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◇
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逃げて、と叫んだ。そこは危ないから逃げてと。
助けようと駆け寄ろうとして、何かにぶつかった。そこから先に進めない。
じっとりと焦りだけがつのっていく。
逃げて。
駆け寄れない。近寄れない。遠すぎる。
助けるには遠すぎる。
逃げて。
「逃げて、お兄ちゃん!!」
自分の叫び声で、ラスメイは目を覚ました。しっかりと開かれた瞳に、天井に向けた自分の掌がぼやけて映っている。
ぱたりとその手を落とし、そして、自分の顔を両掌で覆った。
隣の寝台で眠っているエノリアを起こしたくなくて、ラスメイはうつぶせになり、枕に顔を押しつけた。そうしないと、泣き声が洩れてしまうから。
「おばあちゃま……。ラシータを守って下さい……」
最愛の肉親。黒髪と青紫の瞳を思い出して、ラスメイは必死に願った。
ここ、カタデイナーゼの屋敷にて水鏡で兄と交信した。
そのとき言われたことが、ずっと気になっている。
『父上が、引退することになったよ』
今のキャニルス家で父の跡を継ぐのは、まぎれもなく兄だ。実力主義のシャイマルーク国下では、母の身分など関係ない……。『ほんさい』の子供だろうが、そうじゃない子供だろうが。
だが……。あのろくでもない義姉たちが黙ってるわけないのだ。とくに、長姉が。プライドばかり高い下級水魔術師《ルシタ》!
兄と母のために家を出た。離れることを選んだ。
祈る事しか、できない……。
きっと大丈夫だって思っても、ラシータなら大丈夫だと思っても、ただの夢だと思っても……。
自分が闇魔術師《ゼクタ》で有る限り、『ただの夢』とはいえないかもしれないから。
「ラシータ……」
そのとき、ふわりと自分の頭を覆うものがあった。優しく少しだけ甘い香りがして、ラスメイは弾かれた様に振りかえる。
驚いた様に見開かれた瞳が目に入った。その色がまぶしくて、一瞬ラスメイは目を細めた。
「エノ……リア」
「ごめん。驚かせた?」
うつぶせになり、少しだけ体を起こした自分に覆い被さる様にして、エノリアはこちらを覗き込んでいた。そして、少しだけ笑った。
「起きてたのか」
ラスメイは自分の声が震えていることに、驚いた。
気付かないで欲しい。泣いていたことも、エノリアが心配してくれてることが、少しだけうれしい事も……。
「起きてたってわけじゃないけど……。最近、朝になるとすぐに目が覚めるのよ。うつらうつらとしていたの」
ということは、自分の最初の叫び声が、エノリアを完全に起こしてしまったのだろうか。ラスメイはゆっくりと体を仰向けにする。エノリアは体を起こして、寝台の側の椅子に座った。
「ごめん。起こした」
「謝ることないわよ。だけど……」
何かを問い掛けるような瞳に、ラスメイは曖昧に笑ってしまう。その表情は年齢以上に大人じみていて、エノリアの心をぐっと抑えつけた。
「言えない、か」
「……うん」
「聞かないほうがいいのかな? でもね、ラスメイ、言ってしまった方が楽なこともあると思うのよね」
それでも、ラスメイは黙っていた。エノリアは小さく息を洩らすと、ラスメイの頭に手を置く。驚いた様に目を見開くラスメイに、エノリアはいじわるそうに微笑んだ。
「ちょっとは、年上らしいことさせてくれる?」
そう言って、エノリアはぽんぽんとラスメイの頭を撫でると、毛布をラスメイの首まできちんとかけなおした。
その感覚を、ラスメイは懐かしく感じる。母が、よくやってくれたことだった。半分眠りかけた自分に、きちんと毛布をかけなおす。睫毛の間から見えた母の顔は、すごくすごく優しかった。
「母上、みたい」
「そんなに大人っぽい?」
くすりと笑って、エノリアはラスメイの胸の上に手のひらを置いた。そして、等間隔にゆっくりと叩き出した。
「もう少し、眠ったら?」
「怖い夢を……見るんだ……」
無意識に泣きそうに潤んだ紫色の瞳を、エノリアは優しく受け止める。
「大丈夫」
エノリアは力強く笑う。
「大丈夫よ。側にいるから」
ぽんぽんと自分を叩くその掌の優しい感覚を追いながら、ラスメイは目を閉じた。
先ほどとは信じられないほど安らいだ感覚がやってきて、そのまま眠りの底に落ちて行く。
そんなラスメイを見つめながら、エノリアはそっと息をついた。
「ラシータ……」
金色の瞳を細めて、そして、ラスメイの額にそっと手を置いた。
「お兄さん……か」
次に目が覚めたとき、エノリアは側に居なかった。ラスメイは、もそもそと起きあがって、窓から指し込む光の角度で時間を知る。いつもよりも寝過ぎた。
だけど気分はすがすがしい。あの夢を見なかった分少しだけ、気持ちが軽くなっていた。
近くの椅子にかけていた着替えに袖を通し、彼女は部屋を見まわした。調度品はどれも高級。着替えをかけていた椅子も美しい布をたっぷりと使い、磨きこまれた木目が美しい代物だ。
彼女達はまだメロサに居た。ここは、メロサーデの屋敷である。カタデイキールの葬儀に参列し、次の日に帰るとカタデイナーゼには告げていた。カタデイナーゼは心なしか、葬儀に参列すると言う言葉に、ほっとした顔をしていた……。
ランは宿に泊まると主張していたのだが、最後の一泊ぐらいはお世話になってもいいんじゃないかと3人に押しきられては、それ以上拒む理由も無かったらしい。
ラスメイは重厚な扉を押し開ける。おそらく居間にいるのだろうとパタパタとスリッパを引きずって歩いて行った。
予想通り、居間には人影があった。だが、それは一つ。ミラールの茶色の髪を見て、何故かラスメイは安堵の息を洩らした。
あの時、倒れてしまったミラールに、《ジュラ》のことを聞いてみた。が、そんなことは覚えてないと言うのだ。とにかくミラールが元気になったことだけは、喜ばなくてはならないのだろうけど。
もう一つ、ラスメイにはミラールに関して心配なことがあった。自分の気のせいではないだろう。ランやエノリアも既に気付いているかもしれない。そうでなくともすぐに気づくだろう。
書物を開いていたミラールは、ラスメイの気配にすぐ気付き顔を上げる。笑顔を向けられて、ラスメイはミラールの側にまで寄って行った。挨拶を交わし、ラスメイは自然に示された彼の横に座る。
そこから、ミラールの手に古ぼけた本が納められているのに気付く。
「何を読んでる?」
「うん……。カタデイナーゼの名の由来をね、探してるんだよ」
聞いた途端にラスメイは少しだけ吹きだしてしまった。それを見て、ミラールはくすりと笑う。
「ラスメイに聞けば早かったね。だけどその名前、他の所でも聞いたことがある気がして……」
「カタデイキールとカタデイナーゼだろう? その裏の意味を知ってわざと対につけたとしたら……随分残酷な名前だな」
ラスメイはそう呟くと、ミラールの読んでいる本の表紙を見せてもらう。精霊語が並べてある本であった。あまり一般家庭においてあるようなものではなく、学術的意味の強い代物だ。
メロサーデ家にあったということは、さすが旧家と言うべきか。
だが、しばらく誰も手に取っていなかったことを、うっすらと残った埃から察せられた。ミラールが手に取りすこし払ったぐらいでは、払いきれない埃をかぶっていたということだろう。
「読むべきは、『童話』なんだ」
「童話?」
「双子のお姫様の話だ」
ラスメイはそう呟くと、少しだけ思い出す様に瞳を天井に向けた。
「あ、待って、ラスメイ何も食べてないだろう? 朝食は終ったけど、軽いものならあるはずだよ。持ってくるから」
「ありがとう。そう、エノリアとランは?」
「二人なら、買い物」
そう言いながら、ミラールは勝手知ったるといったように居間を出ていってしまった。しばらくして、クッキーやクラッカーに果物、お茶を両手に持って帰ってきた。
自分で用意したのか、それとも用意してもらったものか……。楽しそうにお茶を差し出す姿を見れば、お茶だけはミラールが入れたものかもしれない。茶の香りの高さを確認して、それは確信に変わった。
さくっとクッキーを噛み、お茶を飲むラスメイの姿をミラールはにこにことして見ている。
「ミラールって、人が物食べてるの見るの好きなのか?」
「正確には、自分が用意したものをだよ」
案外、料理人とか向いているんじゃないのかなどと思いつつも、ラスメイは先ほどまで話していたことを思い出した。
「ああ、童話の話だったな。とは、言ってもカタデイナーゼもカタデイキールも、花の名前なんだ」
「ああ、だからね……」
カタデイナーゼの容姿から言って、その名の由来が花の名前とは……。
「カタデイキールは、ほら……あの森で咲いてた黄色い花だ」
ミラールは倒れたときのことを覚えていないから、もっとはっきりと言っても良いのだろうが……。あの時の悲しみが伝わってくるようで、ラスメイは曖昧に誤魔化した。
「一輪の歓喜……だったかな……。一つの歓喜。そういう意味だったと思うな」
「あの花、シャイマルークでは見たことがないね」
「気候の変化に敏感な花だよ。カタデイナーゼもカタデイキールもね。なかなか見つけることが出来ないらしい。いや、これは、カミューさんから聞いた話だが。あ、彼、植物好きなんだ」
カミューとはラスメイの執事のことだ。ラスメイの屋敷を彩る見事な花々は、カミューが大々的に管理しているのかもしれない。
「カタデイナーゼは、一輪の悲哀かな? 悲愴とかそういう名前。まあ、意味なんてほとんど知られてないから、『花の名前』ってのがレイの頭にはあるんだと思うけど」
「悲哀……」
「《ナーゼ》。《ナゼ》この辺りか。悲しみとかそういう意味を示す。赤い花だ。真っ赤で、まるであたり一面が血に染まったかのように見えると言う。
まあ、これも珍しい花で……どこにあるとかいう話は聞いたことがない」
「その花の名前自体が、童話に?」
「その花の名前が、童話から取られてるんだ。昔、双子のお姫様がいた。一人はキールリア。もう一人はナーゼリア。
《歓喜》と《悲哀》の名を持つ美しい姫君だった」
「リアって……光? 《歓喜の光》ってこと?」
「う……ん。そうだな。でも、まあ、カタデイナーゼをナーゼと呼ぶようなもんで、キールとナーゼって呼ばれてた……んじゃないかと思ってる。
いや、あくまでも童話だから。深く考えなかったな」
ラスメイはそう言うと、頭の中を探った。母が話してくれた童話である。ただ、書物にはいくら探しても載ってなかったような気がする……。
口伝、だったのだろうか? ミラールが聞いたことがあるということは、そう珍しいものでもないのだろうけど……。
「キールとナーゼは、とてもかわいらしい姫君だった。違うのは、瞳の色と髪の色だけ。あとはそっくりで、みなに同じように可愛がられていた。
それで……そうそう、王子様が現れるんだよ。黒髪の美しい王子様は、キールを愛する。
いつも同じだけの愛情を与えられていたのに、その王子様の愛情だけは、ナーゼには与えられることがなかった。
ナーゼは初めて苦しみとか悲しみを知る。嫉妬と憎しみを知って……それから……」
ミラールは神妙な面持ちで、少女の語る童話を聞いていた。ラスメイはお茶を一口飲み込むと、トントンとこめかみを指で叩く。
「それから……。そう! キールは王子様のお嫁さんになって、国を出ることになったんだ。
結婚式の前の日、最後だからとナーゼはキールを花畑へ散歩に誘う。そこで、キールを殺してしまうんだ」
ミラールが微かに眉を寄せた。
「で? ナーゼは」
「そう、ナーゼはキールを殺して、そしてやっとキールへの深い愛情を思い出すんだ。
ナーゼは泣きながら、キールを殺したナイフで自分の命も絶つ。
キールが死んだ場所には、黄色い小さな花が沢山咲いていた。
そして、ナーゼが死んだ場所の花はその血の色で赤く染まってたんだ。
それから、カタデイキールとカタデイナーゼと花に名前がつけられたんだ。そういう由来」
「面白いね」
「面白い? そうか?」
「童話というのは生まれる原因があるって、セアラが言ってたのを思い出したんだよ。
昔作られた話のはずなのに、忌まれる双子が姫様として出てくるよね?
まあ、姫様や王子様という役割が、この話が伝わる途中で付けられたとしても、双子の話が童話としてあるってのに、興味があるなぁ。
今はそうでもないけど、昔は双子の片割れは容赦無く殺されたっていうから」
「ふぅん」
ラスメイは目を輝かせて、ミラールを見つめている。
「それに……。
あ、こんな話、つまらなくないかな?」
「いや。続けて」
「キールの死んだ跡には血がなくて、ナーゼの死んだ跡は血に染まってる……。ささいなことかもしれないけど。
って、考えてたらきりがないよね。やめるよ」
「ふぅん……。そこまで考えるんだ……」
キラキラとした目で自分を見つめる少女にミラールはにっこりと微笑むと、そのまま何か考えこむように黙ってしまった。
ラスメイは、ふーっと息を吐くと、座っていたソファの背にもたれる。それで、自分が身を乗り出していたことを思い出した。
母から聞いた童話をいくつか思い出しながら、思い立ったように顔を上げた。
「どうしたの?」
「うん、いいこと思いついた」
キラキラと目を輝かせて、ラスメイは立ちあがった。
「ちょっと貰ってくる!」
何を? と聞く隙も与えずに、ラスメイは駆け出してしまった。その小さな足音を聞きながらミラールはくすりと笑い、手元の本に視線を落とした。
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