服についた埃を二、三度払いつつエノリアは俯いたままでいた。隣でランが1度だけ服を払い、それから自分を見ていることには気づいていた。だから、なんとなく頭を上げることができない。
「あれ、魔物だったか?」
「えっ」
ランの問いかけは、顔を上げるいいきっかけになった。そのときはもう、ランの伺うような目は露台に向けられていた。エノリアは重要なことを思い出して、ランの注意を引く。
「シャイナが居たわ」
「会った?」
エノリアは頷いた。
「城にいる人たちはみんな、時間が止まったように動かないの。闇《ゼク》の魔術だと思うわ。深く眠ってるとか言ってた……。えっと……」
どう説明をしたらいいのか一瞬迷った。と、ランがエノリアの手首を掴む。
「ひとまずここを離れよう。さっきのでどうにかなったとは思えないからな。それに……」
と、ランは露台を見上げ、すぐさまにエノリアを庇うようにして立つ。エノリアはランの視線の先を探り、息を呑んだ。
露台の手摺に足を組んで座り、こちらを見下ろすのは、さっき炎に包まれたはずのザクーだった。服のあちこちは焼け焦げていたが、彼自身は傷ついたようには見えない。ランが唇を結んで、意識をザクーへ鋭く向けた。
ランが彼を見て一言も発さずに、ただ緊張感と警戒心だけが高まって行くのをエノリアはひしひしと感じる。そんなランの様子をにこやかに見つめているザクーの態度は異質だ。その上、彼は微笑んでみせた。
「やぁ、ラン」
まるで旧知の友人に対する挨拶だ。ランはその言葉に剣を向けることで答えた。ザクーは肩をすくめる。
「思ったより、似てないな。私たちは」
「何を、企んでいる」
「穏やかじゃないね。
それは何を聞きたい言葉だ? 私がお前に似ている理由か? それともここにいる理由か? ここで、何をしているかか」
「全部だよ」
「贅沢な奴だな」
露台の手摺に座りこんで、組んだ足を解きながらザクーは笑みを納めた。
「エノリア、何を見たか教えたのかい?」
視線はそのままで、ランの意識はエノリアへ向けられた。エノリアは躊躇した。その言葉を音にするのはとても不吉なことのように思われたから。だから、小さな声でランにだけ届くように呟く。
「……彼はシャイナの願いで生まれたのよ」
「月の娘《イアル》の? 彼女は俺の事を知ってたのか?」
ランがそう言うのを、エノリアは複雑な気分で聞いていた。ランは気付いているのだろうか? シャイナの願いから生まれた彼が、自分と同じ容姿をしていることの意味を。
カタデイキールがナーミを生み出したのは、カタデイキールがナミのことを強く思っていたから。ライラはリュスの願った子供の姿だった。
好きだとか、愛しているだとか、望んだものだとかそういう人物の姿なのだ。強く強く願った結果なのだ。
「知っていたよ。だから、私はこの姿で生まれたのだから」
「月の娘《イアル》を攫った魔物か」
「少し誤解されているようだが、まぁ、そういうことだ」
「彼女を返してもらおうか」
ランの言葉に、ザクーは丸く目を見開いた。
「狙い通り、そうなってるんだ」
「狙い通り?」
「いや、こっちのこと。……返さないよ、彼女は」
「返せ」
「本人が帰りたくないって言ってるんだ。
私はシャイナの望みから生まれた。つまりはシャイナの願いをかなえるためにここにいる。……そんなこととっくに知っているだろう」
そう言ってから、ザクーは後ろを振り返った。小さく手招きをして、その露台に現れたのは、シャイナだった。エノリアと彼女を守るようにして立っているランを見つめ、目を見開いた。
エノリアは見た。ランを見とめた瞬間、シャイナのまとう穏やかな空気がまったく異質なものになっていく様を。そして、ふと返された視線にエノリアの知らない彼女の感情が表れていることを。
「どうして、エノリアだけ」
ぽつりと呟いた言葉は、まっすぐにエノリアに届いた。そう呟いてとまってしまったシャイナの肩を、ザクーが隣から優しく抱く。
「どうする」
シャイナはエノリアを見下ろしたまま、口を両手で覆った。
「ザクー……私……」
「知ってるよ。君が欲しいのは、私ではない」
ザクーの黒い瞳はランを捉える。ランはそこにまた激しい憎悪を見た。ランはその殺気を受け止め、息を吸った。
「ラン」
「エノリア。王宮の奴が来てる……おそらくお前を殺そうとしてる奴だ」
「レスタ?」
「知ってるなら早い。そいつに見つけられないように」
ランの言葉は衝撃と共に一瞬途切れた。ザクーが飛び降りて、ランの懐へ向かってきた。空から取り出した剣を向けられ、ランはそれを押し返した。一歩後ろに下がった背中が、エノリアにぶつかる。
次が来る。それに集中しながら、ランは声をあげた。
「逃げろ!」
「エノリア!」
ランの言葉に従うように踵を返したエノリアに叩きつけるような声。それは、ランとそっくりだったが含まれた響きで違いを判断できる。
「忘れるな。私は君も欲しいんだ」
エノリアは一瞬振り返った。
「エノリア!」
ランの言葉が背中を押す。だが、エノリアはその場にとどまった。
「駄目」
目の前を遮るように居るのは、狼に似た黒い獣。ただエノリアの動きを止めるだけにあらわれ、彼女に向かい威嚇の唸り声を上げる。
剣さえあればとエノリアは思った。
一匹ぐらいなら抜ける事ができる。
「好機なんだ。逃がすと思うか?」
ザクーは楽しそうにそう言うと、ランと剣をあわせた。
「力を見せろ」
「何」
「力だ。わかっているだろう?」
鋭い金属の音が響き、ランはザクーを押した。ザクーはその力に任せるようにし、後ろへ飛びのく。闘争心で彩られた鋭い緑色の瞳を見つめ、ザクーは首を傾げた。
「お前の、中の、声」
ランは目を細めた。答える変わりに、踏み出す。呼吸も悟らせず、ランはザクーを間合いに収めるように飛びこみ、剣を振り上げた。間一髪で避けるザクーの頬へ縦に朱線が入る。ザクーはそのまま斜め前へ。ランの横腹に剣の柄を叩きつける、が、ランはそれを絶妙な間合いで避けた。剣と剣が火花を散らし、二人は再び間合いを取って対峙する。
「私にはわかる。私はお前の複製品だから。だけど、お前も同じようなもの」
ザクーは瞳を細めた。笑ったのか、哀れんだのか。ただ、ランの頭に血が昇った。ザクーが、自分の額を指し示した。
「コレを、どうした?」
不安と少しの恐怖を湛えたエノリアの視線の先で、ランは目を吊り上げてザクーへ向かっていった。その荒削りな動きを見極めるのは、ザクーには造作もないこと。
「私はあそこに居たのだよ。とぎれとぎれの意識の中、普通の者なら知り得ないことを見つめてきた。
ラン、殺されるべきお前が、何故生きている?」
彼の剣を受けとめて、かつ、ザクーは開いた左手に力を込めていた。薄気味悪い重力を持つ丸い珠が出現した掌を、ランの無防備な腹へ当てる。
ランの瞳からは、何かが失われていた。エノリアは足を思わず踏み出す。
(ラン)
あの光がない。思い出したのは、あのときのランだ。カタデイキールの小屋で、闇《ゼク》に捕らわれて眠っていたときのラン……。
「ラン!!」
エノリアの叫び声が、ランの目に光を取り戻させる。ザクーがにやりと笑った。
「さすが太陽の娘《リスタル》」
ランが力を込めて拮抗した剣の力を崩す。同時に身体をひねる。ザクーが力を放つ。ぎりぎりでその力はランのわき腹を掠り、そのまま城の一角へぶつかった。耳を塞がんばかりの破壊音と、えぐられた壁の1部が地面に落ちる音。
「面白くない話だ」
「だろうね……。お前は逃げたいんだから?」
ザクーは軽い口調でそう言った。そうして、頭に手をやると髪を撫でつける。
「1度に全部は無理か……。シャイナ」
ザクーは上を見上げる。祈るようにして戦いを見守っていた彼女が視線を下ろした。
「ひとまず、この城だけでいいか?」
「……ザクー」
「最後の娘も」
ザクーがふと後ろをみやると、そこに一匹の人型に近い魔物が降り立った。身体中を黒い毛で覆われ、手と足の長い魔物はその手に小さな少女を掲げている。
「手に入った」
「アルディラっ!」
ランが声を上げる。ザクーは満足そうにその声を受け止めた。
「混乱が人の心に闇を落とす。闇を強める光はここにある。そうして、人は望む……イマルークの再臨を。その思いは、力になる」
「無理よっ! そんな馬鹿げた御伽噺のような事が起こるものですかっ!」
「起こる」
ザクーは唇に微笑を浮かべた。確信に近いその言葉はランとエノリアへ向けられていた。エノリアはシャイナを見上げる。
「シャイナ! まだ間に合うわ! 帰ろう!」
シャイナは不思議そうにエノリアを見つめる。
「何も……変わらないわ」
静かな声だった。そう言いながらシャイナは首を振る。
「泣いている人が居ると知りながら、私はあの場所で笑うなんてことできないわ……。そんなの無理だもの」
シャイナは耳に手をやった。交換した耳飾がそこでゆれている。
「それにエノリア……私とあの場所へ帰れる? そんなこと、出来る?」
シャイナは耳飾をそっとはずす。
「私も知ってしまったの。あの壁の外を。だから、無理」
「だからって……こんなこと。魔物のせいで沢山の人が傷ついているのよ?」
シャイナは眉を寄せた。痛みをこらえるように胸を押える。
「城から帰らない人を待って、哀しむ人も不安がる人もいる。シャイナがやってることは、そういうことを増やしてるだけだよ」
「それでも。それでも……その後に永遠の幸せが来るなら」
「馬鹿なこと言わないでっ!」
エノリアの横を風が走った。それと同時だった。
(何?)
風はエノリアの行方を遮っていた魔物を切り裂き、途中で分かれた風がアルディラを掲げていた魔物を切り裂いた。紫色の血を顔に受けながら、アルディラの身体は地面に転がり落ちる。
その後、小さな影がアルディラへ駆けよる。ラスメイだ。アルディラを守るように抱き起こして、泣きそうな顔で覗きこんだ。だがその目は堅く閉じられたまま。
「アルディラ!」
ラスメイが声をあげた。ザクーがそれに意識を取られた瞬間を、ランは見逃さない。切り込んだ。
それを視界の端でとらえながらも、エノリアはシャイナの動きを見つめていた。ザクーがランの攻撃を先ほどの動きが嘘のような不器用さで受ける。彼の意識はシャイナに向かっていた。手を伸ばす。ランがザクーの異変に気づいて、手を止めた。右腕を切断しそうな勢いだった剣は、大きな切り傷を作っただけで済んだ。ザクーが手を伸ばし、跳躍する。シャイナが後ろを振りかえりながら、露台に飛び乗ったザクーに引き寄せられた。
シャイナの身を包んだ純白の服。そこに小さな赤い染み。それがゆっくりと広がって行く。
何が起こったのか。
シャイナは力が抜けたようにザクーの腕の中におさまり、ザクーの鋭い視線が向けられた先を確認して、ようやく理解が追いついた。
その先には紺色の冷たい瞳があった。獲物を捕らえ損ねた彼は、それでもシャイナの脇腹を剣で切り裂いていたのだ。
「レスタっ!」
無慈悲に彼は剣を向けなおす。
シャイナは自分を傷つけた相手を認めた。
「殺すの……? セイ……。貴方が」
セイは無言だった。その目に浮んでいるのは、1度で果たせなかったことへの後悔だけだ。
「そうね……。そう、だから、エノリアは、外を……望むのね」
蒼白なシャイナを抱きしめて、ザクーはセイをただ睨みつけていた。
「ザクー! シャイナをっ!」
エノリアは伸びかけた髪を無造作に切り落とす。やったことはないが、出来るはずだ。光魔術師《リスタ》がいないなら、自分がやるしかなかった。
ザクーは一瞬躊躇ったが、そのままふわりと地面に降りてくる。追うように飛び降りるセイを待ちうけたのは、ランだった。
「月の娘《イアル》も殺すのか」
怒りに任せたランの剣を受けることはたやすい。受けながらセイは冷静に答える。
「次が生まれるだけだ」
「それが、ゼアルークの意志かっ」
「ゼアルーク様だ」
「構うかっ!!」
金属音は熱く、そして冷たい。その音を背後に聞きながら、エノリアはシャイナの傷口を押さえて、自分の髪を上に乗せた。シャイナの小さく繰り返される呼吸と、広がる赤。祈るように自分の手に額を当てる。
「《リスタ・エノリア=ルド=ギルニア・ディス》」
そう言った瞬間に身体を何かが通りぬけて行く感触がした。魔術の発動は初めてである。エノリアは頭を貫く眩暈に、その場に倒れそうになった。必死にその意識を踏みとどまって、手に向かって呟いた。
「《ソラ》」
ぐぉんっと頭の中で低音が響いた。急速に力が抜けて行く。これが……とランが倒れかけたときの事を思い出す。
エノリアはギリギリのところで、手を放した。耳元で繰り返される呼吸の音が自分のものだと気づいたとき、シャイナの手がぴくりと動いた。
「シャイナ」
薄目を開けた彼女が呟いた言葉。ほとんど聞き取れなかった。だけど、エノリアの腕に鳥肌が立つ。
もう1度問いなおそうとしたとき、ザクーが彼女を抱き上げた。
「ザクー!」
「シャイナは渡さない。まだ足りない……」
そう呟いて掻き消えた後には、この城を覆っていた緊迫感が消えていた。ラスメイがアルディラを抱きかかえたまま言う。
「結界が……」
そして、ラスメイは呻き声を一つ上げて、その場にうずくまった。耐えるような表情に、エノリアが腕を伸ばしたとき、それを拒絶するように彼女は首を振った。
アルディラを抱えながら、ラスメイは何かに耐えるように目を瞑った。
大丈夫。
声にならない声に、エノリアは不安を重ねながらも彼女を見守るしかなかった。
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