ほんの数日だけ。
キールはエノリアとランを残した部屋を出て、待っていたカタデイナーゼと二人だけで向き合う。まだ暗い悲しい目をしていた兄に、キールは微笑んで見せた。
作った笑顔に、兄は眉をひそめる。
(ほんの数日だけ、一緒に遊んだ日がある)
ここにつれてこられて、しばらくしてナーミと出会った。ナーミはカタデイナーゼを連れてまたやってきた。
『誰にも見つからなかったよ』
何かの遊びの様に、上気させた顔でカタデイナーゼはそう言った。覚えている。
ここに来る事を見つかってはいけない。
その言葉は、自分の存在が知られてはいけないという意味だった。それぐらい、すぐにわかったことだった。だけど、そのときは嬉しかった。
ただ、誰かとここで、一緒に過ごせることだけが、頭を埋め尽くしていて……。
「キール」
泣きそうな顔で名を呼ぶカタデイナーゼ。キールはふうっと息をついた。
夢から覚めてしまえば、
どんな思いもただの夢。
「……楽しかった」
母にここに連れてこられたのは、12才のころ。もう、1人でも暮らせるだろうと。
そう、1人で暮らすことはできた。そんな幼子じゃない。だけど孤独は……。孤独はいつだってつらい……。
夜中に母に会いに町にいっても、会えるのは母だけ。その会える時間も回数もどんどん減っていって……母はいなくなった。
この森につれてこられたのは、母に会うためだった。その母がいなくなれば、この森にいる理由は無くなって自分はここから出ればよかった。誰も止めない。この町よりも遠いところで、生きていくことも出来た。
「ずっと待ってただけだけど」
あの少女に出会ったから。
金色の波。水色の空。
「楽しかったよ……ナーゼ」
「キール! 帰ろう!」
カタデイナーゼの差し出した手を、じっと見つめる。そして、ナーゼの顔を見つめた。
自分とそっくりの顔。そこには、強い意志があり、強い力がある。
自分にその意思の強さが一欠けらでもあれば。もっと早く決断して、間に合ったのかもしれない。
何故だろう。どうして、その差し出された手が、怖いのだろう?それは、ずっと欲しかったものなのに。待ってたものなのに……。
「どうして今更?」
首を振った。その手を握り締めたい。
「もういい! 難しいこと考えてたって仕方ないんだ。俺が守る」
「もう、帰れない。ナーゼ」
カタデイナーゼの真剣な目は、自分には強すぎる。その手の暖かさも、もう、哀しすぎる。
「無茶だよ……」
「でも、俺にはそういうことしか出来ない。もっと早く、そうしてればよかったんだ。もっと、早く……。
許してほしい」
「……ナーゼ」
兄の顔を精一杯見つめて、唇をゆがめた。
きちんと笑顔になっているだろうか?
笑って見せる。
「もう、遅いんだ」
最期だから、笑ってみせる……。
「僕はね、もう、居ないんだよ」
最後の一体の人形を手に持って、微笑んだ。
「僕の、存在なんて、もう、ここにはないんだ」
白い手から離れた人形が、床に落ちていく。
陶器で作られた人形の身体が粉々に砕け、床に白い残骸が散らばった。
「さようなら……ナーゼ」
「どういうことだよ」
返答はできなかった。ただ、もう諦めた。あの場所に帰って、そして終ろう。
自分の身体から急速に力が抜けていく。
終るんだ。今度こそ。
「言ったよね。『待ちきれなかった』って」
その言葉がちゃんと言えたのかも疑問で、目の前の兄の顔がもう見えなくなっていた。見開かれた茶色の瞳が、脳裏に焼きついた。
「間に合わなかった……」
ナーミ。ナーゼ。
君達に再び会うためだけに、ここに居たんだ。
夢のような7日間。でも、それは壊された。
大人によって……。カタデイナーゼと自分の父親の乱入によって。
腕を引っ張られて追いたてられる二人を見てる自分は、どんな顔をしていただろうか。
一瞬振りかえったナーミの口が少し動いた。
それが自分の名前を呼んだのだと気付いたとき、目の前には誰もいなくて……。
ただ、もう一度その声を聞きたいと願った。
(聞きたい)
自分の名前を呼ぶ優しい響き。そこには、他の感情は込められてなかった。
侮蔑も嫌悪も冷たさも……。
でも、もう……遅い。
堅く閉じた瞳を開ければ、そこは一面黄色の世界。思わず開けた口から、感嘆の息が洩れた。
ナーミは辺りを見まわした。黄色の花達で敷き詰められた見事な花畑。
この花は……キールがくれた花束の花。
【一輪の歓喜】。
キールの名前と同じ花。
『カタデイキール』。
その場に膝をつき、敷き詰められた黄色い花に手を伸ばす。ナーミの長い髪が、黄色い花に振りかかり、まるでその花畑に溶け込んでいるようにも見えた。
ラスメイとミラールはこの光景に、正直言って驚いていた。ナーミとそっくりな闇《ゼク》の女性。それだけでも、驚いているのに、つれてきたところが……花畑とは。
そして、ラスメイは、何かに気付いた様に顔を上げた。
「どうしたの?」
「この香」
花から立ち上る、甘い香りに覚えがあって、ラスメイは少しだけ首を傾げた。
「どこかで」
「僕に心当たりは……ないけど」
ラスメイは何か引っかかったものを感じながらも、ナーミとその闇《ゼク》を持つ者を見守っていた。
「キール、ね」
ナーミは呟いて、その場に立っている女を振りかえった。
「キールと貴方は関係あるんでしょ」
彼女は自分を覆っていた布を、すぅっと足元に落とす。ナーミと髪の色は違うけど、そっくりなその容姿をさらして、頷いた。
「キール様の望みから生まれたのが私。……わかりますよね、このことの指す意味が」
彼女の瞳はあくまで静かだった。ただ、その奥に秘められた熱いものに、ナーミは気付いているのだろうか。
ナーミは立ちあがり、彼女を見つめる。
風が渡り、ナーミと彼女の髪をさらった。長い髪は波のようにゆれ、光打つその金の髪を、彼女はじっと見つめている。
「キール様はずっと、貴方を待っていましたよ……」
「……え、え」
「私が伝えたいのはそれだけです……。そして、ここを貴方に見せてあげたかった。キール様の変わりに」
ナーミは彼女を見つめている。自分と同じ顔。だけど、その雰囲気はまったく異なっていた。光《リア》と闇《ゼク》の対称とかではなく……。
「貴方にこの花を贈りたかったんです。約束を破って、森を出て、貴方に会いに行くから。貴方に、喜んでもらいたかったから」
ナーミが目を見開くのを見て、彼女は悲しく笑った。
「キールは森を?」
「だけど、出来なくなった……。そうして、私は生まれました。彼の悲痛なほどの望みから」
「出来なくなったって……」
ナーミがうつろに言葉を紡ぐと、彼女はラスメイの方を向いた。
「かなりの闇《ゼク》の魔術を使えるとお見受けしますが」
「……まあ、上級程度は」
「闇《ゼク》の最大の魔術をご存知ですよね……」
ラスメイはこっくりと頷いた。
目を瞬かせて、そして、小さく呟く。
「魂を扱うこと……。死者の復活だ」
ナーミが弾かれた様にラスメイを見つめ、そして、ラスメイはその目を避ける様にうつむいた。
「貴方は、気付いていたんじゃないですか?」
彼女は淡々と紡ぐ。
「『醜い者』ごらんになったんでしょう?」
ラスメイはきゅっと拳を握り締めた。あのとき、カタデイナーゼと一緒に『醜い者』を見たときに感じた違和感を思い出す。気のせいとするには……あまりにも純粋過ぎて。
だが、その真実をつきつけるには、あまりにも辛すぎて。
ナーミの視線が悲しい。
「キールは?」
ナーミが喘ぐ様に言った。ラスメイが視線を落としたまま、耐えるように拳を握り締める。
「キールは……」
「貴方達が魔物と呼ぶ存在に、ここで」
彼女はナーミの肩越しの風景を見つめた。夢のような黄色い世界。甘い香立ち上るこの柔らかな空気の中で。
一点だけ赤色が広がっていた。
「殺されました」
彼女は小さく呟く。
「ここは、すでに結界の外です……」
ナーミがその場にしゃがみこんでしまうのを、彼女はじっと見下ろしていた。ラスメイが小さく拳を握り締める。耐えるように唇を噛み締め、空を睨みつけていた。
「もう、おしまい……」
彼女は空を仰ぎながら、そう呟いた。
「キール様が、終ることを望んでいるから、もうおしまいです……」
彼女は、座りこんだナーミの肩に手を置いて、そして、一点を指し示す。
「あのほとり」
何を言っているのかわからないという顔で見上げるナーミに、彼女は微笑んだ。
「見ていただけます?」
ナーミは振りかえった。彼女がナーミを支えて立たせる。見つめる先に、うっすらと陽炎の様に立ち上る人影。
ラスメイが小さく息を呑む。ミラールが目を見開いた。
うっすらと浮かんだ人影に、ナーミの水色の瞳が見開かれる。
「キール……?」
もう何年も会ってない。だけど、その姿は……。
うっすらと浮かんだ人影は、ゆっくりとこちらを振りかえった。その目が微笑む。その輪郭が徐々に薄れて行く。ナーミは身を乗り出した。
「キール」
消えてしまうその姿に、ありったけの声で呼ぶ。その名を呼ぶ。駆け出したナーミを闇《ゼク》の者は止めなかった。彼女の伸ばした手は、決して届かないことを知っているから。
声がする……。
薄れて行く意識の中、一生懸命、それを探った。
僕の名前を呼ぶ声。
『キール』
終りかけた僕の意識の底で、金色と水色の光《リア》が浮き上がった。
(そうか……。これだ……。僕の願いは)
彼女の側に。
彼女の側で、もう一度名前を呼ばれること。
それが僕の『シアワセ』だった。
本当に、望むものだった……。
ナーミの手が空を切る。
もう触れることはできない。抱きしめることもできない。
ただその名を呼ぶことしかできなかった。
キールの身体がキラキラと光りながら、その場所に埋もれて行く。
それをじっと見つめる闇《ゼク》の者の瞳がすっと伏せられた。
「そして、願いはかなえられました……」
小さく呟いた闇《ゼク》の者を、ラスメイは振りかえる。彼女の輪郭もまた、淡く空気に溶け込んで行きそうだった。
「本当の願いが叶えば、それで終り」
彼女は微笑んだ。
「本当の願いが叶えば?」
「……ライラ、ザクー……」
「ライラ……!?」
「私達は、そのために生まれるのです」
「どういうことだ?」
彼女は目を細めた。その場に膝をつき、ラスメイの紫の瞳と視線の高さを同じにする。
「貴方には話せそうですね。闇《ゼク》の愛し子……」
ラスメイはじっと彼女を見つめていた。後ろでミラールが見守るのも気にせずに、彼女は言葉を紡ぐ。
「……《ジュラ》は《ラー》となる。人の心、人の願い、人の強い思いによって。それは、《シスタ》から生まれるもの」
「【願い】」
「強い《シスタ》」
彼女は少しだけ目を細めた。
「……かなえられれば、源はなくなる。そういうことです……」
「……どうして……私に」
言いかけてラスメイが目を上げると、彼女の微笑が薄く溶けて行く。その疑問に答えずに、唇を開いた。
「一つだけ、伝言を」
「何」
「キール様の本当の願いは……、求めた『シアワセ』は、『ナーミに名を呼ばれること』だったと」
紫色の瞳と茶色の瞳が驚いた様に見開かれ、色鮮やかになるのを、彼女は微笑みながら見つめていた。
「わざわざ魂の戻る場所に連れてきて、名を呼ばせたのか?」
「そうです」
「何故! それならば、二人を合わせなければよかったんじゃないのか? そうすれば、お前は……」
「私の名は、ナミ……覚えていてください。闇《ゼク》の愛し子」
彼女は満足そうに微笑んだ。ラスメイの紫色の瞳に、哀しみと困惑が生まれる。
「それで、いいんです。私は、キール様と共に逝きたい」
「わ……からない! お前は魔物じゃないのか? 人を襲い、人の命を奪う! 違うのか?」
どうして、そんな望みを持つのだ。
どうして、そんな悲しい望みを!
「私だって……1人で生きたくない」
「《ジュラ》ってなんだ? どうしてそれが今ごろ出来るんだ? まだ、聞きたいことがっ!」
ラスメイが伸ばした指をすりぬけて、彼女の輪郭は薄れて行く。
満足そうな瞳に、ラスメイの目は釘づけになった。
消え去ってしまったナミの向こうに、残った空の青さに眼を細めて、手を下ろす。
頭の中が無性に熱くなっていた。混乱とかそういうものだったのかもしれない。その混乱した思考に入りこんでくる呟きがあった。
「ジュラは【種】……ラーは……」
ミラールのそれにラスメイは振りかえった。大きく見開かれた茶色の双眸を、不審な思いで見つめる。
「ミラール、その言葉の意味を知ってるの……か……?」
彼の身体がその場に崩れ落ちるのが同時だった。ラスメイが小さく悲鳴を上げ、崩れ落ちたミラールの顔に小さな手をやる。
「ミラール? ミラール!!」
視線を回りにはせた。キールの消えたあたりで立ち尽くすナーミにありったけの声で叫ぶ。
「ミラールが!」
青白い顔に手を置けば、ひんやりと冷たくて、それがラスメイをもっと不安にさせた。
『セアラ、それは何?』
『ミラール。起きてたのかい?』
『綺麗だねぇ。ヒモを通して首飾りにするの?』
『何に見える? ミラール』
『宝石じゃないの?』
『《ジュラ》だよ』
『ジュラ?』
『……ミラールはまだ知らなくていいんだよ。さあ、ベッドにお戻り。眠りなさい……そして忘れるがいい……』
『その時が、来るまで』
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