ドアを開け放った瞬間、エノリアの肌はひやりとした空気を感じた。それは静けさが空気の冷たさになっているかのようだった。明かりの灯っていない部屋には、窓が一つ。そこから、ささやかな光が洩れて、部屋の中にあるものの輪郭をなぞっていた。
「ラ……ン?」
言葉の語尾が、誰かに問い掛けるようになったのは、薄暗くてよくわからなかったからかもしれない。エノリアはたった一つの窓に駆け寄り、光を遮っている布を引きずり下ろした。そして、くるりと振り返る。
彼女の探し人はそこにいた。壁際に置かれた椅子に、うなだれながらゆったりと座って……。
エノリアはほっと息を洩らした。キールがあんなことを言うから、どうなっているのか、ひやひやしていたのだ。だけど、ランは傷一つ無くそこに座っていた。
「おどかさないでよね……」
不満げに、また少し安堵をこめてそう呟き、エノリアはつかつかと歩み寄る。
「ラン!」
なんと言えば効果的だろう、などと考えながら、エノリアは彼の肩に手をやった。
「まったく、だらしないわね……」
怒号の一つでも期待して、エノリアはせいぜい嘲るように言ってみせたのだが、ランは言葉に反応しない。項垂れていてその表情も見ることが出来ずに、エノリアはしゃがみこんだ。そして、ランの顔を覗き込む。
堅く閉じられた瞳。
「寝てるの?」
と、聞きつつ不安はじわじわとやってきた。寝てるなら起こせばいい。
なのに、不安がゆっくりとひろがっていく。
「ラン!」
そして、気付いた。いつも額に巻いている布がはずされていることに。そして、額に振りかかった髪の間から、傷が少しだけ覗いていた。
髪の合間からだから、傷全体を見たわけではない。だけど、額の真中を縦に切ったような痛々しい傷だ。
(これを、隠しているのかもしれない)
エノリアはその髪を手でどけて傷を見ようとしたが、その手を止めた。
わざわざ隠しているものを、見るのは悪趣味だ……。
宙に浮いた手を両肩に手を置く。
「ラン! ランってば!」
「だめだよ。乱暴にしては……」
後ろから声を掛けられて、エノリアは手を離した。そして、振りかえる。キールとその後ろに控えめに立っているナミ。部屋の向こう側で、カタデイナーゼが何かを考えこむようにして立ち尽くしているのが瞳に入った。
「……何をしたの?」
「夢を、見てるんだよ」
キールはそう呟くと、ドアの近くの壁に寄りかかった。
「夢?」
「そう、彼の望む夢」
無表情なキールの顔を、エノリアは、金色の瞳に力をこめて見つめていた。キールはその目を見つめ返す。逸らさず、受け止める。エノリアはしばらくキールを見つめていたが、その瞳をランに向けた。
力のない存在感。ランであり、ランでないもののような気がした。ずんっと不安が胸の奥に固まる。
「何故、起きないの?」
「夢が彼を捉えて離さないのです」
キールの代わりにナミがそう答えた。
「闇《ゼク》の幻想を見せる力……」
「貴方がやってるの?じゃあ、戻して。ランを戻して!」
ナミは視線をキールに向け、何の答えも彼から受け取れないと知ると、再びエノリアに視線を向けた。
「闇《ゼク》が離しても、彼が離さないでしょう……。それほと夢は、幻想は甘美なものです」
「冗談じゃないわ……」
エノリアは再度ランに向き直った。膝を床に付き、ランを覗き込む。
「冗談じゃないわよ! 起きてよ。起きてよ、ラン! どんなにいい夢を見てるか知らないけれでも……、こんなことって!」
「彼が、望んだんだ。そこに逃げることをね」
キールの声は、どこか悲しい。
逃げる? 逃げるって何から。
「辛い現実から、逃げてるんだよ」
エノリアはキールをじっと見つめた。その瞳に写っているのは、何?
「彼は、やっと落ちつく場所を見つけたんだ」
「そんなの、何の解決にもならないじゃない」
エノリアは思わず口に出していた。
「逃げることが、いけないことだと?」
キールの瞳にこもるわずかな熱に、エノリアは気付いていた。小さく息を飲みこむ。
「逃げることは、何の解決にならないと?」
「そうじゃない! だけど!」
エノリアはランを振りかえる。何の表情もそこには存在しない。辛さも苦しさも悲しさも、怒りさえも。それが、こんなに空虚さを感じさせるなんて。
こんなに、『無』を感じさせるなんて。
「君は……逃げていないというの」
キールの低い声に、エノリアは振り返った。彼はすぐ側まで寄ってきていて、白い手をエノリアの髪に伸ばす。
「何からも逃げてない?」
エノリアはその手を振り払おうとした。と、キールはすっと手を引っ込める。
「君のその髪、本当は何色?」
気色ばむエノリアの顔を、キールは見つめて少しだけ笑った。
「きちんと、染め直した方がいい。見る人が見れば、気付くよ?」
「私は!」
逃げていないと叫びかけて、エノリアは言葉を飲みこんだ。
逃げていない?
「逃げることが決して悪いことだなんて、言わない。けど!」
エノリアは首を振った。茶色の髪が揺れ、収まる様をキールはじっと見つめていた。
「何を見ているの。何を見据えて逃げているの! そこになにがあるの? こんな逃げ方したって、得られるものなんてないじゃない!」
ランの何も浮かんでいない顔。
それが、こんなに遠くて怖い。
(戻らなかったら?)
その想像は凍りつくほど恐ろしい。
怒ったり怒鳴ったりされるほうが、よっぽどいい!
「一緒に苦しんだり、悩んだりできない。側にいたって仕方がない! そんな距離に何の意味があるのよ!」
エノリアをじっと見つめていたキールだったが、少しだけ笑みを落とす。
エノリアは言いたいことを言ってしまってから、心の中に何かわだかまりが残るのを、気持ち悪く感じていた。
(それは)
『何を見据えて逃げているの!』
(誰に言わなくちゃならない言葉?)
頼りなく両手を見下ろす。
エノリアを見てキールの視線は柔らかくなった。キールは、そっと呟く。
「何を見てるか、何を彼が大切にしてるか、気にならない?」
キールの声に、エノリアはキッと彼を見つめた。
「どういうこと」
「気に、なる?」
キールの瞳に何が浮かんでいたのか、エノリアははっきりとわからない。
ランの持っている大切なものは、彼の求めたものに一番近いと言っていた……。
キールはランの思い出に何を求めているのだろうか……。
エノリアは頭を横に振れなかった。だけど、縦にも振れない。知りたいのか、知りたくないのか……自分でもよくわからなかった。
何も言い出せずにいるエノリアに構わずに、ランにキールは囁いた。
「君の見た、美しいものを教えてくれるかい?」
ランの口から微かに息が洩れて、エノリアは彼を振りかえった。
聞いてもいいものかどうかに迷っている自分が不思議だった。
(聞いては、いけない)
迷う必要なんてない。こんな方法で人の心を覗くなんて……。
批判する自分に反して、エノリアは耳をふさぐことも出来ずに、彼を見つめていた。
ランがゆっくりと顔を上げて、少しだけ目を開いた。
「……ラン」
その目には何も写ってはいない。
鮮やかな、緑色の瞳。
まるで、人形の様。
その唇がゆっくりと動いて、エノリアはやっと耳を塞ぐために手を動かすことができた。
「ヒカリ《リア》……」
エノリアの両耳をふさごうと挙げかけた手を、その言葉が止めた。
「……飛び込んできた」
たどたどしくランは言葉を紡ぐ。エノリアはそれを信じられない思いで聞いていた。
「この……腕に、金色の……光《リア》……」
エノリアは、ランの顔を見上げながら瞳を微かに細めた。エノリアの優しい表情を、キールは横で見つめ、そして視線を落としその場から離れて行く。
「……美しい金色の……人。どこまで、行くのか、ずっと見つめて……たい」
「……ラン……」
「……ノリ……ア」
そう言うと、ランはすうっと目を瞑り、再び項垂れてしまった。エノリアは挙げかけた手を、そのままそっとランの頬に近づける。
「……馬鹿、ね」
頬をそっと撫でて見て、エノリアはため息をついた。両手でそっと頬を包みこむ。
優しい人だって知ってる。
側が居心地のいいことも。
全身で守ってくれてるってことも。
「ラン……」
優しく呼ぶ。もう一度呼ぶ。
「起きて……」
いつも自信たっぷりで勇気をくれる。どんなに、私が感謝してるか知らないでしょ。
どんなに……助けられてるか知らないでしょう。
知らないでしょう?
エノリアはすぅっと息を吸う。
そして……。
「起きてっ!!」
ぐいっとランの服の胸元を掴み、引き上げようとして、その重さに挫折した。が、そのまま激しく揺さぶる。
「起きなさいよっ!!」
ぐらぐらと揺れるランの首。エノリアは渾身の力をこめて、彼を前に引っ張った。
「そんなセリフ、正気の時に言ってもらわないと、ありがたみがないでしょう!!」
ガタッ! 大きな音を立てて、ランの身体は椅子ごと前に引っ張り出され、床に倒れた。
目を丸くするキールに構わず、エノリアは倒れたランの両肩を引っ張って、なんとか上半身を起こさせようとする。
「ねぇ!」
エノリアは必死だった。言葉に含まれる威勢の良さと反比例して、その表情はいまにも泣き出してしまいそうな弱さを持っている。
「そんな姿見ていたくないよ! そんな情けない姿見ていたくない!
夢に囚われちゃうほど、弱く無いでしょう?
夢の中じゃ、あんたは一緒にいれるかもしれないけど!」
ゆっくりと、ランの頭を床に置く。その顔を覗き込み、ランの顔に影が落ちる。その瞳に、うっすらと涙が浮かんでいることを、エノリアはきっと気付いてはいない。
「あんたは……一緒かもしれないけど。私は……」
泣き出しそうな自分を必死にこらえて、エノリアはランの顔をペシペシとたたき出した。
「私は……!?」
そんな二人を見つめながら、キールは壁際に戻り、そっとナミに呟く。
「本当に、あれ、解けないの?」
「……本当なら。闇《ゼク》が手放しても、本人が手放さない。彼は逃げ場を見つけたんです……。甘美な夢という逃げ場を。
それを放棄させてこちらに戻させる力があれば、話は別です」
ナミはエノリアを見つめながら、ふわっと微笑んだ。
「それを持ってるのは、彼女でしょう」
「強いんだね」
キールの声には微かに憧憬がこもっているようだった。それを聞いて、ナミは真顔で呟く。
「夢は、触れることができないんですよ。夢は夢。現実は辛くても、暖かさがある……体温があるんです……。キール様」
ナーミの伺うような視線に気付いてか、キールはそちらに視線を送らなかった。
しばし、二人を見つめている。
「僕は……、それに気付くのが遅かったね……」
寂しそうな一言を落とすと、キールはそっと壁から離れた。そして、ドアに足を向ける。
「キール様」
「彼が目覚めたら、終りにしよう」
その『終り』が何を指しているのか、ナミは直感的に嗅ぎ取った。
「君を解放する。ナミ」
振りかえるナミの長い髪が、広がる。その様子を見つめ、キールは目を細めた。
「しかし、キール様。私がいなくなれば、貴方は!」
哀れなナミ。
愛しい人と同じ姿。愛しい人の好きな花の香り。
僕に、囚われた可愛そうな存在……。
「好きなところに行って……ナミ。僕の願いは叶わない。叶わなければ、君も消えない……」
キールはナミを振りかえらなかった。
「僕は求める『幸せ』を捉え違えたね……」
(ナーミ……)
本当に、欲しかったものは……?
本当に求めていたものは。
君の声。
『キール』
君の、僕を呼ぶ声……。金色の美しい波。
夢のような、金色の光《リア》……。
「……たい……。痛いって」
「起きた……」
エノリアの呆然とした声に、少しだけ喜びがこもっている。
「起きたぁ……」
「起きたって……?」
床を右手で支えて、ゆっくりと身体を起こし、ランが目を瞬いている。その横でしゃがみこんだままのエノリアが、何度も確かめる様にランを見つめていた。
「ここどこだよ……」
辺りを見まわすようにしていたランの視線が、エノリアの顔に向けられた。そして、その目に少しだけ心配そうな光が宿る。
「お前、泣いてるの?」
エノリアはそう言われて気付き、カッと顔を赤らめて、ランの頭を思い切り床に押しつけた。
ゴンっと小気味のよい音する。
「涙腺弱くなったわ……」
「オマエなァ……」
恨めしそうにいいつつ、床にあぐらをかいて座るランの姿にエノリアは満足そうに笑った。
「で、ここどこだよ」
「あんた、攫われたのよ」
「は?」
「なっさけない!」
「いや、攫われたって?」
まだ、要領を得ないランは、ふと壁際を見つめた。
そこから、女性の輪郭がすぅっと消えて行ったのを見て、目を擦る。そして、じっと見つめていた。
「どうしたの?」
一点を食い入るように見つめるランの視線に気付いて、その視線を追う。そこは、先ほどまでナミがいたところだと気付いた。
「いや」
ランは口篭もる様に呟いた。
「幸せな……子守唄を聞いてたような気がして……」
自分は母を知らない。
だけど、子守唄と言うものは母が歌ってくれるものなら、きっとあんな響きだろう。
優しく柔らかく包む響き……。
ランの小さな微笑が、何を思い出してのことかはわからないが、エノリアはひとまずその場に立ち上がった。
「帰ろう」
ランに手を伸ばす。意外なエノリアの行動に、ランは戸惑う様に彼女を見上げていたが、彼は少し笑いながらその手を取った。
握り締めた掌の温かさに、ランは何故か張り詰めた心が解けて行く思いを覚えた。
「みんな、待っているよ」
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