ラスメイは目をつぶった。ここを切りぬけなくては…。
手が動かない。それでも、エノリアを助けなくては。
約束だから。ランとの約束だから!
意識を集中させる。
負けたくない。
でも…、あれと私は一緒なのかな…。
闇《ゼク》の塊。そして、私の大部分も闇《ゼク》。
あの邪悪なものと私は、同じ?
同じなのか…。
懐かしい声が、頭に蘇る。
『ジェラスメイン。いいかい?闇《ゼク》はね、なくてはならないものなんだよ?』
でもおばあちゃま。あんな存在がある。
あれは闇《ゼク》そのものじゃないか。
要らないのだろう?
あんな邪悪なものは要らないんだろう?
『本当の安らぎは闇《ゼク》にしか作り出せないんだよ?』
安らぎ。
『いいかい?覚えておいで、ジェラスメイン。お前の中の闇《ゼク》は安らぎの闇《ゼク》だ。 決して…人の心の作り出す闇《ゼク》ではないんだよ?』
最期に、私の手を握り、おばあちゃまはそう言った…。
『闇《ゼク》を持つことに誇りを持ちなさい。そういうお前を必要とする人が必ず現れるだろうから』
おばあちゃま。
出会ったのは偶然だった。
『……お前は逃げていない。すごいな……』
『必要なんだ。お前の力が』
『いい、エノリアを守ってくれ。頼む』
ラン。
『同じじゃない』
エノリア。
そうだ。
(同じじゃない)
あの少女の闇《ゼク》と私の闇《ゼク》は同じじゃない。
こんなことで、捕らわれてしまうほど、弱くもない。
弱くない。
『いつか、お前の闇《ゼク》を必要としてくれる人が…』
何度も何度も繰り返された台詞。
「《ジェラスメイン・ロード・キャニルス・ゼク》」
【私の中にある闇《ゼク》よ】
「《セラス・ライ・ゼク》」
【気高く私の愛する闇《ゼク》達よ】
「《ゼク・ラン・ケスタ》」
【邪なるものを封じよ】
「《カリ・ゼク・レ》」
【私の内なる闇《ゼク》を持って】
「《メル》」
【これを滅せよ!】
自分の周りの、物言わぬ闇《ゼク》が一瞬だけ、叫び声を上げた気がした。
ラスメイは目を見開く。紫色の瞳は、エノリアを見た。
「《ディス・ウィア・メル》!」
風《ウィア》は彼女に従った。エノリアに気をとられていたライラは大した抵抗もできずに、悲鳴といっしょに風《ウィア》に飛ばされた。
もうとらわれない。
迷いは隙になる。
ラスメイは、床に叩き付けられたライラに杖を向ける。
「闇《ゼク》は邪悪なものではない」
ライラはにやりと笑い、ラスメイを見つめた。
「邪悪だなんて言ってないよ?私の中の闇《ゼク》も邪悪ではない」
ライラの右手に力が集中し始めた。ラスメイはそれに気づいて、杖を構える。
「善と悪は人の決めた基準でしょう?」
ライラはにやりと笑った。
「悪だって、人が生み出すものだから!」
「《ルーシ・カイデ》!」
彼女は手を振り上げる。その瞬間、床の氷についていた片方の手の先から、彼女の体は凍っていった。透明なそれに覆われて、彼女は目を見開き、彫像のようにそこに固まった。
大きく息をつき、ラスメイはその場に膝をつく。集中が途端に切れてしまったように倒れかけた彼女を、エノリアは受け止めた。
視線を返すとリュスが一人足を止め、うつろな目で氷張りの天井を見上げていた。
汚れてしまった両手を軽く開いて、何かを受け止めるように手のひらを上に向けて…。
その淡い光に、しばしエノリアは見とれてしまった。エノリアの腕の中で、ラスメイは呟く。
「彼女は放っておいていいのか」
「気づいてしまえば…、後は彼女自身のことよ。哀しみに負けてしまうか、罪にさいなまれても生きていくか…」
エノリアは少しだけ目を伏せる。
「本当は、愛する人が死んでしまった時点で、その選択をしなくてはならなかった。だけど、それを光《リア》が邪魔をして…。中途半端な希望が彼女を追いやった」
「光《リア》も厄介だな」
なんとなく口から出た言葉は、エノリアの顔をしかめさせる。
「そうね。でも厄介なのはその価値観をつけてしまった人だと思うんだけど?」
エノリアは息を吐く。
「光《リア》がなくなれば…、それは次の対象に移るだけなんだろうけど…」
光《リア》に、そして、言葉に。
『愛しているから』
私は確かめなくてはならない。なぜそんなことずっと忘れていたのか。
そして、私は本当に母を恋しく思っているのか。
この感情は…、あの闇の中、閉じ込めた母への、憎しみではないのか…。
…………わからない。
「おばあちゃまの声が聞こえたんだ」
ラスメイが唐突に語る。
「お前の闇《ゼク》は安らぎの闇《ゼク》だと。人間の心が作り出す闇《ゼク》とは違うと」
少しだけ笑う少女の口元を、エノリアは見ていた。
「心が闇《ゼク》を作り出すって…。そんなこと、物語の世界のことだって思ってた」
ラスメイは首をかしげる。
「おばあちゃまは何かを感じていたのかな…。本当にそれが起こるんだって」
「物語としても、本当だとしてもどうして『今』なのかが問題なのよ」
今まで、そんなこと起こらなかった。
魔物がその結果で産まれたものでも、そこに何かが起こったはずなのだ。
「何かが、始まってる」
自分が関わっているということは、完全に否定できない。
そのとき、気をつけなくては聞こえないほどのちいさな音が背後からしていた。
ライラの指先が、微かに動いていることに、彼女達は気づいていない。
二人はリュスを見つめていた。
その表情に、何を考えているのであろう…。ただ、天井を見つめていた。
ピキ…。
その静寂を氷の割れる音が破った。
振りかえるラスメイ。
ライラの白い腕だけが動いていた。
瞳が邪悪な笑みでゆがむ。
(ダメダ)
精霊は間に合わない。
呼び寄せる時間がない。
判断する前にラスメイは動いていた。
その小さな体でエノリアを守るように、ライラとの間に立ちふさがる。
その視線の横に動く影を捉えたことに気づくのと、ライラの手から衝撃波が放たれるのとが同時だった。
エノリアが小さな叫び声をあげて振り返る。
リュスが振りかえり、目を見開いた。
閃光が縦に走る。ラスメイの前に影が入り、衝撃波は半分弾かれ壁にぶつかった。
紫の瞳が見開かれた。
もう半分は目の前の影が受けていた。
「ってぇ…。結界…破るか普通…」
「ラン!」
ランはその場に片膝をつく。
胸のあたりを押さえて、咳き込んだ。
「ちょっと……、見せなさいよ!」
エノリアが咄嗟にその両手を引き離そうとする。
「大丈夫」
「あんたのこう言うときに言うことは信用しないわ!」
「ラン…どうしてここが……」
ラスメイの問いは、奇妙な叫び声でさえぎられた。
「リュス!」
エノリアが目を見開いた。リュスは、半分氷に埋まったライラの首にナイフを立てていた。
「リュス?」
信じられないようにライラはリュスを見ていた。
「私、ちゃんとやったよ…。リュスのお願いかなえようとしたよ?」
首からは赤い色の液体が、少しずつ流れていた。
「どうして?」
「ごめんね…。ライラ。産まれたくなかったでしょ?私のこと恨んでいたでしょう?
こんな汚い望みにまみれて、産まれたくなかったでしょう?」
リュスの瞳に貯まる水を、ライラは凝視していた。赤い色の血は彼女の肩を伝い、長く細く片腕を伝っていた。
もうひとつの腕は、衝撃波を放ったときのまま、空間に差し伸べられていた。
「そうだよ…」
消えそうな声でライラは呟いた。
「そうだよ…。産まれたくなかったよ?…だけど勝手だよね?…産まれてきたからには…私だって…、生きて居たいのに」
ライラは目をつぶった。
「…リュスの道具じゃないよ…?…私の死で償おうとしているの?」
「ごめんね…。でも貴方を呼んでしまったのは…私だから。そして、その力を望んだのも私だから…」
「ひどいね…。ひどいよ…。リュス。こんなことしても、リュスの罪は消えないよ」
「わかっているわ…」
ライラは消え入るような声で、ポツリという。
「…愚かな…人…」
「ごめんね…」
リュスの目から涙がこぼれた。同時にナイフを引き抜き、赤い血はそこから止めど無く流れ出した。 少しだけあげられていた少女の手は、がたっと床に落ちる。
「…泣くことができたらよかったのかしら…」
リュスは呟いて、少女の顔を手で撫でる。
「そうしたら…自分の過ちを認められて…」
白い手は少女の髪を撫でて止まった。
「こんなに罪を繰り返さなくても、自分の手を汚さなくてもよかったのかしら…」
「あなたは、自分を罰したかったのよ」
エノリアはリュスに語り掛ける。
「自分の手を汚すことで、自分を罰しようとした。だけど、勘違いしてしまったの。周りの人間を巻き込むことが許されると」
分宮《アル》の人達、そして、オオガの住人、水魔術師《ルシタ》…たくさんの人。
「それが、光《リア》の過ち……」
「ひとつ…お願いしていいかしら?ラスメイさん」
ラスメイが返事する変わりに顔を上げると、リュスは、自嘲的に微笑む。
「この中に彼の…フェイの魂を見つけたら、『ごめんなさい』と伝えて欲しいの。私に彼の魂は見つけることはできなかった…。貴方ならできると思うから」
ラスメイは頷いた。
「きっと、今でも近くで聞いているだろう」
リュスは頷き…、そして呟いた。
「心の中に、闇《ゼク》を産んで、それを実体化させてしまったこの子…」
微笑むリュス。
「…夢見てた。彼と結婚して、かわいい女の子を産むの。光《リア》を持たず、普通の暮らしを望める女の子。きっと、こんな子が生まれるって思ってた」
からからと氷の欠片が天井から落ちる。さっきの衝動と、水魔術師《ルシタ》を媒介に術をかけた、ライラが死んだことで水への術が解け始め、部屋の氷が崩れかかっているのだ。その中で、リュスはライラの頭をもう一度撫でてから、真中に置かれた彼の元に足を運んだ。
彼の近くに立ち、天井を仰ぐ。
「もう…ここも崩れるわ。早く…行ってください」
「リュスは!」
リュスは、ライラの血もまだ乾かないナイフを自分の首に付けた。
それが何を意味するか、分かっていた。
ランは軽く目を細め、ラスメイはそんなリュスの表情を見ていた。ただ、エノリアだけがその名を呼ぶ。
「リュス!」
リュスは微笑んだ。きっとこの顔が、本当の彼女。
すべてから解放された顔をしている。
「エノリアさん。あなたの言う通りよ。
私はね、気づけなかったの。彼の微笑みの裏にあるものを、幸せだと勘違いしてた。私は光《リア》をもっ ているから、彼も喜んでくれるのが当たり前だと思ってた」
彼女の手は震えてはいない。
「でも、今までの考えを覆すほど、勇気はなかったのよ。泣けなかった。泣けば…不幸を肯定してしまうから。 それはしてはいけないことだから。光《リア》は、幸せで在らねばならない。光《リア》は特別だから」
リュスは手に力をこめる。
「つまらない真理。そんなものどこにもないのに」
「やめて…生きていけば良いじゃない。わかったんだから、間違ったことがわかったんだから!
これから、それを抱えて生きていけば良いじゃない!!」
「そんなもの…どこにもなかった…」
「やめてえええ!」
赤い色が辺りを支配する。
エノリアの金色の瞳はずっとそれを見ていた。
彼女の体はゆっくりと倒れ、彼の体と重なる。
(リュス!)
幸せに微笑む彼女の手は、大切なものを守るように彼を包んでいた。
ガラガラと崩れる音は大きくなる。
ランの叫び声と、自分を揺さぶる腕。小さな手が自分の手を一生懸命引っ張っていることを、幻のように感じていた。
「エノリア!」
業を煮やして、ランはエノリアを半ば抱えるようにして、部屋から脱出した。その間も、エノリアの視線はリュス達に注がれていた。
そこに倒れた二つの体。そこに、きらきらと輝きながら、氷の欠片が落ちていく。
この情景を忘れない。
忘れたくても忘れられるはずがない。
伝えて。
私からでは伝わらない。
光《リア》という立場でも、私の思いは本当だった。
ゆがんでしまったけど、私はたしかに愛していたの。
愛していたの。
今度、生まれ変わるのなら、光《リア》では在りたくない。
だけど、きっと繰り返すの。
私は光《リア》からできているから。
次、産まれるときもきっと光《リア》。
それならもっと。
今度はもっと上手に人を愛したい…。
もっと…上手に。
「ど…うして!」
氷の部屋を出ると階段があり、それを登ると光宮《ヴィリスタル》の象徴が置かれた祭壇の部屋だった。その象徴の前で、エノリアは叫び、膝をつく。
「どうして…!」
光《リア》は…?
闇《ゼク》は…?
そこに価値などつけてはいけない。
そこに意味など持ってはいけない。
「光《リア》も何もないわ…。どうしてそれじゃあ、いけないのよ…!」
「エノリア…」
光《リア》の象徴のあるその場に伏してずっと泣いていた。自分の肩に置かれたランの手の暖かさに気づいて、もっと大きな声で泣いた。つかれて眠ってしまうまで…。
ずっと泣いていた。
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