刻まれる鼓動。柔かな腕の感触、そして暖かさ。
ラスメイの小さな手は、エノリアの背中に回される。おそるおそる、指をエノリアの背中に置く。
「大丈夫」
優しい声。ラスメイはそれが何に向けられたのか一瞬わからない。だけど、全てが許された。そういう気がした。
「……寂しい」
ぽつりとラスメイが呟いた。その言葉が、彼女の抑えていた感情を解き放った。声をあげてラスメイは泣いた。何故泣いているのか、一つ一つに意味があったけれど、それを吟味する必要はなかった。
ただ泣いた。それだけ。
そして、そのときにはもう気づいていた。これは別離の儀式なんだと……。エノリアと、ラン、ミラールとの。そして、今までの自分との。
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