ザクーとシャイナについて入った部屋は、エノリアが最初に目を覚ましたシャイナの部屋であった。大きな窓は開け放たれ、そこから入ってくる風によって柔かなカーテンはゆっくりとゆれている。エノリアの今の心情とは正反対の穏やかさがそこにはあった。エノリアがそれに惹かれるように窓に寄って行く。窓の外に露台があることにようやく気づいた。白い細かな模様の描かれた手摺の向こうは、緑鮮やかな庭園が広がっていた。その庭園は参方を建物に囲まれる中庭のようなものだ。見下ろすと下には小さな花が咲いている。
夢のような。そう、こんな現状でなければ素敵な庭だと感嘆もできる。美しい庭を見下ろせるこの部屋。シャイナの誕生を心待ちにしていた王と女王の気持ちがここには込められている。
生まれた子が月の娘《イアル》と知ったとき、本当はどう思ったのだろうか?
生まれた子を心から喜んで手放せる親が、本当にいるのだろうか?
愛しているわ。
何度も繰り返された言葉を思い出して、エノリアは自分の肩を抱いた。風とともに耳に響く言葉。
愛しているの。愛しているから……。
あなたを失いたくないから……。
『ここは暗いよ』
失いたくないから。
『お母さん!!』
「エノリア」
記憶の中の自分の声と重なったシャイナの声にエノリアは弾かれるように振り返った。
「危ないわ。こちらに」
シャイナの言葉に逆らう気はなかった。心配そうな銀色の瞳を見つめ、諦めたようにそらす。
あのころのようには、見つめられない。
無言で言われるままに部屋の真中へ足を向け、途中で立ち止まる。彼女の言うままに目の前の長椅子に腰を下ろすことだけは出来なかった。
シャイナは少し戸惑ったようにエノリアを見て、ザクーを見る。ザクーは首を振り、シャイナだけでもそこに座るように示した。エノリアの顔色をうかがいながらも、シャイナはそこへ座る。
「エノリア……」
「私には今のシャイナがしようとしていることがわからない……」
シャイナが膝の上で組みあわせた白い指を見つめながら、エノリアは囁くように言った。
「この城にいる人たちが、みんなあんなことになってしまっているのも、安全だといわれる町に魔物が現れるのも、シャイナとは無関係だとは思えないのよ」
「生きてるよ」
ザクーは座っているシャイナの後ろへ周り、その細い肩に手を置いた。
「眠っているのさ。深く深く……心臓を止めて」
その言葉は、エノリアの問い掛けに肯定の意味を添えるもの。
「何の為に!」
顔をキッと上げて睨みつけたその先には、黒い瞳が穏やかな光を湛えていた。エノリアの激情など、あっさりと流してしまえる。
「招きたいのは混乱と恐怖だけ」
ふと細められた瞳。楽しそうに笑みを浮かべる唇。深まる闇《ゼク》の深さを顔に浮かべて、彼はふっと息を吐き出すように笑った。
「呼び水のようなものだ」
エノリアはあまりにも不可解な言葉に眉を寄せた。ザクーは彼女の反応にも構わず言葉を続ける。
「フュンランから広げるのは、ここがシャイナの望んだ土地だからだ」
「何を始めようと?」
エノリアの単刀直入な問いに、ザクーは笑った。シャイナは答えず、しばらくの時間を置いて彼が低く囁く。
「……この世界が永く失ってきた人を、呼びたい」
「……何?」
エノリアはその笑みに含まれた凄惨なものを探りながらも、その答えを見出せないでいた。
永く、失ってきた人。
「ここは……」
今度はシャイナが呟いた。目を細めて、穏やかな表情で。
「悲しい事ばかりね。この世界は、生きて、穏やかな死を迎えるためには、悲し過ぎるわ」
小さな声だった。だけど、遠くまで届きそうなはっきりした声。エノリアはシャイナの顔に目がすいよせられるのを感じた。
「幸せになるの。この世界を作りなおして、みんな幸福な世界に」
「作りなおすって」
自分の言葉は、ほとんど空気で占められていた。
そんなことが出来るのか。否、出来るかどうかの問題じゃない。
そのためにこんなことをやっているというのか。
人を城へ閉じ込め、城下の人たちを不安にし、ときにあらわれる魔物に命を奪われて。
それを恐怖と混乱を招くための呼び水だと言う。
エノリアは背筋に悪寒を感じた。そして、シャイナはそれを穏やかな顔で肯定する。
エノリアの視線の先で、シャイナは首を傾げた。細く柔かな銀色の髪がするりと揺れて、光を生む。美しく。
「私、知らなかったの。私の前ではみな笑顔で……世界はそういうもので溢れているのだと思っていたの。
だけど、泣いている人を、苦しむ人を、私は見たの。
殺される人を、殺す人を……。醜い人たち……」
シャイナは自分の肩に置かれたザクーの手に自分の手を重ねる。
「幸せは確かにあるわ。だけど、それを曇らせるものがたくさんありすぎるの。
どうして?」
シャイナはザクーから手をはなし、自分の胸の前で何かを受けとめるようなしぐさをする。
「どうして? 他人の不幸の裏で、幸せになる人がいる。 泣く人の前で微笑む人がいる。
違うの。常に、皆が、そうでなくては……駄目」
シャイナは悲しそうにエノリアを見つめる。
「どうして、人々に笑顔だけ与えてくださらなかったの? 明るく優しい物だけ創ってくださればよかったのに。
そうすれば、みんなみんな同じ。同じだけ、幸せ……」
「呼ぶって、まさか……」
創ってくださる。その先にいる、永く失われてきた人とは。
エノリアは自分の出した答えを何度も打ち消した。
「見たでしょう? エノリア。
あなたは会ってきたでしょう? 悲しい人たちに。
あなたは、泣いたでしょう? かわいそうだと泣いたでしょう?
嫌だと泣いたでしょう?」
シャイナの瞳から光るものが零れ落ちた。柔かな曲線を伝って、落ちる。
「だから」
すぅっと立ちあがるシャイナの細い腕が差し伸べられる。
「創造神《イマルーク》を呼ぶの」
「そんなことを本気で!」
エノリアはシャイナの指先を掠めるようにして叩き払った。悲しそうなシャイナの瞳も、エノリアには恐ろしいものにしか見えない。
平然と。
そのために、人々を不安にさせるようなことを。
突然あらわれて町を襲う魔物も……もしかしたら!
エノリアはザクーへ鋭い視線をぶつけた。
「町に現れる魔物は……」
「別にけしかけてるわけじゃない。あれは摂理だ」
「だけど、あんな不自然なあらわれ方を!」
「……まぁ、魔物が現れる原因を作ってるのは確かだけど……」
ザクーは顎に手をやりつつ、エノリアを見つめた。
「まだ不充分なんだ。シャイナの光《リア》だけじゃ足りない。だから」
エノリアはその視線に気圧された。
「君が必要なんだ」
「そんな……!
今、泣いている人は? 今、怖いって言ってる人は?
幸せな世界を作りたいだなんて! じゃあ、シャイナがしていることは何?!」
そういうことを言いたいわけじゃない。根本的なことが違うとエノリアは感じていた。
(幸せって……幸せな世界って何?)
リュス……。カタデイナーゼ……。ナーミ……。
「違うっ! 違うわ。そんな、世界……」
悲しいことがなくなれば、苦しいことがなくなれば、ずっと笑顔でいることができたら……きっと、それは誰もが望む世界。否定は出来ない。けど、どこかでそれは違うと叫んでいる自分がいる。だけど、それを言葉にするには酷く不確かなものだった。
「私は、嫌だ」
「どうして?」
シャイナが一歩足を踏み出す。
「幸せってそういうものじゃない。笑顔ってそういうものじゃないわよっ!」
苦しい。
「シャイナ」
ザクーがシャイナを呼びとめる。悲しい顔をしたまま、シャイナはザクーを振り返った。その彼女を柔らかく抱きしめながら、ザクーの目はエノリアに向けられた。
ランの顔で、誰かを抱きしめて、こちらを伺うように見つめるその光景。何故か心が騒ぐ。
「落ちついて……。彼女には急な話だよ。すぐにわかるものじゃない。少し席をはずして……。
そうだ。お茶を用意しよう。君が覚えて作ったあのタルトをエノリアにも見せてあげたらどう?」
「ザクー……」
「私も、彼女と少し話がしたいんだ」
シャイナは小さく頷くと、エノリアに視線を残し、その場を立ち去った。扉が閉まる音を聞いたあと、エノリアは張り詰めた緊張感を知る。ザクーがこちらを見た。
彼の一挙手一投足に肩が震える自分が怖い。
「何を、したの。シャイナに」
「聞き覚えが悪いな。何もしてないよ。彼女が行きたいところへ案内し、彼女が見たいものを見せて……。そう、エノリア……君は確実に彼女の跡を追っていた」
ランの声で柔かな口調でそう言う。くらくらする頭を押えつつ、エノリアは彼を睨んだ。
「この状態をシャイナが望んだって?」
「彼女は純粋だ。人の悲しみを自分の悲しみのように受け取って泣く。泣き疲れて、眠ってしまう。眠っている間だけ、彼女は人の悲しみに触れなくて済んだ」
「……あなたは、何?」
「君らしくない質問だ」
わかっているくせにと、ザクーは目を細めて笑う。エノリアは唇を引き締めた。
「エノリア。怖い?」
彼の声で、優しく囁く。
「似ていると、そんなに怖いか」
「貴方は知っているのね、その容姿が誰に似ているのかを」
「知っているよ」
エノリアは拳を握り締めた。じっとりと汗ばんでいる。そこに自分の心境が現れていた。
「何がしたいの」
「シャイナの願いをかなえる。それだけ」
「……貴方の印象は、ライラやナミとは違うわ」
エノリアの言葉に、ザクーは唇だけで微笑んだ。その瞳の印象はさきほどよりも暗くなった。
「やはり、会って拡散させたね?」
拡散? その意味を捉えようとしたがエノリアは頭の隅に止めるのみにした。先を続ける。
「……貴方達みたいな存在は繋がりがあるの?」
「繋がってはいない。だけど、もとが一緒だから」
さらりと言い放つ彼。エノリアは言葉を選んだ。
「だけど、貴方が1番強い?」
それは初めて見たときに感じたことだった。自分が光《リア》を持っているから存在する感覚かもしれない。
「光《リア》から生まれた闇《ゼク》だからね……。しかも、あの月の娘《イアル》から」
彼は片方の眉をあげて、そう答えた。その仕草も、ランと同じではない。
「……シャイナの目的は叶った。けど、その奥の目的は叶わない。重なってしまったんだ、彼女の願いと『彼女』の願いが」
微妙な強調が含まれた言葉にエノリアは眉をしかめた。彼はふっと微笑む。
「いい顔だ」
「茶化さないで」
エノリアは吐き捨てるようにそう言って、彼を睨みつけた。彼は一歩エノリアのほうへ足を踏み出す。近寄る彼から逃げるように、エノリアは一歩後ろへ下がった。
「怖い?」
「貴方が言った事を考えているのよ」
「……怖いね? 私が」
「……その顔が嫌だわ」
「くちづけ、してあげようか?」
エノリアはますます彼を睨みつけた。
「一緒だよ、多分」
くすりと微笑んで、彼は急に真顔になる。そして、彼が手を伸ばした。エノリアはそれをかわすと、目の前にある窓に手をかけた。開け放ち、露台へ飛び出る。手摺から身を乗り出そうとして、後ろに引き戻された。ザクーの手がしっかりと彼女の右手首を掴み、強引に振り返させられる。振りほどこうとしたエノリアだったが、敵わない。
「最悪っ」
ザクーにしっかりと抱きしめられ、エノリアは悔しそうにうめいた。両手を後ろに取られては動けない。必死にその手を解こうとするが、彼の左腕はびくともしなかった。ザクーの右手がエノリアの顎を掴む。冷たい手だ。必死に顔をそらしながら、エノリアはそんなことを考えた。
「放せっ……」
「どうして? 一緒じゃないか。顔も身体も声も。違うのは目の色と髪の長さだけ……」
「本物ならこんなことしないわっ!」
「そう、かな?」
と言いつつ、ザクーはエノリアの頬に唇を寄せる。息が微かに彼女の耳をくすぐり、エノリアは忌々しそうに目を細めた。
「エノリア。私達と一緒に来ないか?」
耳元でそう囁いて、ザクーは唇をエノリアの耳にそっと寄せた。微かに触れて、エノリアは怒りに任せて声を上げた。
「行かないわよっ」
「もうすぐ、ダライアが死ぬ」
真剣な響きの言葉。さっきまで彼女をからかっていたザクーの言葉ではない。エノリアは目を見開いた。鮮やかな金色の光を、ザクーは満足そうに見つめる。
「シャイナは私の手の中に。君も私の手の中に。そうして、ダライアが死に、新しい大地の娘《アラル》も」
「何を言っているの?」
「さっきと同じ、創造神《イマルーク》を呼ぶ話」
エノリアは懸命に目の前の顔を睨みつけた。
「創造神《イマルーク》を本当に呼べたとしたら、新しい世界をつくれたとしたら、あんたたちみたいな存在なんていなくなるわよっ」
「最初にそうだったから、間違えたんだろ。あの男は」
エノリアはまじまじと金色の瞳でザクーを見つめた。
ザクーは何を考えているかわからない表情で、彼女を見下ろしている。
「そんなことどうして、断言できるの?」
「私はずっと王宮にいたから、いろんなことを知っているよ。ずぅっとね……」
だから、と続けてザクーはささやいた。
「彼が欲しい。私と同じ姿を持つ、彼の目と血が……。彼自身でも構わない」
「……ラン? ……!」
エノリアは別の意味で言葉を失った。瞳を見開いたまま、自分の言葉を塞いだ感触を信じられない思いで受けとめる。
唇が塞がれていた。彼によく似た顔が目前にあって。その瞳が閉じられていたから、それはまるで彼と……。
エノリアには長い時間だった。ふと唇に冷たい空気を感じたとき、彼女は握り締めた拳を挙げる気力もなかった。
「印」
ザクーはこともなげにそう言うと、エノリアの唇に指を当てる。
「これで、どこに居ても君の場所はわかるよ。エノリア……」
力の抜けた腕を振り切って、エノリアは手を振り上げた。小気味のいい音が彼の頬で弾ける。
「っ……」
どんな罵詈雑言も出てこない。ただ、怒りだけ。それも言葉にならなくて、エノリアは呼吸を繰り返した。ザクーはくすくすと笑い出し、俯いたままエノリアを見上げる。
「その目だよ。その目の光に惹かれるんだ」
斜め下からのぞきこまれるその瞳を、エノリアは正視できない。自分を欲しいと強く叫ぶ瞳。エノリアは一歩後ろへ下がった。ザクーは口元に手を当てて、にやりと笑う。
「銀でもなく。そして、太陽の娘《リスタル》の金でもなく。君の金色だ」
囁くような声に、エノリアはまた一歩下がる。怖いと思った。自分への執着心、それが伝わってくる。それはあまり居心地のよいものではなかった。
(ラン)
それがランの顔と同じだけ、本当のランを呼びたくなる。
(ラン!)
「……わからないか? 君はどんな太陽の娘《リスタル》とも違う。本当に、イマルークの愛した太陽の娘《リスタル》だ。
だから、欲しくなる。力のあるものは君の価値をよく知っている。だから惹かれる……」
ザクーは視線を下に下ろした。
「彼も、その1人になるか?」
エノリアは、顔をその方向へ向ける。露台の下をランが1人走っていた。
「ラン!」
自分の声に微かな喜びが含まれていたことをエノリアは自覚した。だけどそれを自分で咎める意識は無い。ランがこちらを見て、その鮮やかな緑色の瞳は安堵をもたらしてくれる。
「エノリア!」
ザクーは彼女の背後に立ち、エノリアの耳に唇を寄せる。
「彼こそ、君に惹かれるはずの運命の持ち主」
「何?」
「血が、そうさせるんだ」
ザクーの身体から火が上がるのをエノリアは身近で見た。目の前で、彼が燃え出す。だけどその火の向こうで、彼は笑った。均衡を崩すようにして部屋の中へ倒れこむ。それを最後まで目で追わずに、エノリアは無我夢中で露台の手摺から身を乗り出した。
少し高い。だが。
「来い! エノリア!」
ランがこちらに手を差し伸べた。緑色の瞳に吸い込まれるように、エノリアは躊躇せずに足を手摺にかける。
「……きちんと受けとめてよねっ!!」
エノリアは反動をつけて、手摺を飛び越える。ひらりと空中に投げ出された身体へ、ランは腕を伸ばした。
そして、衝撃と共にランとエノリアは折り重なる様にして地面に叩き付けられていた。
「……てぇ」
エノリアは瞑った目を開いた。そして自分がランを下敷きにしていることに気づく。額に右手をやって、うめくランの顔をエノリアは覗き込んだ。
「ラン? ラン! 大丈夫?」
「……痛い……」
「ご、めん……。すぐに……!」
エノリアがあわてて、身体をどけようとした。が、背中にランの手が回されていて動けない。
「ラン、腕どけてくれないと、動けないわよ」
左手でランの腕をぽんっとたたくが、ランの腕は動かない。
「ちょっと、ラン? ラン?!」
何かあったのだろうかと慌ててエノリアがランの顔を再び覗きこむと、ランは目を覆っていた右手をはずして、エノリアを見た。
「ラン?」
緑色の瞳は微笑んでいて、ひとまず怪我をしたというわけではないということにエノリアは安心する。
「気を失ったのかと思ったわ。さ、この腕を放して……」
と、エノリアの視界がゆれた。ランの右腕がエノリアの首に回され、引き寄せたのだ。顔がランの胸に押し当てられる形になり、エノリアは一瞬言葉を失う。
「……わるかった」
頭の上のほうでランの声が響いた。エノリアは目を見開いた。
「無事で、よかった……」
その言葉を噛み締めるように目を閉じる。右頬で彼の体温と鼓動を感じた。
「……うん……」
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