赤い色の大輪の花。幾重にも花びらの重なった黄色い花。上品な趣を見せる小さい白い花。ひっそりと咲く青い花。全ての花を指し示し、シャイナは一つ一つの花の名前を教えてくれた。
エノリアはそれを夢見ごこちに聞いていた。頭のどこかで現実だと認めることを拒否している。そして、拒否していることを自覚している自分もいる。妙な気分だった。
状況さえ考えなければ、あのときの風景だ。
城壁の中に二人ともいたときの風景と何もかわらない。
ときどき開かれるお茶会。その後二人で庭を散歩して、シャイナは花を好み、私は大樹を好んだ。
1度だけシャイナを樹の上に引っ張り挙げた。ローザが泣きそうな顔をしておろおろするのを、私はどこかで意地悪な気分で見つめていた。シャイナはローザに『大丈夫よ』と言って微笑んだ。
ローザは諦めて、風《ウィア》を自分の手の中へ呼んだ。シャイナが落ちたら少しでも衝撃を和らげることができるように。
私が落ちたら容赦ないだろうな、なんてローザの真剣な顔を見ながら思った。
好都合だっただろう。樹から落ち死んでしまえば、宮にとってはやっかいなお荷物を処分することが出来ると言う事だ。
私が樹に登ることを心配してたのはリーシャだけだった。そのリーシャももう居ない。この世に存在していない。
(どうして、こんなこと思い出すんだろう)
現実は、ここはあの宮じゃない。
遠く離れてしまった。いや、自分で遠く離れることを望み、今、ここにいるのだ。花の都・フュンラン。その象徴と中心で有るフュンラン城。
「赤い花を探しているの」
シャイナの声が耳に入った。周りの音が耳に入っていなかっただけに、声だけが奇妙に響いた。エノリアは「えっ」と聞き返す。
「赤い花?」
「貴重な花よ。カタデイナーゼっていうの。エノリアは見なかった? こんな小さな花なの」
ナーゼ。
メロサのあの若者を思い出した。カタデイナーゼとカタデイキール。ラスメイの語った御伽噺にでてくるお姫様はナーゼリアとキールリア……。
「探しているの。フュンランにあるかと思ったんだけど、やはり見つからないわ」
自分の腕に絡められた彼女の腕は華奢で、振り払おうと思えば振り払える。自分の力でも折れてしまいそうだと思った。だけどそこから伝わる空気は、逃れきれぬものを孕んでいる。
そう感じる自分がすごく汚いものに思えた。こんなに綺麗な笑顔で、こんなに透き通った存在であるのに。
ただこの異常な場所では、綺麗な存在は異質に見える。どうして笑顔で居られるのか。だけど、聞けない。
(私の中のシャイナがそれを止めるから)
あの宮で得られた美しい思い出が邪魔をする……。
「エノリア。貴方は見つけた?」
「何を」
「外にある大切なものよ」
近くにある1輪の花を手折って、シャイナは唇に近づける。薄紅色の形の良い唇。そうして少し背の高いエノリアを見上げて微笑んだ。
「私ね、あれから宮の外に出てね……。いろんなところに行ったのよ。行きたいところに連れて行ってくれたの」
「誰が?」
エノリアが静かな声で聞く。と、シャイナは眼を細めて微笑んだ。花を手折るシャイナと自分の知っているシャイナは違う。
遠くで小さな花を見つめて微笑んでいた。あれも根ざし、一生懸命に生きる命だからと手折ることに戸惑った。
それでも手折った花を貰う事を拒みはしなかった。手折られた花ならば、その花なりに精一杯に生きる道を。
そうやって小さな命を慈しんだ。
「人は、寂しそうね」
ぽつりと呟く。
「人は悲しそうね。だから、魔物が生まれるのかしら」
魔物と言う言葉が、エノリアを現実に引き戻す。
「シャイナ、教えて。あなたを宮から連れ出したのは誰?」
シャイナは足を止めた。小さな池は澄んだ水を湛えている。その周りを生き生きとした芝が覆っていた。
「私がここまで来たのは、貴方が魔物にさらわれたって聞いたからよ。貴方を探していたの」
「違うわ、エノリア。貴方がここまで来たのはそうしたかったからよ」
シャイナはそっとかがみこむ。芝の中から小さな石を拾った。
「そして、私がここにいるのは、あなたがここにいるから」
「シャイナ? 魔物にさらわれたわけではないの?」
そこまで口に出してしまっては、他のことを聞くのも容易かった。勢いに任せて、エノリアは言葉を続けた。
「あの城はどうなってるの?」
シャイナの瞳は変わらない。銀色の美しい澄んだ瞳を水面に落として、唇にやわらかな微笑みを乗せて。
エノリアは彼女の二の腕を掴んだ。自分の方へ身体を向ける。エノリアよりも少しだけ背の低い彼女の視線が、上向きになった。
微笑みは変わらない。
エノリアは問い詰めるように、また自分の中に浮んだ不安を打ち消すように彼女を揺さぶった。
シャイナはそれでも微笑んでいる。
「みんな、まるで時間が止まったように動かなくて! どうして、あなただけ動けるの?
何が起こっているの!?」
「これがエノリア」
白くやわらかな掌に載せた小石をシャイナはエノリアの目の前に出した。
そして、それをつまみあげると、唖然とするエノリアの目の前で、その小石を穏やかな水面に落とした。ゆっくりと広がる波紋を感慨深そうに見つめて、シャイナは呟いた。
「あれが、わたし」
「シャイナ」
「エノリアが私の目の前に現れて、私に外の楽しさを教えて、そして去って行ったの」
シャイナは水面を見つめている。
「どうして、私も望んではいけなかったの?」
再びシャイナはエノリアへ視線を返す。
変わらない銀色の瞳。だけど、エノリアは気圧された。
微笑を浮かべた銀色の瞳。
命を慈しむ、綺麗な瞳。
変わらない。
(だから、怖い)
エノリアは喉を鳴らした。
「私も見たかったの。あなたが見たいと思ったものを、あなたが願ったものを私も、欲しくて。とても欲しくて……」
今度はシャイナが腕を伸ばして、エノリアの二の腕にすがるように掴んだ。
「そうしたら、彼がいたの」
「……シャイナ」
「私は月宮《シャイアル》も好き。月の娘《イアル》であることにも不満なんてないの。だから、出たいと願っても、出る事なんてできない。私が1番許せない。
だから。
彼が理由をくれた。私が納得する理由をくれて……外に出してくれたのよ」
「彼って誰?」
「私が断れない状況を作れば、私は悩む必要ないでしょう……。そうしてくれたの……」
「シャイナ……」
遠い。
シャイナの柔らかい光《リア》がとてもとても遠い。
シャイナはエノリアを見つめる。
「私の願いから、生まれたのよ。
だって、彼は私が1度だけあったあのひとに似てたから。
もう1度会いたくて仕方が無かったひとに似ていたから。
だから、わかったの」
シャイナの語る口調は熱っぽくて、エノリアは目を細めた。
「エノリアは、恋をしたことがある?」
シャイナはその嬉しそうな瞳を輝かせて、エノリアの背中ごしに視線をやる。
「ザクー」
嬉しそうな響きを瞬間、エノリアの肌があわ立った。
(何、これ)
ライラ・ナミ。思い起こさせる。だけど、その深さは。
闇《ゼク》の深さ? 重み? シャイナは平気なの?
エノリアは振り返った。そこには一つの影があった。否、影だと思ったのは黒い外套を被っているからだ。
「シャイナ。城へ。お友達とはゆっくり話したいだろう?」
「どうしたの、ザクー?」
「心配する事ないよ。ちょっとした侵入者だから。二人ほど、不必要なのがいるけどね」
「大丈夫なの?」
シャイナがそう言うと、彼は彼女に近づき手を自らとった。それを唇へ持っていく。
「大丈夫。全てはシャイナの思うままに……」
身体を覆う黒い外套。それでも、目深に被った頭巾の隙間から顎と唇の形を確認できた。
その彼がふと顔を上げる。影が落ちていたが顔の造作を見ることが出来た。
エノリアは息を呑んだ。
そんな……。
「貴方も城へ。ここは危険になるからね」
エノリアは目を見開いたまま、その深い闇《ゼク》を持つ者を見ていた。
「どうして?」
呟いた言葉は硬質で、まるで自分の言葉でないように聞こえる。
「どうして、その姿をしているの……」
その呟きに、シャイナは首を傾げ、ザクーはふっと口元に笑みを浮かべた。
「どうしてランと同じ顔っ……!」
彼は手を伸ばし、逃げようとするエノリアの手を掴む。
「城へ」
捕らえる様に向けられた瞳の色は黒だった。エノリアの目に焼きついたその色だけが、ランと彼を見分ける部分なのかもしれない。
ひっぱろうとするその手を、エノリアは振り解いた。
「エノリア?」
シャイナがエノリアの顔を心配そうに覗きこむ。
「どうしたの?」
シャイナの言葉の響きは、あのころとちっとも変わらない。優しくて柔らかくて、私の大好きな声。
エノリアは唇を噛み締めた。
「1人で、歩けるわ」
まっすぐに顔を上げて、ザクーを睨みつける。彼は楽しそうにこちらを見ていた。柔らかく微笑む瞳の奥に、隠しきれない強い光が見えていた。
◇
「たいした歓迎だ」
ひとりごちてランはあたりに剣を向けた。入った瞬間、白い霧に視界を遮られた。隣でセイが動いたのを感じた。剣を抜く音が奇妙な静けさを絶ちきる。
「後ろ、いるからな」
ランがそう言うと、セイが頷いた。頷いたのを見たわけでは無い。少し触れた背中の動きで感じ取れた。
ラスメイが杖を地面につく音がして、風が動いた。白い靄が動く。その隙間から黒い塊が不気味な声と共に飛び出してくる。ランは剣を振るう。後ろでもセイが少しだけ動いた。
殺気は一欠けらも無い。闘志も、無い。ただ、殺すだけ。
ランの背筋を上ったのは、魔物への恐怖ではない。今、自分の後ろで剣をふるうこの男への恐怖だ。
エノリアと会わせてはいけない。
ラスメイの囁くような声がして、前方の靄が晴れた。
視界の良いそちらへなだれ込む様に移動する。何匹斬ったかわからない。が、足場に一体も死骸が無いことに違和感を感じた。
「城を目指すぞ、ひとまず」
ラスメイがそう言う。その言葉に反論する者はいなかった。
「こっちよ」
アルディラが小さな手で先を示す。地理的なことはわからないのだ。その会話が交わされている間も、魔物達の攻撃は途絶えない。ラスメイはアルディラの安全を第1にしているので、ランやセイの補助にも回れない。
セイは黙々と魔物の死骸を作りだし、ランもまた同じように剣をふるった。回りを取り囲んでいた魔物を大方消した。落ちついてあたりを見まわせば、ランにはもうどちらから自分が来たのかわからない。
白い壁に囲まれた庭だろうか? 低く刈られた芝と、あちこちにちりばめられたような花の色に目が行く。
ランは剣の血を布で拭き取ると、辺りを見回した。静かすぎて気味が悪い。ひとまず魔物達のあらわれる気配はなかったが。
「どれだけ出て来るんだよ」
「操っている奴がいるんだ。だけど、どうしてこんなに」
「場、だろう」
ラスメイとランの短い会話を経て、セイがようやく口を開いた。
「場?」
怪訝そうに聞き返すランに、セイは淡々と説明を続けた。
「魔物というのは一般には伝説の存在だと思われていた。だが、乱世の時代には普通に存在していたとも言われる。また、乱世が終わり5つの国に分かれた後、500年ほどの間にも」
急に語り出したセイに、一同は目を向ける。
「ただ、魔物がいると語るには脆弱すぎる噂話だ。それに、魔物が現れる場所というのは限られていた。条件を満たす場所はそう多くない。それがこの18年ほどのうちに、多くなってきたということだ」
「その条件をここが満たすと? その条件って?」
真剣な眼差しで問うラスメイに、セイは答えなかった。黙ったままのセイを、ラスメイは疑うような目つきで見上げる。
「どうして、そんなことを? 俺達に語ってもいいのか」
ランの言葉に、セイは目を細める。
「構わないだろう」
紺色の瞳をランに向ける。ランの緑色の瞳を見つめ、セイは呟いた。
「貴公なら、知っていて当然のこと」
微妙な含みの篭められた言葉を、ランはじっくりと考え、そしてその含みの向かう先に気づく。
「待った、あんたまだ俺の事」
と、4人の頭上に大きな影が落ちる。アルディラが見上げて、甲高い悲鳴を上げた。
「うえっ」
同時に3人も顔を上げていて、ラスメイがアルディラを抱えて伏せるのと、そのアルディラがたっていたろう位置に、鋭い光を発した爪が落ちてくるのは同時だった。ランとセイの耳に、大きな羽音が響く。セイが跳躍し、アルディラの側を通り過ぎた影に斬りかかった。つんざく悲鳴と、重い液体の落ちる音。ランは目をこらす。
鳥だ。
大きな鳥だった。翼を広げれば、らくらく彼の視界から空の青さを奪い取るほどの。セイの剣はその鳥の右足を切断した。血をおとしながらも、再び鳥は高く舞いあがる。
「羽のある魔物か」
ほんの数週間前までは、魔物に羽はなかった。飛ぶ機能のない羽らしきものをつけている魔物を、ラスメイが発見したのはそう遠い昔じゃない。
まだ、エノリアと旅を始めた頃だった。
「条件がいいらしい」
セイがそう言うのを、ランは気にとめた。ランは剣を前に、目を細める。
「《ディス・ベイタ・ラン=ロック=アリイマ》」
ランのしようとしていることを察して、セイが剣を握りなおした。鳥は大きくいななくと、急降下してくる。ランは掌をその鳥へ向けた。
「《メル》」
青白い火が彼の手から放たれる。魔物はそれを叫び声を上げながら受けた。と、セイが踏み出す。光が走った。
と、同時に魔物は地面へ叩きつけられ、そのまま動かなくなった。
「条件って、なんだ?」
セイは魔物をしばらく見つめていたが、ふとランに視線を返す。眼差しは強く、ランはそこから目を離せなかった。
「光《リア》だ」
呟くように言い、セイはランを探るように見つめた。ランは一瞬眉をひそめかけて、こらえた。
セイはあきらかにランの反応を探っている。
これは、とランは背筋を伸ばした。
セイはどこまで勘付いているのか。
これまでの旅路をたどって追ってきたのなら、自分たち4人のことをどこかで耳にしていてもおかしく無いのだ。
セイは視線をランからはずし、アルディラに顔を向けた。
「アルディラ様、城へ」
ランはラスメイを見た。ラスメイはそんなランの視線を受け、わからないというように首を振る。
光《リア》。シャイナのこと、エノリアのことは自分たちには言えないはず。そして、セイのあの瞳。
セイは、エノリアがここにいるということを知っていて来ているのか。
知っている? いや、それよりも今、確信したというようだった。
シャイナのことを知る由も無い。それは、エノリアだからわかったことだ。
だが、「場」の話……。
「わかんねぇな……」
呟いて、ラスメイが慌ててアルディラへ駆け寄るのを見ながら、とにかくセイの後を追った。
と、その背後に突然現れる黒い影が2体。ランは目を見開いて、手を伸ばしかけた。
火《ベイ》はすぐにでも発動できた。さっき呼んで周りに捉えてある。だが、
セイの背後で光る魔物の爪を見て、躊躇した。
彼が今傷つけば足止めになる。
巡る打算とそれを卑怯だとする思いが競り合った。それだけ反応は遅かった。
「セイ!」
ランが呼ぶよりも早くセイは振りかえり様に剣を振るっていた。が、その背後にもう2体、まるで地面から涌き出るようにあらわれる。
(挟まれた!)
ラスメイがアルディラを庇い、とっさに風を呼び風で壁を作り出した。ランは火を放ち、一体を焼き払う。だがセイの背後に現れた魔物の長い爪からは逃れることが出来なかった。
セイの背中に朱線が走る。
セイが剣を振る。魔物はセイに一撃だけ与え、その場に足をついた。ランはそのセイの頭上を越えて、セイの一撃で身体をぐらつかせた魔物に斬りこんだ。返してこちらに牙を向けた魔物を斬りつける。ラスメイはアルディラを連れて壁際に寄った。
「セイ」
呼びながら片膝をついたセイへ寄る。
「大丈夫か。すまない……気づくのが遅くて……」
「こちらもだ。それに、かすり傷だ」
セイは眉一つ動かさず、立ち上がろうとする。
「待った。あんた、属性は?」
その場に止めようとするが、セイはランを無視して立ちあがった。
「……風《ウィア》だ」
「風《ウィア》か」
ランの反復に、セイは頷いた。
「そうだ」
「……じゃあ、ラスメイに治療してもらって」
「治療は不要だ」
セイは背中に手をやる。そのとき、一瞬だけ眉が動いた。切り裂かれた服の間からのぞく傷からは赤く血が溢れていて痛々しい。ランは外套の1部を切り裂くと、彼の傷を上から押えた。
「だが、このままだと」
「彼女の要素を無駄遣いする必要は無い」
ランは頑ななセイの顔を見つめ、彼を支えつつラスメイとアルディラのいる位置まで誘導する。ラスメイに布を押えるように言うと、ランはアルディラの方を向いた。
「入り口はここをまっすぐ?」
「ええ、まっすぐ行って一つ目の分かれ道を左に。その先にあるわ」
ランは頷くと、その先を見つめた。
「見てくる」
「1人じゃ危険だ」
セイの言葉に、ランは首を振った。
「少し休んで追いかけてくれ。俺は……気になることがある」
意味ありげにラスメイのほうを見ると、ラスメイは微かに頷いた。セイと一緒に行くのは楽だが危険である。
なんとか、先にエノリアと合流しなくては。
剣を抜き身のままでもち、ランはセイがそれ以上反論しないことをいいことに、3人を置いて走り出した。
それをラスメイがぼーっと見つめていると、セイが大きく息をつきながらラスメイを見る。
「風魔術師《ウィタ》、君はフォルタか」
「そうだが」
「……闇《ゼク》を持っているな?」
セイの単刀直入な質問に、ラスメイは頷いた。相手は王家の関係者、普通なら答えない。だが、彼はラスメイたちが城門でしていたことを見ていたかもしれないのだ。今更誤魔化しても仕方が無い。
(それに、この人に隠しても仕方が無い)
「闇《ゼク》による治療は出来るか」
「……出来る」
ラスメイは複雑な顔をして、セイを見ていた。感情を一欠けらも認められないその顔。それは、一つの意志で彼の表情が固められているからかもしれないと思った。
「血を止める程度にしか効かないだろうが?」
ラスメイの言葉に、セイは目を細めた。
「風《ウィア》では無理だからな。君なら分かるだろう」
ラスメイはしばらくセイを見つめていたが、こくりと頷く。
ラスメイはセイの傷口を押えたまま、目を瞑った。治療は同じ属性を注ぎこむしかない。
目の前で始まる治療を、アルディラは気の抜けたように見つめていた。しばらくして気をとりなおした彼女は、きょろきょろと辺りを見まわした。二人の変わりに見張りをしようとしていた彼女だったが。背後……白い壁のある部分までは気が回らないようだった。
急にあらわれた二本の手は、片方で彼女の口を塞ぎ、もう片方で彼女の腰を捕らえた。
ラスメイがその急に発生した力と濃密な空気の歪みに気づいて、振りかえる。
「アル!」
アルディラの身体が壁から生えたように差し伸べられた腕でからめとられ、壁に引き寄せられて消えた。
あまりにも一瞬でラスメイは彼女の名前を最後まで呼べなかったほどだ。
セイもラスメイも、その彼女が吸いこまれたように消えた壁の辺りを、見つめることしか出来なかった。
驚きが感情の全てを占めてしまっていて、残された他の感情はゆるやかにしかやってこなかった。
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