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II 封じられた香 |
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たった1年ほどのことだった。
瞳の奥から消えなかった光を、見るのが好きだった。自分をただ1度も見てくれないその視線の先を探る。
貴方は不快な顔をせずにただ目を細めた。
側にいながら孤独を感じさせて……、でもその冷たさが心地よかった。
ここにいてもいいの?
そう小さく聞いたときだけ、少しだけ優しい目をしてくれた。気まぐれに抱きしめてくれた。
時々くれるその優しさが好きだった。
けれども1度も本当に『笑って』くれなかった。
時々思い出す。
あの人は、今なら少しでも笑えているのだろうか?
側に居るあの子を、少しでも愛してくれているんだろうか……?
メロサからフュンランまでは、1日の行程だった。ノーブという小さな町にさしかかったとき、前方で馬を歩かせていたミラールがランを振りかえる。
「ラン、ちょっとさ……」
ミラールは申し訳なさそうに切り出した。
「ん? あ、そっかノーブか。寄る?」
簡単にそう呟くランに、エノリアが顔を向ける。
「ノーブ?」
「い、いいよ。違うんだ、ラン。僕1人で行ってくるから、先に……」
「え、寄るんだろ?」
「皆は先に行っててよ。フュンランまではすぐだしさ」
申し訳なさそうなミラールの表情を見て、エノリアとランは同時に口を開いた。
「別に」「別に」
二人は、嫌そうに顔を合わせる。こういうことが1度あったような気がする……気のせいだといいのだが、と思ったのはどちらだろうか。
「別にいいわよ。そんな1日2日変わるわけじゃないでしょ」
口調がきつくなり、エノリアは思わず口を押えた。そして、こほんと咳払いをするとにっこりと微笑む。
「私もノーブって行ってみたいわ。どんなところなの?」
ノーブ。そこは、メロサと同じく職人の集まる町である。山のふもとにあり、その山で採れる良質の木材から家具などを作り出すのだ。その中でも、良質の楽器を作り出す匠たちが集まっていることでも有名である。
その説明をランから大雑把に聞きながら、エノリアはミラールの後姿を見つめた。
音楽家を目指すミラールが、寄りたがるのは当然と言えば当然だろう。だが理由はそれだけではない気がした。
あのときと同じ感じがした。
オオガへの旅路で、ミラールが自分たちのことを話してくれたときに。
そんな風に思い起こしていると、ランがすっと右手を上げた。
「ノーブだ」
ノーブは小さな町だった。印象は、メロサによく似ている。
工房から木を削り打つ音が響き渡る。人々は忙しそうに目の前を横切る。くぐもった怒声が横切りかけた工房から聞こえ、思わずエノリアは肩を縮める。
「元気ねぇ」
思わず感想を洩らすと、ミラールは少しだけ笑う。そしてある建物を示した。
「あそこで、待っていてくれる? 僕はちょっと行きたいところがあるから」
指し示した建物は、宿と食堂と酒場を兼ねて経営しているところのようだった。ランはその建物に視線をやり、またミラールに返す。
「いいのか? 手伝わなくて」
頷いたミラールにランは短く了承の言葉を口にし、ミラールと三人は別れた。
「両親のこと?」
ミラールの背中を見送りつつ、エノリアはランの服をひっぱる。
「ん?」
「ミラールよ。両親のこと聞きにいったの?」
「どうしてそう思う?」
「笛……にぎりしめてたじゃない……」
心配そうにミラールの向かった方向を振りかえるエノリア。ラスメイも同時に振り返り、そして顔を戻した。
「あの笛、結構いい代物らしいと言っていたな」
ラスメイの呟きに、ランは肯定するように頷いた。
「作った人がわかれば、買った人もわかるかもしれないだろ」
「わからないのね?」
ミラールの事だ、これまで何度もここにきているはずだ。
「……ノーブじゃないのかもな」
ランは低く呟いた。それだけ言うとランは無言で建物に向かう。客を受け入れるように開放されている扉をくぐると、愛想のよい声に迎え入れられる。近くの開いているテーブルを選んだ。
「ランたちは、フュンランにはよく行くの?」
壁に書かれたメニューから飲み物と、軽い食べ物を頼んでいるランにエノリアはそう問いかけた。
ランは注文し終えると、エノリアに向き直る。
「そうだな。1年に1度は音楽祭が開かれるから。そのときにミラールと来るな。とは言っても、俺はここ3年ほどのことだけど」
「私と会ったのも、その音楽祭の帰りだったな。3年前だ」
ラスメイがランから貰った指輪の首飾りを右手でさわりながら、そう言った。
「そうだっけな? そうか……3年か」
食べ物よりも先に着た3人分のお茶を受け取り、エノリアとラスメイの前に置きながらランは何気なく口にする。
「音楽祭以外でも来る事はあるけど。劇の音楽の演奏とか。ま、中々すぐに来られるわけじゃあないからなぁ」
「ああ、そう言えばフュンランには大劇場があったな」
お茶に蜂蜜を少しずついれながら、ラスメイは何気なく口にした。だいげきじょう、という不思議そうなエノリアの呟きにランは気付く。
「劇。見たことあるんだろう?」
と聞いてからランは気まずそうな顔をした。ここ4年ほど、彼女は宮に幽閉されていたのだ。あまりにも無神経な質問だったかもしれない。
「あー……、あると言うよりは、窓から見たかな……、旅芸人だったけど。広場で」
質問よりもランの気まずそうな顔が少しだけしゃくにさわったので、思わず耳を引っ張ってしまった。
「って!」
「そんな顔しないでくれる? 変に気をつかわないでよ」
「だからって耳を引っ張るなよな」
「ごめんなさぁい。なんだか引っ張りやすかったんですもの」
「旅芸人のする劇とはまたちょっと違うんだよ。ま、見なくちゃわからないか」
思わず戦闘態勢に入りかけた二人を制するように、蜂蜜をたっぷりいれたお茶を一口飲んだラスメイが口を出した。
「音楽も数十人の楽団で構成されてな。役者もそれだけを生業としてる人たちが居て……きれいだぞ」
「ラスメイは見た事あるの?」
「フュンランではないけどな。たまにシャイマルークに公演にくる人たちが居るんだ。おばあちゃまと一緒に出かけた事がある。まぁ」
ラスメイは紫色の瞳を懐かしそうに細めた。
「それ1度だけだけどな。おばあちゃまと劇を見たのは。内容はほとんど覚えていない」
「へぇ」
「音楽と歌声と衣装の華やかさに圧倒された事だけ覚えてる。きらきらちかちかして綺麗だったな」
咽が乾いていたのか、よっぽどそのお茶が美味しかったのか、ラスメイはお代わりを頼んだ。
「見てみたいなぁ」
エノリアがそう呟くと、思い出したように顔をランに向けた。
「劇の音楽の演奏って? ミラールが?」
ランは頼んだ小さなクラッカーをつまみながら、エノリアに顔を向ける。
「ああ、フュンランで音楽祭が開かれるって言っただろう? そのとき頼まれた事があって。曲も二つ三つ書いてるはずだけど」
「ミラールって、音楽家の卵だって言ってたけど……」
「十分、やっていける腕も才能も持ってる。まあ、あとは……踏ん切りじゃねぇ?」
ランは手持ち無沙汰に目の前のお茶をスプーンでくるくるとかき混ぜながらそう言った。
「歌って諸国をめぐるか、どこかの貴族のお抱えになるか……。多分、その前にやっておきたい事があるんだろうけど」
ランはそう言って、大きく息をついた。
「本人に聞けよ。俺の予想でしかないんだからな」
「やっておきたいことって、両親探し?」
「まあ、そうだろうけど……って、だから、そういうことはやっぱり本人に聞けよ」
しゃべりすぎたとでも言いたそうに、口をへの字に結んで、ランはお茶に手を伸ばす。それを口に運ぶのをエノリアは成り行きで見つめながら考えごとをしてしまう。
「いいのかなぁ……」
エノリアはランの唇を見つめながら、思わず無意識に呟いた。ランは居心地の悪そうに眉を寄せる。
「何か?」
唇がそう動いて、エノリアははっと我に返った。
「ん、何も。っていうか、あんたを見てたわけじゃないから」
はっきりきっぱり言いきるエノリアに、ランは少しだけ嫌そうな顔をしてカップに唇をつけた。
「ねぇ、あんたにも、将来の夢ってある?」
「夢?」
「これで生計を立てて行こうってことよ」
「なんか、お前が言うといやらしいな」
「いやらしいって何よ!」
「すごく現実的な重みを感じる……」
「だって、あんたもいつまでもセアラのところに居られないでしょう?」
「そんなの、考えたことなかったな」
ランは真顔でポツリと呟いた。
「私もないわ」
エノリアはそう言うと、両腕を伸ばして大きく背筋を伸ばした。
「なーんかね、昔はお父さんの跡を継ぐものだと思ってたわ。姉も離れたところに嫁いでいったし。っていうか、物心ついたときは既に居なかったから」
エノリアはそう言って、力を抜くとゆっくりと腕を下ろした。
「今はこんな旅してるし、どうなるかなんてわかんないけど……。シャイナ見つけてシャイマルークに帰ったら、私どうなるのかなぁなんてね」
エノリアはそう呟いて、頬杖をつく。ラスメイはお代わりをしたお茶に手を伸ばしたまま、エノリアを見つめていた。
「思うのよね……。何も変わらないかもしれないなぁって」
エノリアは自分の髪に手を伸ばした。ランはその手の動きを目で追う。
あのとき、自ら長い金色の髪を断って、誓った彼女の言葉。力強い輝きを思い出して、ランは目を細めた。
「いや、それは」
ランは何か言いかけた。エノリアに見つめられて、その先が言えなくて緑色の目を反らす。
「それはわからないけど……」
「シャイナ、見つけて終りじゃないのよね。少なくとも私には」
エノリアはラスメイに目をむけた。
「ラスメイは、何かある? 夢」
「私は、特に……。でも、いつか兄様と母上と一緒に暮らしたいかな」
ラスメイはそう言うと、夢見るように目を細める。
「思いつかない。それ以外は……」
ランは何か考え込むように自分のあごをさすっていた。
唇が少し動いた。
夢か……と呟いたのだと、エノリアは気付いた。
そう呟きながらも、ランの瞳に浮かんでいるのは諦めという名のもののように思えた。
決して希望に満ちた響きを持って、その言葉を吐き出すことはないだろうとも。
気まずい沈黙をうちやぶるように、エノリアはランとラスメイにフュンランの話の続きを求めた。
そうこうしているうちにミラールが帰ってきて、エノリアの隣に座りながら、3人を見回すようにして微笑んだ。
「ごめん、待たせたね」
いつもと同じ柔かな口調に、エノリアは少しだけ首を振った。とんでもない。いいのよ。だって、大切なことだから。
そのどれもミラールは言わせようとしなかった。ただ、脇に抱えていた楽器を取り出してみせる。
「竪琴?」
「そう、これも頼んでたものなんだ。フュンランに行くなら、ちょっと寄りたいところもあるし……」
「ミラールってなんでも演奏できるの?」
笛は見事な腕前だった。歌は聞いたこと無いけど、上手いらしい。
「僕は、笛と竪琴だけかな。他の弦楽器とかは出来ないんだ。たしなみ程度になら出来るけどね」
「俺よりは上手いな」
ランがそう呟いた。その発言の意味をたっぷり数秒考えこんで、気付いてエノリアが目を丸くする。
「あんた、楽器とか出来るの?!」
「……まぁ。少しだけな」
「意外だわ。楽器って繊細で器用な人にしか演奏できないって思ってた……」
その言葉に、ランの眉が少しだけ吊り上ったが、ふふんと鼻で笑い返す。
「じゃあ、お前には無理だな」
「そんなことで怒ると思った? そうよ、私は楽器に触れたことなんてないわ。でも、歌は好きよ。あんた、歌は?」
エノリアの意地悪そうな目を受けて、ランは軽く舌打ちをした。
「聞くな」
「下手なんだ!」
にんまりとうれしそうに目を細めて笑いながらそう言うエノリアからランは顔をそらした。
「聞かない方がいいよ」
にっこりと笑うミラール。天を仰いで笑うエノリアに、ランは憮然とした顔をしてしまう。
「行くぞ」
いつまでも笑っているエノリアを置いて、ランは先に進み始めた。
「ラスメイは、ランの歌聞いたことある?」
「聞かない方がいいぞ」
ラスメイの意地悪そうな声を受けて、ランはますます仏頂面になってしまった。ひょいとその顔をミラールが覗きこんだ。
「少し、はずすぐらいだよね」
「うるさい!」
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