自分が揺れる度に、何かが支えてくれた。
それは彼の声でもあったし、彼女のあの目でもあった。それを意識の奥へ押しやった。忘れていたわけじゃなかった。だけど、鮮明に思い出すことは無意識のうちに拒んでいた。
4年前、あの場から逃げるようにして去って、気づいたら館の前に居た。赤い瞳が優しく迎えてくれて、差し出されたその腕に自分は記憶をゆだねたのだろう。
額にナイフを付きたてて、燃えるような熱さと目の前に広がった赤さの中で、1番何から逃げたかったのか。
カーディスは居ない。自分が殺した。
痛みにも泣けなくて。
自分の目の前で赤い瞳が少しだけ揺れて。
だけど、生きていかなくちゃならかったから。
それだけ強く強く心に刻み付けた。
多くの人が彼女のことを知っていた。不安そうな影につきまとわれた彼らの表情も、彼女のことを語るときには一筋の光を灯した。それだけで、彼女がどのようにしてここで生きてきたのかがわかる。
分宮《アル》の巫女《アルデ》達は医術を身につけている。彼女達は民に分け隔てなくその知識を披露する、と一般的に言われている。だがフュンランではそうでもないらしい。身分の格差の大きいこの国では、巫女《アルデ》も貴族や富のある者を優先させる。特に巫女《アルデ》達がその身を運ぶのを嫌がったのが花街である。こういう国では「医者」という職業が成り立つ。シャイマルークでは巫女《アルデ》がその役目を果たすために、あまり見かけないのだが。
エノーリアは医者を生業としているらしい。巫女《アルデ》がいやがる花街の娼婦や後回しする民達を、それこそないような金額で助けるのがエノーリアだった。
彼女の自宅はすぐに明らかになった。だからすぐに自宅兼診察所の扉の前に、ランは立っていた。近くに繋いだラルディが早くいけとばかりに鼻を鳴らす。
それに促されるようにしてランは扉の方へ手を伸ばす。
開こうとしたその手を止めたのは不意に降ってきた花の香りに気をとられたからだ。
(あのときの香り)
エノーリアを抱きしめたとき、この香りがした。きつくなく、されど存在感のある柔かな香り。斜め上を見上げて、この花かと目を細める。
細い枝についた白い花は、植木鉢に植えられた花の多いフュンランでは、浮いた存在感を持っている。
今にも大きな花びらを手放してしまいそうな1輪の花に、ランは手を伸ばした。振れれば花びらは落ち、下を歩く人々に踏みにじられる。何故かそれが哀れに思えて、落ちる前に自分の手で摘んでしまおうと思ったのだ。
手の中に1輪の花を収めて、地面にそっと置こうかと考えをめぐらせたとき。
「《エノリア》よ」
ランは肩を振るわせた。両手で包みこんだ花を掲げた状態で、声のしたほうを見る。扉が少し開いていて、そこから黒い髪が揺れていた。金色の瞳をこちらへ無表情に向けている。
急に大きく打った鼓動を抑えるように、ランは息を大きく吸い、ゆっくりと吐き出した。その様子を彼女に気取られないように。
「《エノリア》」
「あのこと同じ名前ね。そして、私とも」
「会った?」
「会ったわ。私と貴方の関係を誤解して迷っていたみたいだから。全て話しておいたの」
ランは静かに彼女を見、そして緑色の視線を白い花に落とす。
「そうか」
「可愛そうなことをするのね。大切な人ではないの?」
ランはその質問には答えなかった。両手に包んだ花を、最初に思い巡らした通りにその樹の根元に置く。その間、エノーリアは一言も発しなかった。ランは立ちあがると、エノーリアに体を向ける。
「話がしたい」
「いやだと言ったら」
即答にランはしばらく黙りこみ、改めてこう言った。
「光《リア》を持つ貴女に、頼みたいことがある」
わざわざその言い方をするランに、エノーリアはしばらく考えるようにして目を合わせていた。
「いいわ」
エノーリアは扉を先ほどよりも大きく開く。
「入りなさい」
「ここで」
「入って頂戴」
ランは緑色の瞳で彼女を見つめていた。その金色の瞳から何か読み取れるかと思ったが、無駄だった。無言で彼女の開ける扉をくぐり、入ってすぐのところで立ちどまった。周りを出来るだけ見ないでいいように斜め下の床の目を見る。
エノーリアの気配が離れて行ったのを意識で追う。椅子を引く音がして、ランは顔を上げた。引いた椅子の背に手をかけたまま、エノーリアはこちらに視線をやる。
「座って頂戴」
「急いでいるんだ」
「そう。じゃ、このまま聞くわ」
「フュンラン城が閉ざされた事は知っているよな」
椅子の背から手を離したエノーリアに、ランは切り出した。
「ええ」
「エノリアが中に」
「やはりそうなの」
ふと溜息混じりの声。そうして、エノーリアは視線を卓上の花へ移す。
「なら、さっさと追いかけたらどうなの」
「入れない」
エノーリアは視線を挙げた。
「入れないって。そんなことは今まで」
「エノリアが入って、闇《ゼク》の結界で閉じられた。今は仲間がそれを開けようとしている」
要点だけの説明をするとランは用件を端的に伝える。
「閉じた結界はかなり強固だ。一瞬でもいい。開くために光魔術師《リスタ》に協力願いたい」
「立派です。私に瞳を抉れと?」
その声は静かだった。あまりの静けさに、ランは一瞬返答を忘れた。違うと言おうとしたランの言葉を制したのは、エノーリアの目に宿った光だった。今まで一切の感情を抑えていた彼女の瞳に、感情と言うものが宿った。
「やりましょう。それで、貴方の気が済むのであれば」
諦めか。ランはその瞳の色を見てそう感じた。同時に彼の腕をざわざわとしたものが這いあがる。
「エノーリア?」
「役に立つなら、立たせましょう」
諦めだ。
静かな響きに、ランは胸を押しつぶされそうになって、思わず声をあげた。
「死ぬかもしれないんだぞ」
「死など」
穏やかに紡がれた言葉。ランは目を見開いた。
「エノーリア?」
「懐かしい響きだわ」
唇が少しほころぶ。微笑みに見えた。
「彼女の為に、私の目を使うと良いわ」
「死にたいのか」
ランはそう聞いた。
違う、そんなこと想像できた事だ。いや、そんなことを自分が言える立場では無い。
エノーリアはくすりと笑った。
(あ)
ランは唇を少し開く。
(あのときの、エノーリア)
カーディスと一緒にいるときのエノーリア。
「ずっと、願ってた事よ。彼を失ってから今まで生きていたのは、彼が残したものがあったからなの」
温かさが加わった声が、ひどく切ない。ランは、エノーリアをくいいるように見つめてしまう。優しいあの思い出の空気を思い出させる柔かな声、視線。そういうものを自分の前で取り戻した彼女が、かえって遠く感じた。
エノーリアはテーブルに飾った花に手をかざす。花びらが一片、ぽとりと音を立てて落ちた。
「貴方に再会して確信したわ」
だけど、喜びに満ちた溢れた金色の瞳はもう取り戻せないのだ。
「カーディスが、もういいよって言ってくれてる気がしたの」
どうして、泣かせてしまうのだろう?
ランは拳を握り締めた。エノーリアの瞳から涙など流れていない。でも、ランには聞こえた気がした。
「俺は、死んで欲しくない」
「勝手なこと、言うのね」
微笑むエノーリア。だけど、ランは拳を握り締めもう1度言った。
「俺は……生きていて欲しい」
「どうして? 罪悪感なの? いいのよ、そんなの。あれはカーディスの願ったことよ。言ったでしょ? 謝らないでって」
「俺を、憎んで」
呟きをエノーリアはどんな顔をして受けとめただろう? ランはその顔を直視できない。
「そして、殺そうと思っていいから」
吐き出すような一瞬の笑い声が聞こえて、胸が締めつけられる。
「人を憎しみながら生きていけっていうの?
そんな生き方がいいと? あなたがそう言うの?」
「だって、そうしたかったんだろう? カーディスが願ったから、俺を殺せないんだろう? 本当は殺したいだろ」
ランは床を睨んだ。滅茶苦茶なことを言っている自覚はあった。
「勝手だってわかるけど。俺は生きていて欲しい」
「勝手だわ!」
「だけど、俺も簡単に殺されるわけにはいかない。
生きようとするこの意志は、カーディスが導いてくれたものだ。だから、簡単に手放そうとは思って無いけど」
「恨みと憎しみを糧にして、生きろって? 簡単に殺されてやらないけど、殺そうとしていいって?」
抑揚のない言葉が紡がれた。ランは自分の顔が赤くなっていることを自覚した。鏡で確認しなくてもわかる。ひどく顔が熱かった。無茶苦茶なことを言っている羞恥からか、抑えきれない感情の昂ぶりからかは判断つかなかったけれども。
「ひどいことを言うのね」
「でも、生きていれば。
生きていれば……何か新しいものが見つかるかもしれないじゃないか!」
「私はカーディスを愛しているわ。でもね、ラン」
その声はすぐ近くで響いて、ランは床を睨みつけていた視線を動かす。そこに彼女の足が見えた。白く細い足の甲が目に入る。
「あなたのことも大好きだった。
精一杯喜んで、力一杯怒って、ときどき拗ねて……。だけど、私が困った顔をすると、すぐに笑わせ様としてくれたり。優しい子で、大好きだった……」
ランは思いきって顔を上げる。エノーリアの金色の瞳がすぐ近くにあった。金色の光が揺れたと思ったとき、エノーリアの額はランの胸に押し当てられていた。こつりとした微かな衝撃に、ランは目を細める。
「あなたが殺されていたら、私はカーディスを恨み続けていたわ、きっと。
だけど、カーディスは自ら死へ向かったのよ。わかってるの。あなたのせいじゃないって。わかってても、わかってても……どうしようもなかった……」
ぽとりと微かな音が聞こえたが、確認するためにランは視線を落とさなかった。
見てはいけない気がしたから。
今、彼女は泣いていることを知られたくないだろうと思った。その声が掠れていても、震えていても。自分は気づいてはいけない気がした。
「あなたに謝られることが1番怖かった。憎めればいいって思ってたのに……。聞き分けのいい自分も、弱い自分も嫌だった! いつも冷静な部分で、あなたのせいじゃないって思ってるくせに、弱い自分はあなたのせいにしたくて……。
ひどい人よ、カーディス! 私に、生きることを約束させて……あなたを恨むことも許さなくて」
「エノーリア……」
「だから、あなたから恨んでいいなんて言わないで。殺していいなんて言わないで!
私にあなたを殺させないで……」
「ごめん」
目の前の頼りない肩が小さく震え出した。気がついたら、彼女を抱きしめていた。優しく抱きしめながら、もう1度呟いた。
「ごめん……」
エノーリアは何度も息を吸いこむ。泣きやもうとしているのだと気づいて、ランはぽつりと言葉をこぼした。
「あれからのことを話す。このことが終わって、落ちついたら」
エノーリアはそれには答えなかった。ランは続ける。そうやって彼女が泣き止むのを待とうと思った。
「育ててくれた人の元へ戻ってからのこと、話したい。この4年で手に入れたもののこと、大切なもののことを聞いてほしい。
エノーリアやカーディスに出会わなかったら、自分が手に入れられなかったと思うもののことを」
エノーリアが微かに頷いた気がした。
「たくさん、話すよ」
見守られて、助けられて、支えられて、巡りあって、こうしてここにいること。
セアラのこと、ミラールのこと、ラスメイのこと、そして、エノリアのことを。
たくさんの町を通り過ぎて、たくさんの人の思いに触れたこと。心に残った風景。そして、そこにいつもいる……仲間のこと。
エノーリアの笑い声が聞こえた。泣いているのか笑っているのかよくわからないような声だった。
「何?」
聞くとエノーリアは息を大きく吐いて笑い声をとめた。
「昔、そうだったなって思って。あの人と一緒にどこかへ出かけたときって、たくさん話すから聞いてって、そう言ってから手振り身振りで話してくれたよね……いつもいつも」
「そう、だっけ」
「カーディスもそれを見て笑ってた。あとで、あんなに大げさなことじゃないってそっと教えてくれて、私、ずっと笑いが止まらなかったことも有るわ」
「……そうだったかな……」
「そうよ。私には弟だったときままのような気がしたの。
こんなに大きくなったのにね」
ランはその声に、軽く眉を上げた。
「俺には違ったよ」
「母親だった?」
何かかさりと落ちる音がして、ランは顔を上げる。卓上に落ちた白い花がくるりと回って止まった。
「少し、違うな」
美しい光という名の白い花は、窓から真っ直ぐに入ってきた一筋の光に照らされていた。
(思い出した)
あの山の奥。彼女とカーディスと一緒に暮らしたあの小さな家の近くに、植えられた小さな木。回りの木と調和の取れていない木はあまりにもみすぼらしかった。その程度のことしか覚えて無い。だけど、あの木を大切に育てていることだけはわかった。カーディスもエノーリアも。それが不思議だった……。
1年に1度、2つ3つの小さな白い花を咲かせた。だけど花は遠くから見ても元気が無くて1日で地面に落ちてしまった。
あの花だ。あの白い花は本当はこんなに大きな花だったんだな……。
「エノリアさんを助けるのでしょう? 行きましょう」
その声に我に返ると、エノーリアは顔を上げてこちらを見ていた。その瞳は、また元の無表情なものに戻っているようだった。ランは頷くと彼女の肩から手を放し、身体を扉のほうへ向けた。
「眼はいらないからな。エノーリア。側に居てくれればいいんだ」
「だけど、闇《ゼク》の結界でしょう? 私が側にいてそれでどうにかなるかしら」
「ラスメイは、そう言っていたけど」
エノーリアはふと唇に手を置いた。
「何て?」
「闇《ゼク》の結界を破ろうとすると、反発っていうか……力がはね返ってくるらしい。だからそれを緩和させる何かが欲しいと」
「側にいてどうにかなる問題じゃないでしょう。それこそ結界がいるわ。というよりも、とくに光《リア》である必要はないでしょう? 物理的な反発力を恐れるのならば」
「ラスメイが、間違った?」
ランは腕を組む。闇《ゼク》が関わると、どうしてもラスメイの知識と判断力に頼るしかない。それほどに闇《ゼク》魔術についての知識というのは、一般的に広まっていないものだ。だからこそ、ラスメイの知識は絶対といっていいものでもあるし、間違えるということはほとんどないはず……。しばらく考えこんで、顔を上げる。そして、音を立てて扉を開いた。
「ラン?」
「あいつっ、俺を遠ざけるために?」
「どういうこと」
「無茶、するなって言ったのに!」
「待って、ラン!」
エノーリアは近くにある鞄を持つと、ランに駆け寄った。
「私も行く。医者がいるでしょ」
「ああ」
ランは表に止めていたラルディに飛び乗り、エノーリアを引き上げて乗せた。そのまま、ラルディを城へ走らせる。
ミラールが止めてくれてるといいのだが。
ミラールなら無茶をさせないだろう。だが、ラスメイ以上に無茶をするかもしれないのがミラールでもある。
ランは祈るような気持ちでいた。
不安を感じ取っていたのだろう。ラスメイもミラールも。
自分の動揺振りを反芻する。いや、それ以上にラスメイもミラールもエノリアを心配しているはずなのだ……。
情けない……。
前に乗っているエノーリアを支えながら、ランはラルディを走らせた。城まではそう遠くないはずなのに、気持ちばかり焦ってしまってその距離は数倍にも感じられた。
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