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◇
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やはりランは困っていた。あの女性が運ばれた館に入り、上機嫌に館の主らしき老婦に迎えられたまではよかったのだ。女性の名前を言うと彼女はしばらく逡巡し、にっこりと笑い部屋に通してくれた。
だがそこには誰もいなかった。
(場所は間違えてないよな……)
扉の側で棒立ちになって、ランは自分の記憶を探った。そう考えながら気が咎めながらも、部屋の中を見まわす。一人住むには十分な広さであるが、住んでいるわりには何か足りない者があるような気もした。
(……勘違いされてるのか、これから案内がきて通してくれるとか? 容態が悪いので会わせられないってことなら、断ってくれたらいいんだけどな……)
ランは部屋の中央に設置されたテーブルに持たれかかり、扉をじっと睨みつける。
(やはり、もう1度聞いてみるか)
と腰を浮かせたとき、扉が静かに開いた。誰か来てくれたことに安堵してランはノックもせずに入ってきた女性を見つめたが、変わって緊張感がランの表情を硬くした。
女性の大きな波を描いた薄茶色の髪は、光を受けて金色にも見えた。少し釣り上がりぎみで赤みのかかった瞳は、猫を思わせる。そして、肩が大きく開き、身体の線を忠実に描く服。長い布を巻きつけたスカートは腰の辺りでようやく止まっているという感じでもあり、くびれた腰が露になっている。
思わずランはその女性を凝視したまま硬直してしまった。こういう格好をしてる女性を、フュンランで見るのは始めてである。
シャイマルークでも……あの界隈でしか見かけない……。「あの」界隈でしか……。
ぐるぐると考えが巡り、明確な結論を出せないランに、彼女は赤く塗った唇を歪めて笑みを見せた。ランは自分の背筋に悪寒が走るのをしっかりと感じ取っていた。
「もう、お帰り?」
一瞬だれに言ってるのかわからずに、ランは口を開いたまま言うべき言葉を見失った。
「やはり、リュザーナでなければいけないかしら?」
ねっとりと絡むような物言いに、ランはやっと顔に不快感を表現できた。
長く細い手を腰に当て、少しランを上目遣いに見る。少し甘えるような視線にランの眉間の皺は深く刻まれる。
「私ではご不満?」
「……不満も何も……」
ランはしばらく眉間に皺を寄せたまま、近づいてくる彼女を見つめる。
「よほどリュザーナにご執心みたい」
近づいてくる彼女をよけようとしたランの腕を、彼女はさっと捕らえる。腕に押しつけられる柔かな感触と鼻腔をつく甘い香に、頭が揺れた気がした。香……はナスカータ原産だろうか……などと関係ないことを必死に頭の中で繰り返す。
「あの……」
ランはこちらを見上げる彼女を見下ろしかけて、ばっと天井に顔を向けた。その角度では、あまりにも露骨に……彼女の胸の谷間が……。
(というよりももしやここはいやしかし……俺は一体どこにいるんだ?)
どうしてか、怒りの含められた金色の瞳が脳裏に浮かび、ますます焦燥感にかられてしまう。
白く細い腕が自分の肩にゆっくりとかけられようとして、ランはそれを阻止するためにも少し早口で言った。
「そんなに近づかなくても、聞こえる! それから俺はリュザーナさんに会いに着たんだ!」
そんなランの意図も彼女に伝わるはずもなく、彼女はランの肩に手を回し、首の後ろで両手を組み合わせた。真正面から見つめられて、ランは彼女を押し留め様としたが、どこを触ってよいものやら手の行き場にも困り、ただただテーブルに手をついて自分が精一杯後ろにのけぞることしかできなかった。
「リュザーナは残念ながら、動けないから休業中なの。怪我をしてしまって……」
擦れた声でそう言いながら息がかかりそうなほど顔を近づけられて、ランは顔を逸らしつつ、叫んだ。
「それは知ってるだから着たんだ!」
「怪我してるのを知っててリュザーナを指名?」
女の声に甘い響きと違うものが含まれた。軽蔑と好奇心の混じった微妙な響き。それに違和感を感じつつ、ランが聞き返す。
「指名?」
「あなた……そういう趣味?」
「しゅみ……?」
ランが何故自分が目をそらしていたかも忘れて、彼女を見下ろした。彼女はきょとんとした顔でランを見つめる。その表情を見るとさきほどまでの彼女とは違う感じがした。
さきほどまでの甘い空気が一気に彼女から消えて行く。そのため多少頭に余裕が出来たランは、彼女の言った意味をじっくりと考えることが出来た。
「しゅみって……」
ひきつるランの表情をしばらく見ていた彼女は、ゆっくりとランの首にかけていた両腕を引っ込める。そして、一歩離れるとさきほどまでの甘ったるい表情が嘘のような顔をして、大きく息をつく。
「客、じゃないんだ? おばさん、また早とちりして……」
呆けているランの顔を見て、彼女はぷっと噴出す。
「まだわからないの?」
ランは髪をかきあげる彼女を見ながら、眉をひそめ……しばらくして口を開いた。小さく囁くような声で。
「ここはもしかして?」
「最後まで言わない方がいいんじゃない? お兄さん、顔真っ赤よ。倒れちゃいそう」
そう言って笑い出す目の前の女性を見つめながら、ランはどうしたらいいかわからずに、口を右手で覆った。自分が今どんな表情をしているのか想像もつかない。が、彼女の目からからかう色が消えて、自分がひどくうろたえていることに気付いた。
「正確には、稽古場ってところかしらね。お兄さん、フュンランの人じゃないのね? 劇は見たことない?」
ふるふるとただ首を横に振るランに、彼女は少し自嘲的な笑みを一瞬だけ見せた。
「じゃ、どうでもいいか」
目の前の女性は扉に近づくと取っ手に手をかけ、引きかけて立ちすくんだままのランを振りかえった。
「いつまでそうしてるの?」
「は?」
「おばさんに話をつけないとね。ちゃんと説明してよ?」
まだ呆然としたままのランに、彼女はまた妖艶に笑って見せる。
「それとも、やっぱり……」
「いや、ちがっ」
「あはははは。かわいいの!」
ランは足早に彼女の開けてくれた扉を潜り抜け、足音を盛大にたてて階下におりると、先ほど受け付けてくれた太りぎみの老婦の前に息も荒く立つ。
老婦はしばらくランの真っ赤な顔を見ていたが、にっこりと笑った。
「やはりリュザーナで無いと、お気に召しませんか?」
「そうじゃなくて、俺はリュザーナさんの様子を伺いにきただけ」
「ですから、リュザーナのご贔屓さんでは?」
「そうじゃなくて、昨日彼女が襲われて」
「ええええ、ですからリュザーナはお相手できないのですよ。説明を中途半端にしたんじゃないのかい? ティヤ」
さきほどまでランと一緒にいた女性の名前らしい、ティヤはまた思い出したように笑い出した。
「いや、だから、なんていうかな、彼女が魔物に襲われて、火《ベイ》を……」
ランは一生懸命になっている自分が情けなくなってきた。引き際を誤って、それでもなんとか説明していると、後ろから天の助けのような声がかけられる。
「困ってるところを見逃したみたいだね」
一瞬救いの声か、とうれしそうに振りかえるランであった。
「お前」
茶色の瞳を笑み(どちらの意味の笑みだかわからなかったが)で微笑ませて、こちらを見る本人の背後に、1番今会いたくない人物を見つけて、ランは再び凍りついた。救いじゃない……。
「……エノリア」
腕を組んでこちらを斜めに見ているエノリアの目が座っている。その目が既視感を感じさせた。
怒った金色の瞳。
「さいてーね、顔が真っ赤よ」
「知ってて教えなかったな!?」
怒りの矛先はミラールに向かったが、ミラールは微笑んでそれを受け流した。
「僕は悪く無いよ、とでも言っておこうかな。一応聞いたよね? 『あそこが何してるところか知ってるの?』って。聞かずに一目散に出ていったのは、ランだよ?」
にっこりと微笑みながら力強くそう言われては、ランも何も言えない。深深と息をつくことさえも、ミラールの笑顔を作ってしまうのだろう。
エノリアのじとりとした視線さえも、諦めて受けることにする。ランが老婦に目を向けて先ほどよりも弱弱しい声でしきりなおそうとした。
「それよりも、説明を……」
しかし老婦はランを見てはいない。ティヤと呼ばれた女性はランとミラールの会話のどさくさに紛れて姿を消していた。推察するに老婦が見つめているのはミラールだろうかと思った瞬間。
「ミラールではないかい? 久しぶりなぁ?」
目の前の老婦が目を輝かせながらミラールに寄っていったのだ。ランとエノリアは目を丸くして見ていた。
ミラールは音楽祭の開かれるフュンランによく顔を出す。そのために彼の顔を知っている人が居てもおかしくない。だからだろうとランは思ったのだが。
「イルアさん。お久しぶりです。お元気でしたか?」
ミラールはそれに親しそうに声をかけたのだった。
ランとエノリアは顔を見合わせ、小さく囁く。エノリアは先ほどまでランを睨みつけていたことも忘れていた。
「何? ミラール、どういうこと?」
「いや……俺もいつもミラールと一緒にフュンランにきてたわけじゃないから……わからないけど……」
実際にミラールについてきたのはここ2年ほどのことだ。それまでにもフュンランに着ていると聞いているし、その間に知り合ったのならランにもよくわからない。
また、ミラールがフュンランに来るたびに、ランがついていってるというわけでもないのだから。
「も、もももしかして、み、見かけによらずミラールって。あ、……見かけによらずとか言ってしまうのはいけないことよね……」
「シャイマルークでは行ったことなかったと思うけどな……こういうとこ」
ぽつりと呟いたランに、エノリアは純粋な疑問を投げかけてしまう。
「シャイマルークにもあるの?」
「あるだろ、大抵こういう大きなところには。人が多いし」
「そ、そうかもしれないけど、なんか……」
そこまで言って、エノリアは、はたと気付いた。
「っていうか、行ったことあるわけ? あんたは」
「……は? ……なんで俺に」
「行ったことあるの?」
「っていうか、今は俺のことはどうでもよくてだ」
「何二人でこそこそしてるの?」
ミラールの顔が間近にあって、二人は飛びあがるように肩を震わせた。こわばった表情に、ミラールは苦笑しながらため息をつく。
「ま、大体何を言ってたかはわかるよ。僕はよく来るよ、ここ」
二人の微妙な表情を楽しみつつ、ミラールは謎の笑みを残して再び老婦のほうへ戻って行った。
「断言したわ」
「もう、いいだろう?」
エノリアは納得の行かないような表情を残していた。消化不良だけど信実を知りたくないとでもいいたそうな顔に、ランはなんとなく苦笑してしまうのだが。
「イルアさん。僕たち昨日の事件に居合わせてたんだ。挨拶もせずに行ったけど、リュザーナさんの怪我の具合が気になってきたんだよ」
「事件に居合わせたとは?」
「彼がリュザーナさんに火《ベイ》を注ぎこんだんだよ」
「そうでしたか!」
と、お礼を言おうとしたイルアの視線が、ランに向けられた。彼女はうれしそうな顔をして近づいてきてランの両手に手を差し伸べた。いきなりのことに戸惑い思わず手を引きかけたランの両手をがっしりと握り締める。
見た年齢から予想される力の数倍の勢いで、ランは一瞬目を白黒させた。
「ありがとうだねぇ。ありがとう、ありがとう」
「い、いや、あの」
ランはその勢いに、さきほどのティヤの場合とは違う理由で身を引きかけて、その背後に扉が開く気配を感じた。
「賑やかなのね。イルアさん」
綺麗な声にランは目を丸くする。イルアの視線がランの肩越しに後ろへ向けられた。
「様子を見に着てくれたのかい」
「ええ、やはり昨日の今日では目が離せないわ。それより、イルアさん。その方は?」
「ほら、リュザーナに応急処置をしてくれてた人がいるって話だっただろう? この方がそうみたいでね」
澄んだ空気と共に人の気配が近づいてくる。
ランは自分が震えていることに気付いた。
似ている。
その優しい声。柔かな高い声。
まさか、こんなところで逢うはずがない。
『ラン』
慈しみの声。
思わず目を細めて微笑んでしまう……声。
「そう、私にもお礼を言わせてくださいな?」
後ろからかかる声に、ランは振り向くことも出来ない。イルアは手を離しているのに。振り向かなくては失礼だ。
だけど。
表情を固めたまま動けないでいるランを、ミラールが不審そうに除きこむ。
「ラン?」
「ランとおっしゃるの?」
ラン。
その響きに微妙な響きがこもっていた。
ランはゆっくりと振り返る。
彼女でなければいい。
彼女でないほうがいい。
1番逢いたくなかった人に、逢ってしまうのか。
(いや……逢いたかった)
逢いたかった……。
振り返り、目に入ったのは美しい黒色の髪。
『そうしていると、お前達、姉弟のようだな』
懐かしい声が頭に蘇って、ランは思わず胸に手を当てた。
驚愕に彩られた、金色の瞳……。
ランは目を細める。
唇が震える。
「…………リア……」
彼女の名前が唇からこぼれた。
「エノーリア……」
彼女の表情は驚愕のまま固まってしまっていて、それが憎しみに変わらないで欲しいと願った。
だからかどうかわからない。
憎悪で見つめられる前に、その表情が見えないように。
彼女を抱き寄せて、抱きしめた。
ふと香がした。……あのときと、同じ香り。
昔、自分を抱きしめてくれた身体は、いつのまにか自分より小さくなってしまっていて、どれくらい時間が経ったのかを思い知らされる。
今では自分が彼女を抱きしめることが出来るのだと、そう思った。
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