塔。
ユセ=ダルト=カイネ。
エノリアは二つの言葉を繋ぎ合わせて、急いでその塔へ向かっていた。白い石を積み上げて作られたその塔。窓がいくつかあるのだから、中には入れる構図になっているはずだ。円柱状になったその壁に左手をついて、エノリアは入り口を探した。
「エノリア」
「何」
入り口を探しながら、エノリアはその声にぶっきらぼうに答える。今、とても急いでいるのだ。
「エノリア」
「何よっ」
噛みつくように振りかえると、ごく間近にランの顔があった。困ったような顔。その至近距離に、エノリアは思わず目を丸くして、顔を赤くする。その反応を怪訝そうに見つめるラン。その口が『どうした?』と動きかけたのを遮るように、エノリアは怒鳴った。
「何そんなに近づいてるのよっ」
「だったら、離せって」
ランが困った顔のまま、視線を落とす。エノリアはその視線の先を見て、気づいた。手をつないだまま……。ぱっと離して、エノリアは誤魔化すように笑う。
ランは大きく息をついて、塔を見上げた。
「ここに来た理由ぐらい教えてくれないか?」
「うん、まぁ……その……」
扉はすぐに見つかった。黒く塗られた扉は塔に似合わない新しさだった。塔が作られたと同時につけられた扉であれば、その扉はところどころ朽ちていて当然だと想像していた。もちろんエノリアにはこの建物がどれぐらい古いものか正確にはわからないのだが、大変古いものだということだけは素人目にも明かだった。
扉は新しい。取っ手に手をかけてみた。だが、動かない。
「ユセ、さん?」
呼んでみる。そして、扉を叩く。
「いないの?」
この城に彼が入れたとして無事だと言う保証はない。常識で考えるとそうなのだが、彼には不可思議な力があるようだった。そのせいか、彼女には彼がこの中にいるという確信があった。
「ユセ、さん!」
すっと扉に影が落ちる。ランだった。エノリアに理由を聞くのを諦めてその扉の取っ手に手をかけ、エノリアを見る。
「開ければいいのか?」
「でも、開かない……」
エノリアの目の前で、扉は一欠けらの抵抗も見せずに開いた。驚くエノリアに、ランは疑うような目つきだ。
「確認不足じゃねぇの?」
「開かなかったわよ! 確かに」
「まぁいいか。入るんだろ」
さすがにこの正体不明な塔に、エノリアを先に入らせるようなことをランはしなかった。辺りに十分意識を払いながら、ランはその塔へ足を踏み入れる。
入った瞬間、湿ったような匂いが鼻をついた。だがそれはほんの一瞬だった。ランが顔をしかめると、エノリアが彼の背中から中を覗きこむ。
「ユセ、さん?」
塔は薄暗かった。外から見ると上のほうに窓がある。だから、中は何層にかなっているだろうと思っていた。しかし、実際、塔の中は屋根まで筒抜けになっていた。つまりは、円柱の中をくりぬき、その上にとがった屋根が載せられているような格好になっていたのだ。
窓からさしこむわずかな光だけが、この不可思議な塔の中に光をもたらしている。
白い石の壁で囲まれたその空間は、直径は大人の足で20歩ぐらい。入り口の対角線上の壁に、白い外套を被った人影が見えた。薄暗く、白い石の壁に同化していて見にくかったのだ。
「ユセさん?」
「エノリア? それに、ラン……ですね」
初対面に名前を知られていて、呼び捨てにされるのはあまり気分のよいものでないはずだった。だが、ランはその呼び方を受け入れていた。嫌、むしろ心地よい。ザクーの一言によって乱された心が、ゆっくりと収まっていく。
ユセはこちらへゆっくりと壁に沿うようにして近寄って来た。扉は音を立てて閉まった。一瞬そちらに気をとられながらも、ランはその人物の動きを見つめていた。
何故、ユセはまっすぐにこちらへやってこないのかと考えて、ランは気づいた。塔の真中、日のわずかにあたる場所に、花の群生があることに。
赤い小さな花だ。
何故か、目が吸い寄せられた。見たことの無い花だからだろうか? だが、何か訴えかけられているような気分にもなる。そう思うとますます目が吸い寄せられて行く。
「ラン?」
心地のよい声で呼ばれ、ぽんっと肩を叩かれて、ランは我に帰った。穏やかな金茶の瞳が近くまで来ていた。ランは跋が悪そうに、少し唸った。
「ぅ、えっと……」
「始めまして、私はユセ=ダルト=カイネ。君も一緒に来てくれるとは」
「いけませんでしたか?」
エノリアがランの隣で不安そうに言うと、ユセはふっと微笑み、首を振った。
「いいえ。むしろ……。
さぁ、ラン。貴方の名前を私にくれますか?」
ランは目で問いかけた。知っているくせにと言いかけて、エノリアに肘でつつかれて強要される。そこに何か強い意志を感じて、ランは呟いた。
「……ラン=ロック=アリイマ」
「ありがとう。不思議な名前ですね。かの大魔術師の名を継いでるのですか」
柔かなユセの笑顔。彼の言葉にランは少し反応したが、聞き流した。エノリアが、ユセの言葉に少し首を傾げた。
「大魔術師の名を継ぐって、ロックのことですか? ……そう言えば、ミラールはまた違う名前だよね」
「……ミラールは名前を親から貰ってたからな」
ランはそれだけ言って、自分の事には触れなかった。
「フォルタニーは継げないから、アリイマ?」
ランはその言葉には少し頷くだけだった。言葉にはせずに、エノリアのほうに顔を向けることさえしなかった。ただ、目の前の男を探るように見ている。
ユセはそんなランの視線の意味を感じていたのだろう。微笑を絶やさずに言葉を続けた。
「私の名前に聞き覚えは?」
「あるな」
ランは腕を組みながら答えた。セアラから渡された本の作者だ。面白いよと言って渡された本。そこにかかれていた内容を思い出して、ランは頷いた。
「カイネの意味をご存知ですか?」
「……さぁ」
「【扉】です」
そう言ってユセはエノリアに目を向ける。
「カイネ家も長く長く続いてきた家です。その血に記憶を託し、いつか【扉】を開けるように。
いつか来るその時に、この記憶を言葉にし、伝えることができるように」
ユセの微笑みに影が落ちたように見えた。ランとエノリアはユセに聞きたいことがたくさんあった。だが、彼の空気はそれを許さない。柔らかく質問を拒んでいた。
「ここは、【無音の塔】。ここなら、彼に聞かれることは無いですから」
「彼?」
ランの問いに、ユセはかすかに頷いた。
「……私の一族は言葉を響きにすることができなかった。彼にカイネの持っていた風《ウィア》を奪われたからです。その代わり、その血に記憶を封印し、何代も何代も伝えてきたのです。その言葉を響きにする重さに耐えられる肉体と血を持つ者が現れるのをずっと待っていたのです。
そして、私はその血の重なりにより、言葉をつむぐことが出来る存在となったのです。いえ、もしかしたら、この時代だからこそ、私のようなものが生まれたのかもしれませんね」
エノリアもランも相槌を打つ事も出来ずに、彼の言葉を聞いていた。
「カイネは、響きを操ることはできます。しかし、不用意な一言は特別な響きとなって、彼に渡るでしょう」
「彼とは?」
ランの質問に、彼は首を振る事で拒んだ。
「……名の響きこそ、本人に伝わりやすいものですよ。たとえ【無音の塔】としても。……ここは、彼が生まれた場所でもありますから」
ユセは穏やかな微笑を湛えたまま、塔の中心に自生している赤い花に目をやった。
その視線を追って、エノリアはその場の流れに合わすかのように問いかける。
「あの花はなんですか? 珍しい花ですね」
「カタデイナーゼです。ご存知でしょう?」
エノリアは花を見ながら、目を細めた。
「……【1輪の悲哀】」
「御伽噺をご存知ですか?」
エノリアが頷く。ランはその言葉になんの反応も示さなかった。ただ、ユセの言うことを一言ももらさぬように聞いているようだった。
「ナーゼリアがキールリアを殺した後、自分も命を絶ちました。それがここです」
「ナーゼリアの血を被った黄色い花は赤くなったって聞いたわ」
小さな赤い花が風も無いのにゆれたように見えた。
と、エノリアの額を何かが貫くような感触がした。視界が揺れ、景色が周る。
『キールリア、貴方に与えられ……』
『私には与えられなかった』
『私は望む』
ただ、一言欲しかった。
『あの人が私だけを見つめることを。そのために』
違うと言ってくれれば。
『あの人の愛する物をあの人の愛する者をあの人の愛するこの世界を』(私の憎む物を私の憎む者を私の憎むこの世界を……)
望んだものは、たった一つだけだったのに。
「エノリア?」
がくりと膝が折れて力が抜けた。腕を支えてくれているランも驚いたようにこちらをみていたが、エノリア自身が1番驚いていた。ふわふわとした感触は消えていた。
音は戻り、回る視界は元に戻っていた。
「大丈夫」
ランの手を借りて、自分の力で立つ。ユセが静かにこちらを見ていて、エノリアが落ちついたのを見るとふと呟いた。
「何か、聞こえましたか」
「……ええ」
エノリアはそう答えたが、いざ何が聞こえたのかを口にしようとするとわからなくなる。
「あれ」
「捉えにくいものです。だがここには、彼女の血と一緒にその記憶が残っています。強い強い思念と共に」
「本当にあった話なの?」
ユセはエノリアを見つめ、瞼の動きで肯定をする。流れるような仕草。
「昔に存在した双子のお姫様……。その名前に光《リア》を持った、二人の娘。その連想の先に誰を思い浮かべます?」
「双子の……お姫様……もしかして」
「あんたの本を読んだよ」
黙っていたランが言葉を挟む。ユセは微かに頭を下げた。心の篭らない社交辞令の礼だったが、その場では自然な態度に見えた。
「二つあったもの。それは創造神《イマルーク》の大地の娘《アラル》への口付で生まれた二人の少女。太陽の娘《リスタル》と月の娘《イアル》」
ランの緑色の瞳が陰る。エノリアはユセを見つめた。
「……どちらかがどちらかを殺したということ?」
「本当にあった話なのです。エノリア」
信じられないといったエノリアへ、ユセは誠実さをこめて言葉を紡ぐ。
「私たち一族は、『知っている』のです。そういうことを。そして、ここで死んだのはナーゼリア……月の娘《イアル》です」
「月の娘《イアル》が太陽の娘《リスタル》を殺し、ここで命を絶ったと?」
「最終的には」
ユセは赤い花の群生のもとに膝を折る。
「それから」
先を促すことのできないエノリアにかわって、ランがユセへ声をかける。
エノリアは固唾を飲んでユセの言葉の続きを待った。ユセは赤い花を撫ぜるとゆっくりと立ちあがる。光を背後に受けながら、こちらを見つめる長身の彼の影を見つめながら、エノリアは一歩下がっていた。無意識に自分を支える手を求めてしまう。
ランの腕を引き寄せて抱きしめた。そうしないと震えが止まらない。
自分を殺す太陽の娘《リスタル》という意味。それを今得る事ができるのだろうか。それは、自分にとって悪いものではないはずだった。だけど怖かった。
ランの腕が自分を支えるように抱きしめてくれている。その暖かさだけが、現実に繋ぎとめてくれた。
ユセもこの塔の光も、あの花の赤さも、目をつぶってしまえば消えてしまいそうだ。存在感は儚いくせに、強烈にエノリアの心を揺さぶる。
「貴方は言ったわ。私を殺しても太陽は二つだと。どういうことなの?」
「そのままです。たとえ、貴方を殺しても、また新たな太陽の娘《リスタル》が生まれます。ここから先、永遠に太陽は二つ。
解き放たれてしまったのです。もう一つの光《リア》が」
「もう一つの光《リア》……」
確認するような呟きに、ユセは首を傾げた。
「これまではずっと、彼の中に封印されてきてました。そうやって、この世界は均衡を保ってきた。しかし、彼はそれをやめてしまった……。彼の目的の為に。
2重になった光《リア》は、闇《ゼク》を強めるのです。
そもそも、光《リア》と闇《ゼク》は他の属性とは違う次元の物。お互いが均衡をとってこそ、安定をもたらす脆い存在ですから」
「安定を失うってのは、えっと、魔物が現れたことよね」
エノリアの声はいつもよりも少し高かった。ランにはそれがエノリアが不安と戦っている証拠に思えて仕方が無い。
「そうですね。それも一つです。だが、魔物は今までだって存在したのです」
ランとエノリアの視線がユセに向けられた。ランはふとある言葉を思いついて、口を開いた。
「セイが、場だと言ってたな。条件を満たす場所がどうとかこうとか。あれは、条件を満たすところだったら、今までも魔物が現れてたってことか」
「そうです。民の目には触れられず、消されてきた魔物が居ます」
「民の目に触れないところ」
エノリアがその言葉を呟き、顔を上げた。エノリアの金色の瞳を受け、ユセは金茶の瞳に影を落とす。
「そう、シャイマルーク城へ。光《リア》の持ち主を集めた壁の中。時々、魔物が現れました。そして、誰にも知られずに殺されてきた。大きな力によって」
「セアラ?」
「……そうですね。そうです。彼に」
3人の間は沈黙で満たされた。語られたことを、エノリアもランも自分の中で懸命に消化しようとしていた。
「どうして、太陽が二つなの?」
エノリアの呟きが、沈黙を破る。
「神話を読んだ事あるけど、イマルークが創った太陽の娘《リスタル》は1人のはずよ」
ユセはただ静けさを持って、こう言った。
「語られぬ真実もあります」
「二つ創ったの? 創造神《イマルーク》が? どうして?」
「太陽を彼が失ったからです……」
その言葉に反応するように、赤い花が揺れた。ユセはそちらを見つめ、目を細める。
「キールリアをってこと? ねぇ、でも、光《リア》はまた巡ってくるじゃないの? 太陽の娘《リスタル》は死んでも、新しく生まれ……」
エノリアは口をつぐんだ。彼女の言葉を遮ったのは、ユセの瞳に浮かんだ言い様の無い光だ。
最初はエノリアへの哀れみのように見えた。けど、それだけではなかった。悲しみだろうか? 誰への悲しみなのだろう?
ユセは息をつくと、二人に視線を向けた。
「ここでは語れません。これ以上は、実際に見ていただいたほうがよろしいでしょう。
チュノーラのターラという山に」
エノリアの肩が少し震えた。ランはそれに気づく。先ほどまでの恐怖からくる震えではなかった。どうしたと聞こうとしたが、ユセの言葉は続いていた。
「失われた神殿が……。そこに語れない記憶が残っています」
「失われた神殿」
ランがエノリアの変わりに反復する。
「創造神《イマルーク》に弟神が存在したことを、貴方もご存知でしょう?」
ランは頷いた。
「その名前が失われていることを不思議に思いませんでしたか?」
「そうだな……そう、言われると」
「創造神《イマルーク》の望んだ理想郷を崩した神……、調和神・エルドラの奉られていた神殿です」
神の名の響きを塔はゆっくりと消して行く。
その間、赤い花は小さく揺れていた。その囁く声はエノリアに、もう聞こえはしなかったけど。
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