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「やめなさい」
セイの後方から、しみこむような低い声がした。その言葉通りにセイの腕が止まる。エノリアは目を開き、その声の主をセイの肩越しに見ようとした。
恐ろしく綺麗な声は静寂の中の水音。そんな存在感と心地よさがあった。おそらく、1度に十数人が話している環境であっても、その声なら聞き分けることが出来る。
「その人を殺すのはやめなさい。セイ=シャド=レスタ」
エノリアは、セイの表情に微量の揺れを見つけた。彼は剣を下げ、振りかえる。エノリアはセイの顔からその人物へ視線を移した。
穏やかな微笑を浮かべた一人の長身の青年がそこにいた。深い茶色の髪は右肩の部分で軽く結われ、柔かに波打っていた。珍しいことに左目に丸い硝子を嵌めんでいる。その奥で金色に近い茶色の目が、この状況にそぐわぬほど優しく笑んだ。
「彼女を殺しても、何の解決にもならないということを、ゼアルーク王に伝えるといいでしょう」
セイは暫く彼を見つめ、そして、もう揺れのない声で問う。
「何者だ、何故その名前を知っている?」
エノリアは先ほど名前を呼ばれた後のセイの驚きの表情を思い出した。この二人は知り合いではない。知り合いではないのだが、彼はセイの名を知っているのだ。セイの後ろにいる人物……ゼアルーク王のことも。
「名前を知るなど些細なことですよ」
彼はこちらへゆっくりと歩み寄ってきた。長めの衣が地面をそっと滑った。
「私の名前も些細なことです。カイネと……、ゼアルーク王にはそのように」
セイは穏やかな表情を浮かべたままの彼を、自分の記憶を引出すために見つめていた。エノリアもその青年を見つめてしまう。
「カイネ」
確かめるように呟いたセイだったが、その響きはただの繰り返しではなかった。何かを思い出したのだと、エノリアは察する。
カイネ。エノリアも反復してみた。どこかで聞いた覚えのある響きだ。自分の中で『カイネ』と呟いた声は、あの大魔術師の声であった。セアラの涼しい声で、「カイネ」と。
「何故助ける?」
「意味があるからです。彼女の存在には」
彼は穏やかに笑みを浮かべたままそう言った。エノリアは彼を食い入るように見つめる。
(意味)
欲していたのはそれだろうか。すがりたかったのはそれだろうか。知りたいという衝動が走ったが、人に与えられるものではないと言う想いがかろうじて自分の声を抑えた。
「彼女を殺しても、太陽は二つのままなのですよ」
「それでも王の命令だ」
セイはエノリアの腕をつかんだ。つめたい手で、エノリアの白い肌が赤くなるぐらい強く掴む。エノリアの頭の中はその痛みでハッキリしてくる。そして、ようやく自暴自棄になった自分を取り戻せた。
「私にはそれで十分だ」
セイの力強い言葉尻に、エノリアは唇を噛み締めた。自分を掴む掌を見つめ、そして今度は視線を青年へ向ける。彼はにこやかな表情を崩さずに、少しだけ首を傾げた。
「その手を離しなさい、セイ」
彼の言葉に、セイは従うようにエノリアの手を離したのだ。エノリアの心臓はどくりと音を立てた。その穏やかな金色に似た茶色の瞳を見つめる。
そして、彼はセイに近づき、その肩に手を置くと彼の耳元で何かを囁いた。そして、不審そうに見つめているエノリアに視線を投げかけて微笑む。
「え」
彼はエノリアの手を取ると、そのまま誘導するように引っ張った。
「あの……」
「余計なお世話でしょうか?」
「……いいえ、でも」
「なら少しここを離れましょう」
彼の穏やかな雰囲気とは裏腹に、自分の手を握り締め引っ張る力は強引だった。エノリアはセイを振りかえり、彼が背中をこちらに見せたまま立ち尽くしているのを不審に思う。しばらくして、セイは剣を収め、エノリアたちとは逆の方向に歩きはじめたのだった。そのまま、その背中が建物の間に消えて行くのを、夢の世界のように見つめていた。何が起こったのか? 説明を求めて一歩前を歩く青年の背中を見つめた。
エノリアを、彼が振りかえったのはその場を早足で去り、いくつかの角を曲がり、エノリア自身、どこから来たのかわからなくなったときであった。
彼はエノリアを振りかえり、そっと手を離す。エノリアは手を離されると、急いで引っ込めて自分の右手首を握り締めた。
彼はクスリと優しく笑う。それが頭上から聞こえてきて、エノリアは彼を見上げた。
「失礼しましたね。ひとまず彼と離れねばならなかったので」
「今のは何?」
「今の、とは? 強引につれてきてしまったことですか?」
「違うわ」
エノリアは自分が何を1番に聞きたいのか咄嗟に判断できなかった。自分を助けた意味か。彼が自分を太陽の娘《リスタル》と知っていることか。
それとも自分に意味があるといったことか?
しばらくして、エノリアは呟く。
「操ったの?」
頭を整頓しきれずに出した言葉はそれだった。驚きと不安。不安は先ほど彼がセイを操ったのであればきっと自分にも同じことをされるのではないかという不安である。
彼はそれを察し、近くの壁際に寄ると持たれかかった。ちょうど彼の横に木箱がいくつか積んであり、エノリアに座るように進めたが、彼女は首を振った。そして、その質問の答えを待つというように、彼をじぃっと見つめている。彼は、金色の瞳を見つめると、少し首を傾げた。
「……いえ、頼んだのですよ」
その答えは不充分だ。エノリアは少しだけ前に足を踏み出した。
「そうじゃなくて……。私も操るの?」
彼はにっこりと笑った。そして、隣の木箱をぽんぽんと叩く。座れという合図に、エノリアは逆らっていたが、彼がますます微笑むし、答えてくれないので座ることにした。
「私の名前はユセ=ダルト=カイネです」
隣に座った瞬間、自己紹介をされたのでエノリアはぽかんとした顔で彼を見つめていた。
「何?」
「あなたの名前は?」
エノリアは考えながら、彼に首を傾げる。
「さっきの人の名前を知っているのなら、私の名前もわかるんじゃないの?」
「そうですね。でも、私は貴方から教えていただきたいのです。そうしなくては、貴方と同等にはなれません」
「同等?」
ユセはくすりと少しだけ意地悪そうに笑った。
「私に操られたくはないでしょう?」
エノリアはその一言で、白状することにした。
「エノリアよ。エノリア=ルド=ギルニア」
「美しい光ですか。いい名前ですね」
エノリア。美しい光。
その言葉が、エノリアの顔に浮かない表情をつれてくる。それを知ってか知らぬか、彼は真面目な顔でこう言った。
「……そうですね。あなたは二つ名前を持っているようですから。今はそちらがふさわしい」
「二つの名前?」
ユセは頷いた。
「二つの名前です。そう二つも名前を持つものは少ないですから。特殊な響きです。
だけど、今はきっとそちらを名乗った方がよろしいでしょう。もう一つの名前は、貴方には辛すぎる」
エノリアはもう一つの名前を思い出した。
エノリア=フォン=ヴィリスタル。誰にも認められない名前。そう、自分自身でさえも。否、名前ではない……それは、縛る言葉だ。
「そうかもしれないわね」
エノリアはそう言いながら、ユセのほうを向いた。もう警戒心はほとんどなかった。ユセの穏やかな表情と声と雰囲気が、どこかで信じるに足りる人だと判断を下す材料となっていた。
「ユセ……さん。さっき、あの人に何をしたの? 頼んだって言われても。そんなこと信じられないわ」
ユセは穏やかに微笑んだ。
その微笑が、その答えが引き出せないことを物語っている。
それでもエノリアは懇願するような目で彼を見つめた。
そして、また彼に聞こうとしたとき……。
ユセは長い指を一点に向けた。エノリアがその指先を追うと、それは一本の塔をさしていた。
ミラールが教えてくれた、フュンラン城の高い塔。香が封じられているのだと語られた。
彼の言葉と彼から聞き出したい謎。そしてそれを欲する焦りをしばし忘れて、エノリアはその塔を見つめた。
それがどうしたのだろうと心の中で呟いたとき、ユセはもたれかかっていた身体を起こす。
「私は貴方に伝えなくてはならないことがあります。けど、それはここでは伝えられないのです。
彼に伝わるとまずいですから」
そのセリフに眉を寄せたエノリアに、ユセは微笑んだ。
「待っています」
それだけ言って、彼の背中は雑踏に溶けこんで行く。
彼の背中を目で負い、その後は人々の流れを目で追っていた。
カイネと名乗った青年。
理由があるといってくれた青年。
エノリアは無意識にため息をつき、高くなってきた太陽を見上げた。
エノリアは塔が見える方向を頼りに、ふらふらと歩きながらひとまずフュンザス家の前に辿りついた。少しだけ俯き加減の視界に、門にたたずむ一つの影を捉えたとき、それがランだと思った。同時にランだと思ってしまう自分が少しだけ腹立たしかった。
顔を上げて、エノリアは少しだけ息をつく。明らかに失望の溜息だったのだが、それをたたずんでいる本人には知られたくなかった。
無表情な茶色の瞳がエノリアにむけられて、エノリアは一瞬びっくりした。彼にそんな何も含まない表情が出来るとは想わなかったから。
彼はエノリアを確認すると、優しい顔で微笑んだ。
「おかえり」
柔かな声は、自分を慰めようとしているから余計に優しく聞こえる。
エノリアは少し頷いて、笑顔を彼に向ける。
「ただいま、ミラール」
ランはどこにいるの? いつもなら何気なく聞けることを、今のエノリアは口に出すことが出来なかった。 |
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