「消えた……か」
呟く人の目は赤い。
楽しそうに微笑み、セアラは窓に顔を向ける。
「まだまだ……」
歌うように口ずさみながら、楽しそうな彼はふと、視線を重厚な扉に向けた。扉の向こうから、ざわめきが近づいてくるのを感じ取ったからである。
『王妃様!』
『いるのでしょう!』
『母上!』
セアラは少し微笑んで、来客を迎えるために机に持たれかかった。扉が開くのを見る。
(ゼアルークもか…)
扉から勢いよく入ってきたのは、顔を少し赤らめた品のいい女性だった。年は四十前後、身にまとったドレスは質素なデザインだが、布の質は最高級だ。そして、すこし戸惑ったように続いて入ってくる男性と、頭を下げつつ扉の手前で右往左往する侍従。
こういう運命もいいかもしれない。何事もハプニングはつき物だ。
「セアラ!」
叫び声の中にも、威厳は感じ取られてセアラは内心感心した。
(乱心していても、王妃は王妃か)
いやみなくらい恭しく、セアラは頭を下げる。
「お久しぶりです。王妃」
「久しぶり?そうね、あなたがあの子を奪って以来ですから、18年かしら」
(今日は、正気か…)
やれやれと息をついてセアラは頭を上げた。
おろおろとした侍従の様子を見、そして、ゼアルークに目を移す。そして、真ん中の王妃。18年経ったとはいえ、その美しさは健在だった。
からかうように赤い瞳に笑みが浮かぶ。
「あの子とは?」
「しらばっくれないで頂戴!あの子よ」
「母上!」
王妃はゼアルークに腕をつかまれ、前のめりになった。それに逆らうように王妃は手を振り切ろうとしたが、勝てない。
「私の子を返して!!」
「母上!私はここに居ます!」
「違う!」
王妃は我が子を振りかえり、そう言った。大きく息を吸って、そして吐き出しながら落ち着いて低く言う。
「貴方のことではないの。ゼアルーク」
ゼアルークの母の腕にこめていた力が少し抜けた。王妃は自由な片手を上げて、セアラを指差す。
「あなたが、このシャイマルーク家に災いなすと予言した子。あの子を返して頂戴。知っているの。あの子には《証》があった。殺せるはずないの!」
ゼアルークは一瞬目を見開き、セアラの顔をうかがった。セアラは、ただ笑みを浮かべてゼアルークを見返す。その表情からは何も読み取れない。彼は、再び王妃に視線を返した。
「母上…。私の弟は死産だったと…」
「元気に産まれたのよ。私はあの子の声を覚えているわ。だけど、この男が…」
付きつけられた指を薄く笑いながら見ていたセアラは、にこりと微笑んだ。
「生きてはおりません」
セアラはゆっくりと王妃に歩み寄ると、自分を指している彼女の手を握り締め下ろさせた。
「私が手を下しました。シャイマルークのために」
赤い色の瞳は、王妃の瞳を捕らえる。
囁くような声は、優しく王妃の耳へ届いた。
「それに関しては貴方の非はいかようにも受けましょう。しかし、死んだものを返すことはできません」
王妃は冷たい瞳におくすることなく呟いた。
「私は探します。生きているわ。あの子に手をかけるなど、許されることではなかった」
「ゼアルーク王。王妃はお疲れなのです……」
いつも冷静沈着な王が、戸惑いながら王妃とセアラを交互に見る。王妃はまだ、セアラに突っかかった。
「あの子には《証》が刻まれていたもの。殺せるはずがない!」
「ゼアルーク王!」
セアラの声に、なぜか従わねばならない気がした。だから、ゼアルークは母をなだめつつ、退室させようとする。
「母上……」
「私はあの子に名前をつけたわ。貴方は覚えているでしょう?」
声が遠くなる。その声に背を向けて、セアラは目をつぶった。
「あの子の運命を…封じるために」
扉がゆっくりと閉じられる。王妃の声はくぐもってしまい、最後まで聞こえなかった。
そして、残されたセアラは一人笑う。
「忘れるわけ無いよ」
視線を青い空にはせる。
「…大切な切り札だから…」
約束を守るための。
この身に刻まれた呪いのための。
そして…この世界の。
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