いつもと変わらぬ日々といつもと変わらぬ夜のはずだった。が、何故かその日、ゼアルークは眠れずにいた。就寝の時間は自分でかたくなに決めていた。起床時間も同様に。その時間になれば規則正しい眠りが訪れるはずだった。
特に何をしたというわけでもない。日中の行動によって眠気の程度が変わることはあったが、その原因に思い当たるようなことはしていなかった。
ゼアルークは諦めて寝台から身を起こした。大きな窓を遮るカーテンの隙間から洩れいる月光を見つめ、大きく息をつく。
あのときもそうだったろうか。
青い瞳の少年が現れたときも、不思議と眠れぬ夜だった。
円卓の上に置かれたものの影を見つめる。大きな花が花瓶に生けられている影が見える。色は、真紅であることをゼアルークは覚えていた。
『ラスカフューネと言うのです、陛下』
彼女は自分の渡した花を見つめ、心なしか目元に笑みを浮かべてそう言った。感情を表すのが苦手な彼女だったが、あれは多分微笑んでいたのだと思う。
『陛下は花言葉に興味がおありですか?』
ないと即答する自分に、彼女は微笑んだまま頷いた。
『機会があればお聞きになってください。私の口から言うのはやめておきます』
まだ、誰にも聞いていない。今度会ったときに彼女に問うてみようと思う。誰も知らなかったという嘘を、彼女はどう捉えるのか?
それは興味深い。
ゼアルークは花の影を見つめていたが、その思い浮かべるような視線がふと現実に引き戻された。花の影の向こうにほのかな青い光。光が浮いている。
現実にありえないことだった。だが、彼はそれに一欠けらの恐怖心も覚えない。ただ、その不思議な現象に心惹かれた。
それはゆらりゆらりと動くと、ゼアルークの目の前まですぃっと寄ってくる。そして、再びゆらりゆらりと揺れると今度は扉の方へすぃっと動いた。
『ついてこい』という意志を感じて、ゼアルークは腰をあげた。近くにかけてあった外套を肩から羽織り、剣を手に取りかけて止めた。
城内だったからか、それほど強い警戒心はなかった。ここには守りがある。それにその光に敵意や殺気を感じなかった。
ゼアルークは扉を開けた。と、光はそのまま目の前をゆらゆらと揺れ廊下へ出て行く。ゼアルークはそれが「光」以外の何であるかを考えることをやめて、その後をつける。
足音は毛足の長い絨毯が吸い取った。光は城内でも、あまり足を向けることの無い方向へ進んでいく。絨毯はいつのまにか途切れ、足音が冷たく響いたが、誰も起きてこない……そのような場所へゼアルークを誘った。
この先は、と彼は不意に足を止めた。
(この先は、行ったことが無い)
信じられない思いで額を押えた。
この城の主でありながら、何故かこの先へは足を運ぶことは無かった。小さいころはどうだっただろうと思い起こす。
誰かに阻まれただろうか?
否、誰もこの先へ行くことを咎めたりはしなかった。自然、足を向けなかっただけだ。
そんな思いを抱えながら入ろうとすると、何かが歩みを止める。恐怖心とかではない。説明できないものがいる。入っては行けないと心に語りかけてくるものが。
光はゼアルークの身体をくるりと巡ると、誘うように廊下の先を示した。
青白い光はゼアルークの強張った意志を押した。ゼアルークはそのまま足を進めた。奇妙な不安が、剣を持ってこなかったことを後悔させている。
だが青い光は彼の目の前で、何かに覆われるようにして消えた。暗い闇からあらわれた手によって、その光は握りつぶされたのだ。ゼアルークは足を止め、鋭い警戒心を持ってその手の持ち主を闇に見定めようとする。
それは闇からするりと抜け、月光のもとに姿をあらわした。
半分閉じられた赤い瞳で、ゼアルークを見つめる。光を握りつぶした白い手を、ゼアルークの前でゆっくりと開いて見せた。
何も、ない。
「眠れないかい? ゼアルーク」
透き通り美しい響きの声は、静かだった。だが、彼のまとう空気は、完全にゼアルークを飲みこんでいた。答えないゼアルークに、彼は唇を少し歪める。
「ここから先は、私がレイルーク様より賜った場所。いかに現城主のゼアルーク様と言えども、お通しすることはかないませんよ」
いつもの口調より幾分丁重な響きは、かえって嫌味に聞こえる。だが、それへ返す皮肉さえゼアルークは忘れていた。
乳白色の髪は月光にさらされると美しく、青みのかかった銀色にさえ見える。
言葉の出ないゼアルークに、最高魔術師の称号を与えられた者は微笑んだ。
「不満そうだね」
「……この城の主は誰なのか、ときどきわからなくなる」
ようやく言葉を出したゼアルーク。とたん、はりつめた空気は嘘のように消えていた。セアラは少し首を傾げた。
「君だよ。今は」
「そう、『今は』。その言葉がずっと付いてくるのだろう」
ゼアルークは手持ち無沙汰になった腕を組んで、セアラを睨みつけた。
「私がこの先に入りたいと望んだら?」
「本気でそう思うのなら、私に止める術は無いね。君は、気づいてしまったのだから」
セアラはそう言い、ゼアルークの瞳を見つめた。その視線に力を感じて、ゼアルークは意識して頭を支えた。
「入りたいなら入るがいい。だけど、ゼアルーク。一つ、聞きたいことがある」
セアラはそう言って、息をゆっくりと吸った。自分自身の呼吸音がゼアルークの耳に響いている。それに気づくと、セアラの呼吸が聞こえないことが不思議だった。
「君は、愛しているか」
その問いにゼアルークは眉をひそめた。質問の中に対象がぬけている。何を愛していると聞くのか。
セアラの瞳を、ゼアルークは何故か悲しいと感じた。
愛しているのかと聞くセアラ。ゼアルークは初めて彼に同情に似た感情を覚えた。寂しい……底知れぬ時間……孤独。
「この世界を」
セアラはそう小さく呟いた。
「私は、イマルークの末裔だ」
ゼアルークはそう言った。
「勿論、愛している」
セアラはその答えを無言で受け取った。ただ、ゼアルークは瞬間的に感じた。あの答えでは駄目だったのかもしれない。
正解や誤答のある質問では無いはずだ。だけど、ゼアルークはそう思った。
「なら、近寄らない方がいい……」
セアラの言葉はそれで終わりのようだった。その場から離れることもなく、ただセアラは目を瞑った。
ゼアルークはその空気に有無を言わさぬ命があるのを知った。だから、その場から離れた。
その先にあるものに酷く心を揺らされていることもわかっていたが、今は駄目だと感じ取っていた。違う機会を待てば入れるかもしれない。そう思い、素直に彼に背中を向けたのだった。
そんなゼアルークの背中を見送って、セアラはたっぷりと時間が過ぎた頃に目を開ける。
かっと目を見開き、手を振り払った。青い光が飛び散って、セアラの目の前で弾けた。
「どういうつもりだ」
誰もいない空間。セアラの掠れた声が小さく落ちた。彼はもう1度手を振り払った。声や音が届かないように、風《ウィア》で障壁を生んだ。一見何も無い空間だが、そこには見えない風《ウィア》の壁があり、何も知らないものが触れるとナイフのように切り裂かれるだろう。
「どういうつもりだい。エルドラ」
青白い光は小さくゆれ、瞬間人の姿をあらわす。
落ちついた青色の瞳をした少年が、セアラの赤い瞳を目の前でまっすぐに受けとめていた。
「……渡ってからでは、遅い」
「だからなんだい?」
「今、殺さなくては」
「そんな権利がお前にあるのか」
セアラは赤い瞳を鋭く光らせ、エルドラににじりよった。
「選ばせることも出来ないのか? それを選ぶのは、お前じゃない。選ぶのは、彼らだ」
「……お前も、望んでいるのではないのか」
「私が望んでいるものを、お前が知り得るはずがない」
セアラはエルドラへ手を伸ばした。
彼の力を受けて、エルドラの姿が揺れる。エルドラは無表情のまま、セアラを見つめていた。何も浮ばない、何も感じていないような揺れの無い光。
「傍観者は傍観者らしくしていればいいのだ……。《カイネ》の血筋でも使って、お前はお前の最低限の役割を果たせばいい。
このような邪魔をするな。末裔には渡る。いつかは渡る。だが、それは今では無い」
「……お前が1番会いたいのだろう」
セアラの空気が一瞬にして怒気に包まれた。奇妙な音がして、近くに嵌められていた硝子に蜘蛛の巣のような細かなひびが入った。
「黙れ」
赤い瞳がいっそう赤く。「炎」と表現される赤さは、瞬時にして【血】の色に変わった。
「お前に何がわかる」
対する青い色の瞳は一層冷たく。吐くようなセアラの声を受けながら、一層冷たく冴える色となる。
「お前があの女を、愛さなければ……!!」
「セアラ」
青い瞳をふせて、エルドラはセアラの怒りから逃げた。
「お前がそれを言うのか……。愛さなければよかったと、焦がれなければよかったと……」
それでも……と、エルドラの姿は闇に解けこみながら、言葉だけが残っている。
愛さずにはいられなかった……。
訴えるように。そして、どこか許しを乞うようにセアラへ残された言葉。それをうけて、セアラの瞳の色はゆっくりと収まった。張り詰めた空気はまた闇に戻り、セアラはふらつく身体を壁にまかせた。
「……生きすぎた……」
後悔を吐く言葉。項垂れて、セアラは眉根を寄せる。
私こそが知るべきで無かった。人を愛するということ。
誰もが先に死んでいく。
それでも耐えられたのは、また次に人を愛せたから。
レーヤルークの残してくれたもの。何度も巡る娘達の存在。
愛しながら、生きながら、その暖かな思いが強ければ強いだけ、生きる事を蝕んで行く。
『私の憎む物を私の憎む者を私の憎むこの世界を……』
「無理です」
脳裏に浮ぶ血を吐くような声。何度も何度も何度も繰り返された声。頭を振って初めてセアラは否定の言葉を弱々しい響きに変えた。
『無に』
「どうしても、どうしても……それを望むのですか……。どうしても……!」
声が帰ってくるはずも無い。何度も繰り返してきた問い掛けだった。空に響いたのは自分の声だけ。それでもこの身に刻まれた呪いは、自分をその使命へ駆り立てる。
向かっていたはずだった。その為に、生まれてきた。
呪いを吐かれた血の中から、この両手で首を掴み、それに誓いをたてた。
それ以外の物を、手にしなければよかった……。血以外の暖かさを知らなければよかった。
セアラは重い足をひきずるようにして歩き、ゼアルークに許さなかった奥へ進んでいく。
床も壁も黒い大理石で創られた高い塔。天井は見上げた果てにあり、ただ何一つ無い広い空間がそこにあった。丸い部屋の真中の方まで足を運び、セアラは前方の床に視線を向ける。
目を伏せ、また開けたときには、彼の魔術によって灯された火が、周りを取り囲むようにして浮いていた。その光によって浮き彫りにされたのは床に刻まれている彫刻。
玉座のある部屋の天井に彫られた創造神《イマルーク》と同じ物だった。否、よく見ると少し違う。
閉じられた瞳の上、額の部分に嵌められているのは赤い石。創造神《イマルーク》の血と呼ばれる、王に受け継がれる石と同じ物。
セアラは長くそのレリーフを見つめていた。
この下に埋められている亡骸。かの人物を思い出す。
『俺の大事なもん、全部やる。お前に、1番欲しいもんやるから。だから、泣くな……』
セアラはその場に座りこむ。まだ幼かったころのように、自分の膝を抱える。こうやって目を瞑れば、声と一緒に大きな手を思い出す。
小さな頭を撫でてくれた、優しい掌。
その暖かさを思い出すように、じっとその場に座りこんでいた。
それでも、やらなくてはならない。
赤い瞳で浮んだ炎を見つめる。再びあげた目からは、先ほどまでの迷いは消えていた。
「強くなって……、帰っておいで」
ラン。
ミラール。
運命を選び取る意志と力を、私はここで待っている。
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