「エノリア!」
小さな叫び声が、近くからした。無機質な音が響いて、気づけばリュスは自分の手を押さえて床にうずくまっていた。押さえた指の間から流れる赤いものを、エノリアは悲しい目で見つめていた。
口から漏れたのは、安堵の吐息かもしれない。
駆け寄る小さな気配。小さな手に抱きしめられて、エノリアは呪縛を解かれたように、体を動かせるようになった。
「ラスメイ…」
その名を呼ぶ。自分に抱きつく小さな暖かさは、微かに震えていた。
「すまない。油断した…」
「大丈夫よ。ラスメイ」
「すまない…。エノリアが死んでいたら、私……」
「大丈夫だってラスメイ」
エノリアの肩に顔を押し付けていたラスメイが、顔を上げると、その顔は涙でくしゃくしゃになっていた。
「ランとの約束を破ること以上に、エノリアが死んじゃうって思うほうが…怖かったよ…」
ラスメイが泣いてくれているほうが、エノリアにとってはうれしかった。
その小さな背中に手を廻して、さする。
「うん、大丈夫。ラスメイが助けてくれたから」
エノリアの視線は、ラスメイを越えてリュスに向けられた。リュスは横たわった人の近くにゆっくりと近寄っていた。
「あれは真実ではないわ」
リュスは自分に言い聞かせるように、そう言った。
「貴方の言うことは真実ではない。真実であるはずがない。私が欲しかったのは…」
リュスはゆっくりと立ち上がり、天井を仰ぐ。
「私が欲しかったのは…」
彼。
幸せ。
失望や挫折はいらない。光《リア》にはいらないもの…。
「光《リア》だって…ただの人間よ」
エノリアは呟いた。その言葉が彼女に届いていないことを知っていても。
「失うことも…」
(自由…)
「愛されないことも」
(…父さん…)
「間違うことだって…ある…」
(……母さん…)
リュスは首を振った。
「違うわ」
エノリアはその言葉がエノリアに向けられたのか、リュスに向けられたのか一瞬判断し損ねた。
「『幸せでなくてはならない』」
片言のように言って、リュスは天井を仰いだ。
唇が震え、そうして言葉を紡ぎ出す。
「ライラ…」
リュスは振りかえる。うつろな目で、エノリアを指し示す。
エノリアはその指先をじっと見つめた。
「あの目が欲しいの」
ライラという言葉を聞いて、ラスメイが呟いた。
【愛しい子】か…と。
それを頭で反復していると、突然、彼女の横に空間を飛び越えるように、女の子が現れた。
年のころはラスメイと同じ、そして、同じく年にそぐわない雰囲気をまとっていた。
「リュス!ひっどいんだよ!こんな怪我しちゃったよ。でも、足止めはしてきたからっ…」
彼女の視線はエノリアを捕えて、にやりと笑った。
「まだとってないんだ」
微笑む。
「じゃあ、早くしないとね。お兄ちゃん達、こっちに向かっている途中だから」
エノリアは少女の印象と、魔物の印象をダブらせた。
(何?この子)
闇《ゼク》に似ている。そして、それよりももっと強い。
見るとラスメイが厳しい顔をして彼女を見つめていた。
「ラスメイ」
「下がっていろ。エノリア」
彼女は杖をかまえる。それを、少女は…ライラと呼ばれた少女は興味深そうに見た。
「人間じゃない」
「ふうん。珍しいね。それほど闇《ゼク》に支配されながら、正気を保っていられる人間が居るなんて」
ライラは少し笑った。
「すごいじゃない?」
「《ジェラスメイン・ロード・キャニルス・ウィア・ディス》」
真剣に精霊言葉をつむぎ、ラスメイは杖を彼女に向けた。
「《ランシア・メル》!」
ライラは同時に闇《ゼク》の衝撃波を投げつける。ライラの動きを封じようとした風《ウィア》ははじかれ、攻撃に転じた風《ウィア》は忠実にライラの頬を傷つけて消えた。
軽く目を見開いたラスメイだが、すぐに次の攻撃に転じる。
「《クスタ・クルタ・メル》!」
風《ウィア》はさっきの倍にもなって、ライラを襲った。さすがのライラもすべてを防げずに、衝撃を受けて壁にたたきつけられる。
「きゃう!」
やった…?
一瞬、気が緩んだ次の瞬間、ラスメイの体は硬直する。少女がかっと目を見開いた瞬間に、体の中の闇 《ゼク》が、彼女の闇《ゼク》に捕らわれてしまったのだ。
ライラはにやりと笑う。
「はい、邪魔者は抑えたよ?リュス」
ふわふわと浮きながら、ラスメイの近くにまでよる。ラスメイは紫色の瞳で、いやというほどライラをにらんだ。
「あとはその人だけ?」
エノリアはリュスが近づいてくるのを黙ってみていた。
私に聞こえたリュスの声は、間違ってるのかな…。
リュスが助けを求めているように見えるのはなぜだろう?
こんなことしたくないんじゃないのかなって思うのはなぜだろう?
泣いているように見えるのは、私だけか…。
「ねえ、リュス」
伸ばされた手を見ながら、エノリアは語り掛けた。
「泣けば…?」
ぴくりと彼女の手は震えた。
エノリアはもっと言葉が欲しいと思った。もっとこの人に語りかける言葉が……。
「好きな人が死んだって…悲しいことでしょう?」
エノリアは顔を上げる。
「誰にだって悲しいことでしょう?泣いているときは…きっといろんなこと忘れられる。自分が光《リア》を持ってることも何もかも」
リュスはナイフをおろした。
「そうしたら、少し、楽になるよ」
そうやって、感情を吐き出して。思いを吐き出して。
そうすれば何かを洗い流せる。
「リュス」
差し伸べようとした手は、ライラの叫びで動きを止めた。
「うるさい!」
振りかえると、カッと目を見開いた少女がいた。その瞳孔が不気味に縦に伸びるのを、エノリアはしっかり と見ていた。
「そんなことを言うな」
歯軋りをするような声。
「ライラ」
「貪欲でなくてはならないんだ。すべてを望まなくちゃいけないんだ。
それが光《リア》だろう?お前達人間がつけてきた価値観って奴だろう!」
そして、リュスを振りかえり、その手を取る。
「逃すものか。お前が私を生み出したんだ!
光《リア》に対する執着。迷い。すべて越えて、お前は望んだんだ!
自分の幸せだけを。恐ろしいほど貪欲にな!」
リュスは震える手で自分の口を抑える。
「私…」
「お前の貪欲な望みが…私を生み出した。それを忘れるな」
ライラはリュスを見上げる。そして、先ほどの口調とは一転し、やさしくささやく。
「私はリュスの罪の証なんだよ?あの瞬間に産まれたんだ。覚えているよね?」
ライラはふわりと宙に浮き、リュスの両方の頬をその手で挟んだ。妖しい双眸に覗きこまれたリュスは目を見開いた。
あの瞬間…。
彼の遺体。小さく細い手をしっかりと握った手の色を、今でも覚えている。
「私は…自分の片方の目を…えぐりとった」
リュスは呟きながら手を、髪で隠された前にかざす。
血が流れた。そんなことかまってはいられずに、彼を蘇らせる魔術をかけた。
光宮《ヴィリスタル》で知識として、教えられた魔術を。
「でも…足りなかった…。光《リア》はまだ足りなかった」
痛みのせいか、それとももう狂っていたのか…、他の巫女《アルデ》達に手をかけた。 「あの時。他の巫女《アルデ》を殺したとき…」
音は聞こえなかった。他の巫女《アルデ》の泣き声も叫び声も…覚えてはいない。
紅さだけ。
この手の紅さだけ…。
覚えている。
「この子が…その紅の中から」
「そう、よくできました」
にっこり笑って、ライラはリュスから手を離した。
「リュスはそれだけ考えてればいいんだよ?彼が蘇ることだけをね…?」
「馬鹿なことを!リュス、駄目よ。とらわれてしまっては!」
エノリアが身を乗り出した。だが、リュスはまた心の奥に沈んでしまう。
その場に力なくしゃがみこみ、そうしてエノリアを振りかえった。
「捕える?捕えたのはリュスだよ。私はね、リュスの闇《ゼク》にとらわれて産まれたんだよ?」
ライラはエノリアに近寄った。ごく間近まで顔を寄せる。縦に伸びた瞳孔が、金色の瞳に映った。
「人間は勝手だね?魔物が生まれた原因を…知りもせずに騒ぎ立てるだけ」
「どういうこと…」
「光《リア》が強まったってさ。原因がなければ闇《ゼク》もできないってことだよ…。わかるでしょう?」
息が一瞬止まった。ライラはそんなエノリアを見て、にやりと笑う。
「おりこうさんだね。お姉さんは」
ライラの手が、エノリアの手に伸びた。
「さあ、そろそろくれる?その目を」
硬直したエノリアの体。リュスが気を取りなおしたように立ちあがり、エノリアに近づき始める、ナイフを握りなおして。
ライラはにやりと笑った。
楽しそうに。
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