そのとき公園に通じる裏通りが、急に騒がしくなった。そのざわめきと同時に届いた、ある一種の緊張感にナーミは目を見開いて腰を上げかけた。すると、目の前を一人の青年が通り過ぎていく。
「カドレーイ!」
呼ばれて青年は振り返った。右手に長い棒を持って、その顔は興奮で上気している。
「ナーミ様」
「何があったのです?」
「森に犯人がいるって! 攫ってた」
ナーミの表情が凍りついたのに気付く様子もなく、青年は言葉をたどたどしく続ける。
「なんか、若様が見つけたとかなんとかで! 様子が変だったから、みんなこれは犯人だろうって。大騒ぎっすよ!」
興奮の隠せない青年とは裏腹に、ナーミの顔は真っ青になっていった。
「駄目よ……」
ナーミは若者に叫ぶ様に言った。きょとんと目を丸くする青年に、ただ必死にナーミは告げた。
「駄目! 森は駄目よ! みんなを止めて!」
ナーミは分宮《アル》に飛びこんだ。そして、しばらくすると呆然とする二人の前を走って通りすぎて行く。
「ナーミ!」
「みんなを止める!」
ミラールとラスメイは反射的に彼女の背中を追った。長い裾を両手でたくし上げて、ナーミは森に向かって走る。
公園から森へ行く道は、人々の妙な熱気とざわめきに溢れていた。
「帰りなさい!」
ナーミは声を絞り出し、武器になりそうなものを手にとった人達へ叫んだ。
「戻りなさい! あとは、分宮《アル》が受ける!」
ナーミの声がどこまで届いたのだろう。ナーミの後ろをついて走りながら、ラスメイとミラールは冷静に町の人々を観察することが出来た。ナーミの声を聞いて、武器を下ろすものもいるが、興奮さめやらず、声が届いていないものもいる。
ざわめく人々の間を駆けぬけて行くナーミを追って、二人は森の手前までやってきた。既に森の前に集まっていた、十数名の人々の視線がナーミの姿を捉えた。
「ナーミ様!」
「今すぐ帰りなさい」
荒く息を繰り返しながらも、ナーミははっきりとそう言った。森を背中にして、人々の前に立ちふさがる。
「ここから先は、私が引き受けます。どうして、カタデイナーゼ様が森に入ったのか、そして森に何があるのか、私がきちんと話を聞いて、貴方達に伝えます」
胸の前で握り締めるナーミの手が震えているのを、誰か気付いただろうか?
ミラールとラスメイはナーミから少し離れたところで、彼女と町の人々を見つめていた。冷静な瞳は、一つも見当たらない。冷静に観察している自分達の周りだけ、空気の密度が違う。
「森に何があるだって?」
人々の間から声が上がった。
「あいつがいるのさ! あいつが攫ってるんだろうさ! だから、カタデイナーゼ様は中に入って行ったんだ」
「そうだよ。絶対にあいつだよ」
「前から変な奴だと思ってたんだよ!」
「いい人形を作るから、みんな騙されてたのさ。食べ物売ったりしてやらなければ良かったよっ」
「……気味の悪い仮面をかぶってねぇ……。夜にしか出てこないなんて変よ」
「追い出さなくちゃ駄目だ!」
「あいつが攫ってるんだろう?」
「カタデイナーゼ様を助けに行かなくては!」
口々に話し出した人々の熱気は一層高まって行く。じりっと動き出した人々の群れに向かって、ナーミは両腕を広げた。
「違う」
熱気に押されながらも、ナーミは毅然と顔を上げる。
「違うのよ!」
「ナーミ様」
人々の目には、じわじわとナーミへの不信感が表れてくる。巫女《アルデ》として尊敬の念を向けられることに慣れているナーミには、その目は知らないもののように見えた。
「ナーミ様。かばうんですか」
「絶対おかしいじゃないですか! じゃあ、何故、カタデイナーゼ様が森になんか行くんですか」
ナーミは、冷静に落ちついた声で返す。
「森は危険なの。魔物がいるのです。聞いたことあるでしょう?それを分宮《アル》で招いている光魔術師《リスタ》の結界によって、抑えていると」
「じゃあ、何故あいつが住めるんだよ! あいつも魔物だってことなのか?」
「私も、彼の存在は知っているわ。彼の居住区までは、魔物が入れないようになっているのよ」
ナーミは思い出す。ぎりぎりの境界線であったとは思うが……。
「知ってるってことは、あいつが何者かも知ってるんじゃないですか」
「彼は、貴方達と同じメロサの住人。
美しい人形を作り出す、最高の人形師よ。
ただ森に住んでいるからって、証拠もないのに犯人だと騒ぎだてるのはおかしいじゃない」
顔を見合わせる人々。だが、そのうちの一人が声を上げた。
「でも! 攫われた奴ら、森の方に向かってるの見てる奴もいる。な? ワッデ?」
話を振られた人物が、皆の視線を受けておどおどとした。
「いやぁ。俺は、人が森に入ったような気がしただけで……。だいたいここらへんは、誰もこないから……。気配がしただけで見たってわけじゃあ」
「カタデイナーゼ様は、きっとそういうことを確認に、彼のところに行っただけよ。だから……」
と、言いかけてナーミは背筋に何かを感じて振りかえった。
(闇《ゼク》?)
微かに自分の中の光《リア》が感じた。ラスメイがナーミに駆け寄り、背中に無意識に手をやる。が、杖は宿に置いてきたことを思い出して、小さく舌打ちをした。
ミラールがそんなラスメイの反応から察して、風《ウィア》を呼びよせる。
「ナーミ様」
「皆、下がって。何か来るから」
ミラールがそう言い、ナーミと町の人々の間に立ちふさがった。
「ナーミ。僕は風魔術師《ウィタ》だ。指示を」
「張れるなら結界を。みんなを守って」
ミラールの手から、彼の言葉を聞いた風《ウィア》が放たれ、人々の前に結界を張った。
それを、人々はそこに集まった理由も忘れて、ただ呆然と三人を見つめていた。
「ナーミも下がれ」
ラスメイは彼女の前に立ちふさがる。
「闇《ゼク》が強い。ただの魔物じゃない。結界を張ってる光魔術師《リスタ》の級は?」
「中級と聞いてるわ」
「森に住んでる魔物じゃないな。それでは今までだって、抑えきれないはずだ。こんな強い力……」
ラスメイは小さく呟くと、風《ウィア》を呼ぶ。
「いいから、下がって。ナーミ」
「出来ない」
ナーミははっきりと言いきった。
「下がらない」
ラスメイは小さくため息をついたようだった。
「光《リア》の魔術の方は使える?」
「簡単な結界ぐらいなら」
「じゃあ、自分を守って」
「ラスメイ……は」
鮮やかな紫色の瞳を森の方に向けて、睨みつけた。ぞくぞくと、肌が反応している。あの、ライラの時に感じた力。
「いらない」
森の奥から、小さく、はためくものが近づいてくる。羽もないのに空を飛んでくる白い影。はためいているのは、身に纏った長い布だと気づいたときには、それは目の前に現れた。
否、目の前に浮かんでいた。
(ライラに似ている)
闇《ゼク》の塊の少女。それに雰囲気と身に持つ闇《ゼク》の強さが。
人々は唖然としてその姿を見つめいた。頭からすっぽりと布をかぶったその人。揺れる布の合間から見える腕は細く、女性だと、思った。
「今度は巫女《アルデ》?」
それは、よく響く澄んだ声でそう言った。目深にかぶった布から出ている赤い唇が、笑みに歪んだ。
ナーミは凍りついた様にそれを見つめていた。闇《ゼク》の塊は、魔物だと教えられてきた。それは、人の形とはほど遠いものだとも……。
人の言葉を話し、そして、笑う。これが、この闇《ゼク》の塊を魔物というのだろうか?
後方の人々も同じ思いだったのか、ただただ驚いただけなのか、この突然表れた人物を口を開けてみている。
「それとも、後ろのうちの誰か?」
くすりと笑ったその女性は、細い手を人々の群れに差し出す。
「誰が、くれるんですか?」
人々はその声の響きに、うっとりと聞き入っている様だった。ミラールの顔が険しくなる。
その声は人々の心に入りこむ。結界など無意味だ。
人々の中から、魅入られた様に一人の男が足を前に出した。
「そう、貴方が?」
ラスメイは戸惑っていた。この女性からは、ライラのような敵意を感じないのだ。
攻撃して良いのかどうかに迷ってしまう。風《ウィア》がラスメイの心に反応してか、じれったそうに動いた。
「大切な思い出をくれますか?」
「ワッデ!」
彼女の声に魅入ることがなかった一人が叫んで、ワッデの肩を掴んだ。
「ザックラ」
ナーミの呟いた名前に、ラスメイは聞き覚えがあった。一番最初に攫われたと言う人だ。
「あの女だ!」
灰色の髪を振り乱して、ザックラは指を指した。
「あの声だよ! 微かに思い出した。あの声を聞いたときに意識が無くなっていったんだ」
本当か? とざわめく人々に、ザックラは強く頷いた。
「あいつが、犯人だ」
呆けた様に女の声に聞き入っていた人々の顔が、気色ばんでいった。ミラールが女を見上げたが、その瞳は困惑していた。町の人々は興奮していて、冷静な判断力を欠いているが、ミラールはライラとも対峙したことがある。
だから、彼女に攻撃の意志や悪意を感じとれないことが、不思議だった。むしろ純粋に美しいと思える空気を感じとれる。
(笑った……)
嘲けるように、とか、皮肉そうにではない。その場と状況には似合わない、幸せそうな微笑。ナーミも気付いていたのか、ラスメイと同じような表情で、彼女を見上げていた。
「一人目の、お客様ですね?」
彼女はクスリと笑った。
「素敵な思い出でした。素敵な、大事な人達の優しく暖かい思い……」
「やっぱり、そいつがっ!」
人々が口々に大きく吼え、武器を高々と上げた。ミラールの結界は外部からの攻撃を遮るものであり、内部からの攻撃を遮るものではない。
人々はどっと走り出し、ミラールの制御も耳にせず結界を越えた。
「何の力もないのに」
女はすっと手をあげた。そこに闇《ゼク》の力が固まるのを、ラスメイは見た。攻撃の意志はまだ見られない。だけど、あれを投げさせるわけには行かない。
「ごくろうさまです」
すっと手首がかるくひねられ、その小さな塊は、彼女に向かう集団の中に投げ込まれた。
「《ウィタ・メル》!」
「《ウィタ・ト……》」
ラスメイの攻撃の声と、ミラールの結界を張りなおそうとする声が重なる。
闇《ゼク》の力はラスメイの放った力に拡散したが、ミラールの結界は間に合わずに、残った衝撃は人々を襲った。大きな砂埃が立ち、人々の小さな悲鳴と地面に倒れ、引きずられる音に耳を塞ぎたくなる。
女は再び手に力を貯め始める。それを見て、ラスメイとミラールは構えた。
「やめて!」
ナーミの叫び声。治まる砂埃の間から、倒れ重なった人々の姿が見える。
動けるものは何かを口々に言いながら逃げたり、倒れた者を抱き起こしたりしている。その喧騒の中、女の声ははっきりとナーミには届いた。
「巫女《アルデ》・ナーミ?」
その女はそう聞いてくる。ナーミは視線を上げた。と、女は白い布をはためかせながら、すぅっと地に降りてきた。握りつぶす様にして手に貯めていた闇《ゼク》を拡散させた。
「私と一緒に来ていただけますか?」
「あ、貴方が、事件の犯人?」
「……そうです」
「キールは……無関係だったの……」
独り言のように言葉を落とすナーミに、女は答えずにもう一度言った。
「私と一緒に来て下さい」
「ナーミ!」
止めようと声をかけるラスメイの方に女は顔を向けラスメイはすっと構えた。
「心配なら、貴方たちも」
「一体、何をするつもりだ」
ラスメイが低く聞く。
「それも、一緒に来ていただければ……」
彼女は自分の顔にかかっている布に手をかけ、用心深くその下に隠された顔を、ナーミとラスメイとミラールだけにさらす。
息を呑むナーミは、そのまま言葉を失った。目を見開く二人の表情を見て取って、彼女は再び呟く。
「来て、頂けますよね」
魔物らしい女に攻撃された怪我人たちが作る喧騒のなかで、巫女《アルデ》がその女と消えたのを、見たものは居なかった。
ナーミと女が居なくなり、あと魔術師の二人が消えた事に気付くのは、もう少し落ちついてからとなった。
また騒然とする人々であったが、森に入ろうと言い出すものはいなかった。
闇《ゼク》の力。その未知の力は人々の心に恐怖を与えた。彼らは分宮《アル》へ人をやり、決断を仰ぐ事が精一杯だったのである。
|