>イマルークトップ >HOME
 
IV 交差
 

 昼は華やかな空気に包まれるシャイマルーク城も、夜が更け廊下の蝋燭の灯火が消えそうに揺れる頃には、ひんやりと静かな空気に満たされる。
 シャイマルーク城。その一廓にはシャイマルーク城が建てられたときより設えられた部屋がある。その部屋に代々住むものは決まっていた。
 セアラ=ロック=フォルタニー。伝説として語られる大魔術師の部屋である。彼は420年ものときをその部屋で過ごしてきた。緑の館と呼ばれる城下町の屋敷から、王宮に通うようになったのはここ70年ほどのことであり、彼はずっと王宮の住人であった。
 と、ナキシスは聞いている。灯かりも手にせず、廊下にともされた頼りない蝋燭の光を頼りに、彼女はそこへ向かっていた。薄い金色の髪は結わえることなく彼女の背中で揺れている。
 何故? と自分で自分に問う。同時に愚問だと思った。
 行かねばならないと感じているから。
 では何故? 行かねばならないのか。
 そんなこと、自分ではわからない。だから、会いに行くのだ。
 どうして、その人にこんなにも会いたいと思うのか?
 一寸狂わぬ美貌、人が持つことが許されるはずもないあの空気。
 穏やかな微笑の向こうに、狂おしいほどの冷たい心が隠されていると感じたのは……気のせいだろうか?
 ナキシスは扉の前で足を止めた。その取っ手に手をかけた。
(開いている……)
 王の部屋と劣らずに高級な品で飾られたその部屋に、今その姿はないようだった。
 いない?
 安心したような、がっかりしたような気分になって、ふと視線を廊下の奥にやる。もっと奥の部屋のドアがわずかに開き、ほのかな光が洩れていた。
(あそこは……)
 代々の王の肖像画が飾られた部屋である。普段、何気なく立ち寄って許されるような部屋ではない事を、ナキシスは記憶している。
 その部屋に誰かがいる……。
 おそらく、『彼』だ。
 ナキシスは足音と息を潜めてそれに近づいた。わずかに開いた扉の隙間から部屋の中を覗きこむ。
 4方にぐるりと飾られた沢山の肖像画……。
 天井には慈悲溢れ、目を瞑った創造神《イマルーク》のレリーフがある。デザインとしては王の書斎のものと同じ。ただ、両脇に彼女達がいないだけで。
 その下に彼はいた。ひときわ大きな肖像画の前に立ち、こちらからは横顔が伺える。
 その手に持った燭台の灯火が揺れ、彼の美貌を柔かな光が彩っていた。赤い瞳は、静寂だけをたたえて一点を見つめている。
 ナキシスは息を止めた。
 ……きっと、見てはいけない。あの表情を……。
 その場を立ち去るべきだと思った。
 彼は……死者と対話している。否、自分の記憶の中にいる死者と。
 初代国王・レーヤルーク。セアラが出逢い、共に乱世を治めたという勇者だ。その黒髪と緑色の瞳を、彼はじっと見つめていた。
 瞳にたたえられた静寂を破って、ゆっくりと現れてきたのが、どんな感情なのかナキシスには表現し切れなかった。
 1番近いのは後悔。だが、それが何に向けられた後悔なのか、やはり判別は出来ない。
「500」
 セアラは呟いた。呟きと言っても、ほとんど音にはならなかった。空気が少しだけ震えたというような呟き。ナキシスにその言葉がわかったのは、彼の口元を見つめていたからにすぎない。
「それだけ、耐えた」
 対峙した肖像画の緑の瞳は、ただ明かりの揺れに任せて表情を少しだけ変える。
「……それだけ、待った」
 少しだけ伏せられた瞳。哀しみが宿るかと思われた表情。だが、彼はゆっくりとその唇に笑みを浮かべる。
 凄惨な笑みを。
「光《リア》は蘇らせ、光《リア》は解放し、扉《カイネ》は開かれる……」
 セアラは天井を仰いだ。
「あとは、貴方だけだ……」
 目を瞑ったままの創造神《イマルーク》は、セアラを見つめてはいない。
 セアラの瞳に浮かんだのは、なんだったのだろう? だけど、そのときナキシスは思った。この人は自分と同じなのかもしれない。
 欲しているものは同じなのかもしれない……。
 セアラは、はっと目を見開き振りかえった。赤い瞳と目が合って、ナキシスはこれ以上は無いというほどうろたえた。
「ナキシス?」
 その呼び方が優しかったので、ナキシスは少しだけ安堵した。怒っているわけではなさそうだ。一瞬扉から離れようとしたようだが、観念したように恐る恐る扉を開く。
 少しの隙間から伺うように見つめると、セアラは微笑んだ。
「どうしたんだい? こんな夜更けに……」
 口調は柔らかいのだが、目には何か違う光が宿っているとナキシスは感じていた。
「いえ。失礼いたしました。隙間から光が洩れていたので、誰がいるのだろうと」
 ナキシスは出来るだけ抑揚の無い声でそう言った。セアラは持っている燭台を掲げる。ナキシスからますますはっきりとセアラの顔が見えた。
 赤い瞳はやはり神秘的。ナキシスは遠慮なくその顔を見つめてしまう。非の付け所などあるはずもない美貌。
「だけど……こんなところに何用かな? こちらには私の部屋ぐらいしかないのだけど」
 いたずらっぽく首を傾げるセアラを、ナキシスはずるいと思った。
 この人は全てを知っていて、その言葉を言うのだ。私が何故こんな時間帯にここに来てしまったかも、知っていて……。
「セアラ……様に会いに」
 ナキシスはポツリと呟いた。嘘はつけない。
「何か相談事でもあるのかな? 私に出来ることならして差し上げたいが……。
 婚約者を持つ女性が、このような時間に誰かを訪ねるなど、あまり感心しないよ。
 たとえ、私にでも」
「怒ってらっしゃる?」
「怒ってはいないよ。たしなめているだけだよ」
「いえ、私がセアラ様の時間を……邪魔したことを」
 この部屋にいるセアラは、普段よりも一層遠く感じられた。
「そうだね……。それなら、少しだけ」
 くすりと笑うセアラだったが、やはりその空気は変わらない。人を寄せつけない、いや、人を拒否する空気にナキシスは恐る恐る触れて見る。
「おいで、ナキシス。君も、ゼアルークの妻になるなら見ても良いだろう」
 ゼアルークの妻……。その言葉はナキシスには酷く遠くに感じられた。セアラの口からその言葉を聞くと、酷く辛い。
 だがナキシスはセアラに呼ばれるままに、その部屋に足を踏み入れた。ぐるりと飾られた肖像画。蝋燭の光が揺れるので、はっきりと線は浮きでない。みな瞳は黒に近い緑色で、ただセアラの真正面にある姿だけは、鮮やかな緑色の瞳に見えた。
 黒髪に、精悍な顔。女性的なやさしさを持つゼアルークの美貌を思い出し、それに逞しさを付け加えたらこんな顔になるのかもしれないと、ナキシスは思う。
「レーヤルーク。初代だね」
 セアラはそう呟いて、蝋燭の灯火をその肖像画に当てた。
「会ったころのことも、それから一緒に過ごした時間も……私は覚えているよ。面白い男だった。勇敢で優しく、強くて賢かった。
 イマルークを全て受け継いだような……」
「セアラ様は……創造神《イマルーク》に会ったことがあるのですか?」
 セアラは口元を歪めたが、すぐにその笑みを微笑にかえる。
「いや、おそらくそうだろうという話だね」
 そう言って視線を落とす。唇をわずかに動かして、セアラはこう言った。
「あのとき、終わらせておけば良かったのだ」
 セアラの呟きは、ナキシスへの呟きではないような気がした。独り言だ。独り言を傍らにいるナキシスが勝手に聞いているのだ。
 近くにいるのに、やはり遠い人……。
 ナキシスは彼を見上げた。赤い瞳はなぜか暗い闇《ゼク》を思わせた。その暗さに彼女は一瞬吸いこまれそうな気分になる。
「セアラ様」
 ナキシスは思わず彼の顔に手を伸ばしていた。セアラはその手を振り解こうとせずに、その暗い瞳をナキシスに向ける。
「……触れても……?」
 セアラの瞳が少しだけ揺れて、ナキシスの肩越しに見える床に落とされた。ナキシスはセアラの頬に右手を当てる。赤い瞳はゆっくりと閉じられた。
(存在する)
 この誰の空気をも拒む存在は、触れることが出来る。表面上ならば。
 何故かナキシスが安堵したとき、セアラが不意に顔を動かし、頬に触れているナキシスの掌に唇を押し当てた。不意の行動に、ナキシスは息を呑む。
 セアラの唇が触れたところが、ひどく熱い。
「セアラ、様」
 咄嗟にナキシスは手を引っ込めようとしたが、セアラに手首を掴まれる。セアラは赤い瞳を開き、ナキシスの薄い金色の瞳を見つめた。ナキシスはその視線をはずす事ができなかった。
 セアラの瞳の奥には消えない闇《ゼク》が見える。それを見つめていると時間の感覚も失ってしまう。
 セアラの手が触れている自分の手首も、セアラの唇が触れた自分の掌も、そこだけ切り離された様に熱い……。
 どれくらいの時間がたったのか、ナキシスにはわからなかった。ただ……セアラを見つめていた。
「そろそろ……帰りなさい。ナキシス」
 ふとセアラの手が弛み、ナキシスはゆっくりと腕を下ろした。セアラを呼ぼうと顔を向けると、セアラはくるりと身を翻して、背中を向けた。帰れとその背中で示しているのに逆らって、ナキシスは両腕を伸ばし、その背中を後ろから抱きしめた。
「セアラ様、私は……。私は!」
 堰を切って溢れそうな思いを口に出しても、それ以上の言葉は生まれなかった。
「……当然だよ。ナキシス。それは、幻影だ」
 セアラはそう言うと、身体に回されたナキシスの手に、自分の手を乗せた。そして、ゆっくりとはがす。
「次に来る時は、太陽の昇っているうちに。それならばいくらでも歓迎するよ」
 背中を向けたまま、そういうセアラ。ナキシスはじっと見つめていたが、パタパタと足音を立ててその部屋から去って行ってしまった。
 ナキシスはわからないだろう。光《リア》の塊が遠ざかるのを感じつつ、セアラが溜息と共に落とした言葉の意味を。
「お前は……あるべきところに、戻りたいだけなんだ……」
 

HOMEイマルークを継ぐ者第3話

感想用掲示板感想用メールフォーム