失敗した。
気の弛みによって、慎重に探っていた闇《ゼク》の結界のほころびがゆれた。反動によって力の粒が帰ってくる。それをランは大地《アル》の結界で遮った。
「すまない」
ラスメイは小さく謝る。額にじっとりとにじみ出る汗を拭こうともせずに彼女は紫の瞳をひたすらに城門へ向けていた。ランの短い返答は耳に入った直後、意識から消えた。集中力の限界を彼女は探る。
城壁を囲う闇《ゼク》の結界の厚さは今まで感じたことのないものだった。ラスメイはそれを信じられない思いで見つめる。
質が違う。だから、彼女の闇《ゼク》では取りこめない。ならば、力で押しきるしかない。
結界は……と彼女は頭に思い浮かべた。
壁だ。この結界は壁だ。
ラスメイの結界は網みたいなもの。しかもそれを編む一本一本の糸は鋭利な刃物のようになっている。それをぶつけたらどうなるだろう?
考えて見た。そして、すぐに首を振る。
さきほどのように、反動は肉体を傷つける力となって返ってくるようだ。それを考えると恐ろしくて出来ない。しかも……その影響は自分にぶつかるだろう。
ランが触れても平気だった結界は、ラスメイが触れると反発力として返ってくる。
闇《ゼク》の結界は闇《ゼク》でしか解けない。けど、それさえも予測しているような張り巡らせ方だ。
数多くない闇魔術師《ゼクタ》の力を、見越してこの結界が張られたならば、やはり。
(相手はエノリアも、そして私たちのことも知っている)
ラスメイは大きく息を吸った。ひとまずは、目の前の結界をなんとかしなくてはならない。
(闇《ゼク》を超えるもの……)
それは、闇《ゼク》を創った者だ。
ラスメイはランを仰ぎ見た。
(血だ)
首を振る。
できない。ランを追い詰める。ランはそれを忘れようとしているのに。
それに何が起こるのかわからない。何故、セアラが彼にその名前を与えたのか。その理由を何度も考えた。
セアラは私以上に知っているはずだ。響きと言うものがどんなに力を持っているのか。私がうすうす感じ取っている真実以上に、知っているはずだ。
使って、いいはずがない……。
杖の水晶に手をやる。
もう1人、闇魔術師《ゼクタ》がいればなんとかなるだろうか?
結界を張れる闇魔術師《ゼクタ》がいれば、私に向かう反動を少しは和らげてくれるかもしれない。
一瞬でいい。
ランが通りぬけることができれば……。
ラスメイはふとミラールを仰いだ。その視線に気づいてか、柔かな茶色の瞳がこちらに向けられる。
優しく問いかける瞳。
ミラール。
ミラールなら……。
だけど、それが可能と言うことはミラールに気づかせてしまう。いや、それはまだ私だって確信しているわけじゃない。
セアラ=ロック=フォルタニー。かの大魔術師がどうしてこの二人を引き取ったのか、この旅でいつもいっしょにいることによって、分かって来た。
(酔狂なんかじゃない。ランだけじゃない。ミラール……)
ミラールは……。
「ラスメイ」
見つめていたミラールの顔が心配そうにこちらを覗きこんでいた。
「何」
「ラスメイ。どうしたの? そんな顔しないで」
「顔……? 私は、どんな顔を」
「助けることがあるなら、僕はなんでもやるよ。そんな顔一人でしないで」
ランがミラールとラスメイの会話に気づいて振り返った。
「ラスメイ?」
「そんなこと、ない」
ランがこちらに近寄ってくる。しゃがみこんで、ラスメイの視線と自分の視線を合わせた。
いやだ。こんなときに眼を合わせたくない。
(心配させたくない)
「すまない。無理、させてるな」
「無理なんかじゃない!」
ラスメイは首を振った。思わず声が大きくなって、ラスメイは首をもう1度振る。
「ラスメイ」
ラスメイはしばらく俯いていた。方法は、二つ。
ランを傷つけるか、ミラールに背負わせるか。
いや、もう一つか。
(自分を核にするか)
一時耐えればいい。多分、死ぬことはないだろう。
「ラスメイ!」
激しく揺さぶられて、ラスメイは我に返った。ランの緑色の瞳がこちらを真剣に見つめている。いや、半分睨んでいる。
「駄目だ」
「私は何も」
「自分を犠牲にするとは考えるな。だったら俺がやる」
「……ラン」
ラスメイは首を振った。
「駄目だ。違う……。違う方法を考えるから、それだけは駄目だ!」
ラスメイは俯いた。しばらく考える。
「反発に耐えればいい。一瞬だ。だけどその反発が怖いんだ。私がまともに食らわなければいいんだ。緩和させる何かがあれば……。
闇魔術師《ゼクタ》か」
ラスメイはふと目を見開いた。
「光魔術師《リスタ》……。光魔術師《リスタ》の結界」
「光魔術師《リスタ》。光魔術師《リスタ》だな?」
「中途半端な術者じゃ駄目だ。闇《ゼク》の反発を強くするだけ。それか闇魔術師《ゼクタ》」
「光魔術師《リスタ》なんて今から探しているものなの?」
ミラールの声に、ラスメイは爪を噛む。
「分宮《アル》は一緒に閉じられている。巫女《アルデ》は駄目だ。そうじゃなくて、違う関係者」
「エノーリア……」
ランがぽつりと呟いた。ラスメイが視線を上げると彼の握りこぶしが目に入る。そして、その上にランの緑色の瞳。
あまり見たことのない、不安な色を落としていた。
ミラールが激しく首を振るのを、ラスメイは意味のわからぬまま見つめていた。
「ラン、何言ってるかわかってるの?」
「……わかってる」
「彼女は目が金色なんだよ! わかってるの?!」
「わかってる!」
「君は、オオガを忘れたの!?」
「忘れてないさ。忘れてない!」
ランの拳が震えている。ラスメイはそれを咄嗟に両手で握り締めた。
「ラン! 大丈夫だから」
「ラスメイ」
「大丈夫。目をくりぬいたりなんかさせないから!」
「……本当か」
ラスメイは大きな瞳をランに向けた。ランがこちらを見下ろしている。不安そうな目だ。必死に隠しているけど、抑えきれない不安。ラスメイには分かった。
誰よりも、見つめていた。
同時に彼のそんな顔を見ることの出来る人間が限られていることも知っている。
信頼してくれている。信じてくれている。
それが伝わってくる。
「光《リア》を持っている人を呼べる? それだけでもだいぶ助かる」
「……呼べる」
「じゃあ、呼んできて。急ぐのならすぐに……」
信じてくれる目。
この目がすごく好きだった。
「ミラールも」
ミラールは首を振った。
「僕はここにいる。ランが呼びに行けばいいよ。そうじゃないといけないだろ」
ランは頷いて、ラスメイの手に自分の手を重ねた。
「待ってろ」
(待たない)
そう思いながら、ラスメイは頷く。
ランがラルディに乗って駆けていく。それを見送りながら、ラスメイはすぐに城門に向き直った。
最初で最後になるだろう嘘に目を瞑って、ラスメイは息を吸う。
いちかばちだ。
ランが帰ってくるのと同時に発動出来るように、ラスメイは口の中で精霊語を刻みはじめた。
死ぬと決まったわけじゃないなら、やってみる価値はある。そう力をこめた瞬間に、肩に暖かさを感じた。
「ラスメイ」
瞳を上げると、ミラールの顔がそこにあった。城門とラスメイの間を遮る様に座って、こちらを見ている。
「そこをどけ、ミラール」
「ラスメイ。君は何を隠しているの?」
ミラールの茶色の瞳。落ちついた瞳は、すべてを見透かすような光を帯びていた。ランはこの目をされると、嘘がつけないと言っていたことを思い出す。
ラスメイはその目を見るのは初めてだったが、その気持ちがよくわかった。
「僕に、何か言いたいんだろう?」
ラスメイは首を振るしかない。
「僕が役に立つなら、なんでもするって言ったよね」
「違うんだ。違うんだ、ミラール」
紫の瞳を大きく見開いて、ラスメイは首を振る。その仕草が、ミラールに何かを確信させるとも思わずに。
「ラスメイ。ずっと思ってたことがある。僕はどうして光《リア》を持つ人がわかるんだろうって。
闇《ゼク》を持つ人間じゃなきゃ、わからない。そうだよね」
「それは……」
「セアラはそれを分からないと言っていたよ。うん、あのセアラがわからないなんてことがあるだろうか?」
ミラールは唇にふと笑みを浮かべた。
「きちんと教えてくれないか。ラスメイ。思ってることを。
可能性でもいいんだよ」
ミラールの目は落ちついている。言ってしまいそうになる。大丈夫な気がするから。
「あのね、ラスメイ。君が教えてくれたんだよ。闇《ゼク》は……忌まれるものじゃないんだ。
僕も、そう思う」
「違うんだ、ミラール!」
ラスメイはミラールにしがみついた。胸に額を押し付ける。
「私は怖いんだ。闇《ゼク》なら怖くない。怖くないんだ! だけど」
ミラールの手がラスメイの背中に置かれる。優しく包み込む様に。
思い出した。
初めてミラールと会ったときのことを。
笛の音がすごく綺麗で、無理を言って館に来てもらった。自分だけにその笛の音を奏でて欲しかったから。
笛を吹き終わって、彼は笑った。
泣いてもいいよと。
僕の笛の音を聞いて、泣いてくれる人がいる。ありがたいことにね。
そういうことは少なくないんだ。
みんな、泣くきっかけがほしいんだよ、きっと。
(ミラールは、寂しいときや悲しいときは泣いてもいいってを教えてくれた)
「なぁ、ミラール。約束してくれないか!
ミラールはミラールでいてくれるって。ずっとそうやって笑ってくれるって。
じゃないと不安なんだ。お願いだ。お願いだから、約束して!」
顔を上げると、ミラールが微笑んでいた。
精一杯祈りながら答えを待つ。
と、ミラールは頷いた。ゆっくりと深く頷いた。
「約束する。ラスメイ。
風《ウィア》に乗せようか? 僕とラスメイならその約束が出来るから」
「いいのか」
「ラスメイの不安が少しでも和らぐなら」
と、ミラールは小さく何かを呟いた。
「《ウィタ・ディス・イトゥラ》」
風《ウィア》がすぃっと引き込まれるようにして頬を撫で、ミラールとラスメイの周りを囲む。
「知っていたのか、その魔術」
あまり一般的ではない魔術だ。同じ属性でなければ、使うことの出来ない魔術。
「僕が唱えても大して力はないだろうけどね。ほら、ラスメイ。僕じゃ精霊語で細かいことは言えない。君が言ってくれないと」
ラスメイは恐々した微笑をやっと見せると、透き通るような声で少し長めに何かを言った。ミラールが聞き取れたのは闇《ゼク》や結び《イトゥラ》など。ラスメイを抱きしめたまま、その声に目を細める。
「ミラール。結んでくれ」
「わかったよ」
ミラールは目を伏せた。
「《……ジン》」
「ミラール!」
非難の声を、ミラールはラスメイを強く抱きしめることで封じた。
「《ミラール=ユウ=シスラン・シス》」
風《ウィア》が通り過ぎて行く。ラスメイを抱きしめる腕の力を抜いた途端、ラスメイは小さな握り拳でミラールの胸を叩いた。
「何故、そこまでする必要がある! 命をかけたんだぞ!」
「分かってるよ」
ミラールは微笑んだ。ラスメイの怒った顔を嬉しそうに見つめて。
「1番怖いのは、誰だと思う?」
笑っているけれど、誰よりも真剣な目にラスメイは気圧されそうになった。
「だからだよ、ラスメイ」
そう言われると何も言えない。ラスメイはミラールを叩いていた拳を、力なく落とした。
「良かったのか?」
「いいんだ。さぁ、ラスメイ。ランが帰ってくるまでにしようじゃないか」
ミラールは後ろを振り返り、城門を見る。
「それから一つ僕にも約束してよ、ラスメイ。風《ウィア》は呼ばなくていいからね」
「何」
「今の、秘密にしておいてくれないかな。ランには」
「頼まれたって言わない」
「よかった」
ミラールは胸に手を当てた。ラスメイはまだ怒っているのだ。ふんっとすねるそぶりを見せると、立ちあがる。
「では結界をこじ開ける。反動がくるけど、私とミラールならかかる力はだいたい6と4に分散できるだろう。
頼む」
「わかった」
「風《ウィア》の結界が物理的な力は和らげてくれるはずだ。いくぞ」
ミラールが頷くのを確認して、ラスメイは再び集中しはじめた。
そうしてランの気配が戻ってくるのを待った。
ミラールの息が近くに聞こえる。ただ、それだけなのにさっきよりは集中できる。それがとてもありがたいことに思えた。
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