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V  追憶
 
 パタンと、廊下を挟んで向かいの部屋の扉が閉まる音で、うつらうつらとしていたエノリアの意識ははっきりと醒めた。ミラールと話をし、ラスメイとカイラが居間に帰ってきたころ、夕食を進められたが、エノリアは気分がすぐれないと言って、客室に戻り寝台に身を横たえた。気分がすぐれないというのは嘘ではなかった。
 最悪の気分から少しは浮上したが、頭の中で回りつづけるのは「これから」のことであり、それを考えているうちにうとうととしていたらしい。
 ……ランが、帰ってきた。
 エノリアは半身を起こすと扉を見つめた。行くべきかどうか迷ってしまう。ユセが言っていた言葉を伝えたい。シャイナの事も伝えて、それから……。
 一緒に来てくれってまた言うの?
 エノリアは再びぱたりと寝台に倒れこんだ。枕の横に置いた一振りの剣を見つめる。
 これは、私が自由を得るための道具だった。
 それを今はランに託してしまっている。
 どうしてこんなに後悔して苦しくてイライラしているのか、自分で答えは半分出てしまっている。だけど、それを認めたくなかった。気付いて認めた瞬間、私は傷つくんだ。だって、ランが本当に大切に思ってるのは、私じゃないんだから。
「うっとうしい」
 呟いて枕に顔を押し付けた。
「うっとうしい!」
 自分の声がくぐもって、もっと情けない気分になる。
 ばっとエノリアは起きあがった。そして、寝台から降り、その勢いで扉まで大股に歩く。
 すっきりしてやる。ランに問い詰めてやる。そして、答えを貰うんだ。
 取っ手に手をかけたエノリアはその手を止めた。
 やっぱり、怖い。
「どっちよ、私は……」
 項垂れかけたエノリアが、弾かれたように顔を上げたのは向かいの部屋から派手な破壊音が聞こえたからだ。エノリアは迷わずに扉を開き、向かいのドアの扉も剥ぎ取るような勢いで開けた。
「ラン!」
 部屋の奥。薄い硝子の嵌められた窓から冷たい空気が入りこんでいた。窓にかけられた薄布が、ぱたぱたとひらめいている。それは窓を開けているからではなかった。
 ランがその前に立ち、こちらに背を向けている。振りかえりもしないランにエノリアが事情を聞こうとした。
 割れた窓に気付き、エノリアは口を開けたまま視線をランの腕へやる。胸の前に左手を持ってきていて、ここからはよくわからなかったが、その下の床に目を落としてエノリアは息を呑んだ。
「何してるのよ! この馬鹿!」
 小さな血だまりが出来ていた。そして、そこにはまだ新しい血が追加されている。歩み寄って、エノリアはランの左手を取ろうとした。
 無言でその手を振り払おうとするランの態度に、エノリアの堪忍袋は即座に切れる。
「あんたには馬鹿って言うだけじゃ足りないわね! 見せなさいよ!」
「いい」
「見せて!」
 両手で掴んだ左腕を自分に寄せて、エノリアはその傷口を見た。すっぱりと綺麗に切れた一文字の傷口から、きれいな赤い色の血があふれ出てきていて、エノリアは思わずよろめきそうになる。嵌められていた硝子は1部分が綺麗に抜けていた。まだ破片が窓枠に少しだけ残ってはいたけれど。
 エノリアは腰に巻きつけていた薄紅色の肩掛けを解くと、ランの傷口を縛り上げて止血をしようとする。
 ランはそれをただ見つめていた。
 薄紅色はどんどん赤くなっていく。薄紅色という微妙な色合いに染めるのは難しく、この色の布は貴重で滅多に目にかからない。だけど、エノリアはそんなことも忘れて、力いっぱい押しつけた。少しでもランが呻き声をあげたら、ひっぱたいてやろうと思った。だけど、ランは息一つ乱さない。とても生意気だと思った。
「ラン、何の音……?」
 部屋をひょこっと覗き込んだ紫色の瞳は、びっくりしたように見開かれた。エノリアはラスメイを振りかえる。
「カイラさんを呼んで来て」
 ラスメイは余計な事を聞かずにこくりと頷いた。エノリアはその間にランを寝台に座らせた。抵抗されるかと思ったが、ランはエノリアの言葉に素直に従った。その隣に座ってランの腕を抑えながら、エノリアはあふれ出てくる言葉を止めるのを止めることにした。
「馬鹿だわ」
 ランは答えない。
「死にたいの?」
 ランはその言葉に少しだけ笑った。自嘲的な、ランに似合わない笑い。エノリアの頭に血が昇った。
「大馬鹿だわ! 呆れるぐらい! 自分の語彙の少なさに情けなくなるわよ、それ以上の罵詈雑言をふっかけてやりたいのに!」
「死にたいわけじゃない」
 ランはそう呟いた。掠れた声に疲れを感じる。エノリアは黙ってランの次の言葉を待った。まだ何か言いたそうだったから。
「試しただけだ」
「試した?」
「……本当に死にたいなら、右腕を……。自分に聞いてみたかったんだ。本当はどうしたかったのか」
 ランの緑色の瞳は薄暗く、いつもの明るい光は一欠けらも見つけられない。いつだったかランの緑色の瞳を見て、綺麗だと思ったことがある。そんなこと嘘のようなランの瞳の色。
 怖かった。
 自分の知らない人が居るみたいだった。だからエノリアは必要以上に声を上げた。
「試した? 試したってだけで、こんなことするの? あんたは、フュンザス家のみんなに迷惑がかかるとおもわないわけ? こんなに床を汚して、そとにだって硝子は飛び散ったし、硝子って安くないのよ?! 誰が掃除するのよ!! 馬鹿だわ!」
 ランは驚いたようにエノリアを見つめ、そして、ゆっくりと笑った。
「ありがとう」
「んじゃないわよっ! あんた言葉間違ってる! 私は怒ってるのよ。ものすごく腹を立てて、呆れてるの。わかってんの?」
「いや、ありがとうであってる」
「はぁ?」
 ランはエノリアの手をやさしく払うと、自分で左腕を押さえた。エノリアは血だらけになった自分の手を見る。しばらくしてカイラとラスメイとミラールが部屋に入ってきたので、自分の席をカイラに譲った。
 ミラールの眉が吊り上り、ラスメイが心配そうにランを見ている中で、エノリアはふんっと顔を逸らす。
「その肩掛け、気に入ってたんだからね。同じ色、見つけなさいよ!!」
 そして自分の部屋に戻って、エノリアは壁に持たれかかった。
 自分の掌を見つめた。ランの血。
『エノリアが心配してるような関係じゃないと思うよ』
 好きな人に出会ったんだと思った。だってあんなに嬉しそうに抱きしめたじゃないの。
(違うの?)
『本当はどうしたかったのか』
 何がそんな顔をさせるの?
 ランの暗い緑色の瞳を思いだし、息をつく。
 エノリアはじっと自分の手を見つめ、そしてようやく体を起こした。すごく重い身体を引きずる様にして、客室に戻る。丁寧に手についた血を備えてあった水瓶の水で洗い流しながら、一つの決心をする。
 その夜、眠りはなかなか訪れてくれなかった。
 

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