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「なんで、紫はあの偏屈と一緒に暮らしてんの?」
 囲碁を間に挟んで、松葉はそう聞いた。目の前の少女は松葉の突然の質問に、盤を睨んでいた視線を上げる。
「なんでって……」
 紫は柔らかな唇に指を当てた。松葉はそれをまぶしそうに見つめる。その仕種の一つ一つが目の前の人の心を捉えるもの。松葉の身は人のものではないから、この程度で済むのだろう。人ならば、きっと心は縛られたはず。
 紫はしばらく考えていたが、くすっと笑った。
「松葉さん。お師様を偏屈だなんて。怒るよ」
 くすくすと笑う紫に、松葉は唇をゆがめる。
「だってさぁ。偏屈だろ」
「偏屈なんかじゃないよ」
 紫は顔を上げて、にっこりと微笑んだ。
「幸せだよ?」
「幸せ、ね」
 松葉が興味なさそうに呟いて、碁盤をコツコツ叩いた。
「幸せだなぁって思わない? お師様見てるとね、なんかこう……」
 紫は自分の胸にそっと手を当てる。そして、ふと松葉に目を向けた。
「あるじゃない?」
 松葉はそんな紫を少ししらけた目で見ていたが、紫が少し目を開いてみせると、ふと思い出したように唇を開いた。
「……なんか、もわもわするとかか?」
「うんうん、そうそう」
「こう、心臓が」
「うんうん」
「ぐーっと」
「そうそう! ねっ」
「……幸せかぁ?」
 松葉の疑問の言葉にも、紫はにこにこと笑顔を見せていた。直視できずに、松葉は頬杖をついて視線をそらす。
「でもさ。自由になりたいとか思わないのか」
「……。お師様を縛ってるのは、私だよ」
 紫は白い石を盤に乗せながら、そういう。松葉を見ない瞳は、囲碁の目を移していた。白と黒の点。連なりを写して潤む。
「縛る?」
 紫は曖昧に笑ってみせる。
「匂いがしたの」
 ぽつりと紫は呟く。
「甘い香り。それに誘われて、この屋敷に来たの。そうしたら、お師様がいたの」
 紫は松葉へ目を向ける。彼女の外見は7、8歳の少女だ。だけど、ときどき驚くほどに綺麗な瞳で人を見る。紫の美しい瞳は、目の前の人を真摯に写す。
 松葉は心臓を押さえた。急速な加速に、息ができなくなる。
「寂しい人は、香りを放つ。それを手繰り寄せれば、私達は生きていける……」
 紫はそう言って、頬に手を当てた。
「母様がそう言ってたわ。それを思い出したの」
 松葉は紫の伏せられた瞳を見ていた。長い睫が紫の瞳に影を落とす。ゆらりと揺れる。美しく潤む。
 ひきよせられる。
「お師様、この縁側で目をつぶってたわ。私、ふらふらと寄せられてしまって。覗き込んだら……目が合った」
 ふっと紫のくちびるから息が漏れた。
「それで、終わり。私は本能的にお師様を捕らえちゃったんだ」
「本能?」
 紫は微笑んで、そして、また囲碁の盤に目を向けた。真剣に考えているようでもあるし、松葉の質問に答える気がない意思表示でもあるのかもしれない。松葉は大きく息をつき、ついで両腕を天に向け伸ばしたとき、懐ががさりという音を立てた。
 その音に紫が顔を上げ、松葉もその音に気づいて自分の懐に手を入れる。そして、そのとき表情が固まった。
「しまった」
「どうしたの?」
「これ、預かってたんだよな」
 松葉が懐から取り出したのは、紫もよく目にすることのある綺麗にたたまれた紙。ただし、よく目にするものはそのままお師様に渡すのだが。紫は小さな手を出して、それを受け取った。
「私からお師様に渡すね」
「なんで?」
「なんでって、これ、お師様にでしょ?」
 上質の淡い紅色の紙。したためられた香は……あまりお師様向けだとは思えない華やかさのある香りで、一瞬紫に違和感を覚えさせたのだが……恋文であろう。いつも受け取る恋文は、もっと艶やかな香りのするものが多いけど。
 松葉は首をかしげた。
「だって、それ、男からだろ?」
 紫はまじまじと恋文を見て、そして、また松葉を見る。
「……でも、お師様にでしょう?」
「……あの男には男からも文が来るのか。こんな風に」
 紫は反対方向に首をかしげる。
「ときどき」
「自分にっていう発想はないのか?」
 紫はそれこそ不可解な顔をした。
「どうして?」
「どうしてって、言われてもなぁ」
 松葉はその文をもう一度紫から奪い、その紙に鼻を近づけた。華やかな甘さのある香りの中から、一筋違う香りを見つける。
「これさ、ほら、あの夜の間抜けな男の……」
「間抜け?」
「俺が、ほら、操ってだな……その」
 松葉が言葉を濁す。人間を操ってこの屋敷を襲わせた一件のことを話し出すと、松葉はきまって伐が悪そうな顔をするのだ。
「あ、藤さん?」
「そいつだ」
「なんで、藤さんがお師様にこんな綺麗な紙で文を書く必要があるのかな」
「……」
「好きなのかな?」
 松葉は本気でそう呟いているらしい紫を見つめ、そして、碁盤の上の碁石を払いのけた。ぱらぱらという音に、紫が思わず身を乗り出す。
「松葉さん?」
「どうせ、紫の勝ちだっ。な、この恋文、紫宛だろ?」
「……えっ?」
 碁盤にぽんっとその紙を置く。
「お前あてだって。だって、その香り、お前によく似合うから……」
 頬をうっすらと赤らめて、語尾をかすれさせながら呟く松葉の心情などお構いなしに、紫は目の前に置かれた文をじっと見つめている。
 文。
 正直言って、紫はずっとそれがどんなものだろうと想像していた。
 お師様に来る綺麗な紙と綺麗な香り。触れたら少し暖かい気がして……。その文が来た夜は、お師様は必ずと言っていいほど外出して、そして、その香りと一緒に戻ってくる。
 寂しいと思う気持ちを、運んでくる物ではあったけど。
 様々な色。様々な香り。そして、ときどき季節の花が添えられたそれの美しさを楽しんでいたのも、事実だったりする。
 それが自分に送られてくるとは。
 紫は両膝に手を置いたまま食い入るように見つめている。
 ぴくりとも動かない紫を前に、松葉は呆れるように言った。
「中見れば?」
「えっ」
 その観察の仕方は、触れると痛いかもしれないと用心して、手を出せない物を前にした子供のようだ。松葉の言葉に、初めて「文とは中を見る物」という情報を得たように驚いている紫を見て、彼はぷっと吹き出した。
「開かないと意味ねぇだろ」
「そ、そうですよね」
 手を上げてそれを取ろうとしたとき。目の前にすっと影が降りてきて、長い指がそれを掠め取った。紫が顔を上げると、無表情にこちらを見下ろす1対の藍色の瞳。
「お師様」
 ぱっと紫の顔が明るくなり、にこりと微笑む。
「お早いお帰りですね」
「おいっ、お前!」
 紫の声色とは対照的に、怒気の含まれた松葉の声。
「それは紫のだろ! 返せよ」
「松葉、屋敷には入るなといっただろう」
 思わず縁に身を乗り出していた松葉に、男は冷たい一瞥をくれる。
「入ってねぇよ。どこが入ってるんだよ!」
「そこに触れるな」
「細けぇなぁ! ったく」
 ぱっと手を離して、不満だらけの表情で一歩後ろへ下がった松葉だったが、思いついたように顔を上げて、不遜に笑ってみせる。
「はぁん……。あんた、焦ってるの、そうやって誤魔化してるんだな?」
 男は話にならんとでも言いたそうに、息をついた。紫がはらはらと松葉と男を交互に見る。
「それ、紫宛の文だってわかってるんだろう?
 紫にさ、悪い虫がつきそうだから、焦ってるんだな?」
「……そうだな。悪い虫は早めに退治したほうがいいらしい」
 食らいつくような松葉に、男は体を向けた。そして、すっと右手を上げる。そこにふっと息を吹きかけると、ほのかに発光した。力が集まる。
「悪い虫って俺かよ!」
「身近な奴からさっさと退治だ」
「やめてください!」
 間に入って、紫が男に向き直る。
「お師様、その文、要らないですから! それに! 松葉さん、悪い虫じゃないです! いっつも遊んでくれる良い虫です!」
「虫かよ……」
「あああっ、違います。言葉の綾ってやつです!
 それに、松葉さんはお師様のこと好きなんですよ?」
「んは?」
 そう間抜けな声を発したのは松葉だったが、その台詞を直接向けられた男の眉も、いつもより上がっていた。
「……紫」
「ですよね? ね? 松葉さん、お師様がいると心臓がぐーってなるでしょ? ぐーってなるってことは、やっぱり……」
「うーあ、わかってねぇ……」
 紫には届かない小声も男には届いたのか、ちらりと呆れたような視線を松葉は受ける。悔しくて何かを言い返そうとした途端に、興味を失せたように背中を向けられた。
「お師様?」
「寝る」
「あっ、今ご用意します! 待ってください!」
 去っていく男を追いかける小さな足音。遠ざかるのを聞いてから、松葉はその場所にどかっと座り込んだ。
「ほんとにわかってねぇなぁ」
 呟いてから、ふと顔を上げる。ぽつりと頬に落ちる冷たさ。松葉は掌を天に向けた。
「……雪か……」
 世界が凍える季節になった。ふと松葉は目を細めた。
 冬になると……彼女が動き出すだろう。
 自分は彼女と繋がる者。名を与え、存在を留めさせた男のおかげでその呪縛は細く細くなってしまっているけれど。
 あの男が痛い目見るぐらいならどうでもいい。
 ただ、怖いのは。
(紫がなぁ……いるから)
 そして、この場所を失うことも怖いのだ。
 松葉はがっちりと組み合わせた両手を額に当てて、うつむく。地面から立ち上るような冷気。
(それに、もう遅いよな)
 彼女は手繰ることが出来るはずだ。
 自分がここにいたという残留思念とあの男の匂いから。
 来るだろう。
(その前に、紫があの男から離れてくれるといいのに)
 願い、空しい。
 松葉は大きく頭を振り、すっくと立ち上がると庭の大きな松へ足を向ける。名の通りそこを住処にしていた彼は、今一度屋敷に目を向けて、大きく息をついた。



「寒いですからね。もう一枚何か用意しましょうか」
 小さな体で、紫は大きな単を引っ張り出してきた。
「雪が降り出したな」
 男は遣戸を開き、外を見つめている。冷たい外気を身に受けつつ、そう言って動かない男に目をやって、紫は息をついた。
「風邪ひいちゃいますよ?」
「人ではない」
「わかりませんよ? ひくかもしれないじゃないですか。お師様も私も」
「……薬師をやってるんだ。薬ぐらい調合してやる」
 庭を見つめたまま、こちらをちらりとも見ない男を振り向かせることを諦めて、紫は傍らの火鉢を男の方へ押しやった。そして、そのままくすぶる火を見つめていた。
「でも、寒いとは思うのでしょう?」
 男はその言葉に少しだけ応じて、視線を紫へ向ける。
「どういうことだ?」
「寒いとか熱いとかは感じるんですよね? お師様」
「当たり前だ」
「じゃあ、暖かくするようにしてくださいね。寒いのは嫌でしょう?」
 少しだけ開いていた遣戸を閉めて、男は中へ入ってきた。紫の前に腰を下ろす。それを紫は気配を追うことで感じ取れた。視線はまま火鉢の火へ注がれていたので。
「嫌だな」
 頭へ落ちてくる言葉を合図に、紫はそのまま一礼をして去ろうとする。そこに男は声をかけてきた。
「紫」
 ようやく顔を上げた紫の前に差し出されたのは、さきほど男が取り上げた文だ。その意味を伺うように見つめる紫に、男は無表情のまま言う。
「お前のだ」
「でも」
 逡巡する紫を無視するように男は言葉を続けた。
「私がとやかく言う権利はないんだ。いや、このように取り上げることが間違ってる。受け取れ」
 紫はその手紙に手を差し出した。そして、触れる。触れて、顔を上げた。男の視線がどこへ向いているのかを確かめるように。だが、男はこちらをちらとも見ない。紫はそれに微かな落胆と怒りを覚えた。
「権利がないってどういう意味ですか?」
 男はしばらく沈黙を保った。紫は妙な静けさを負ったまま、男の顔を見つめる。
「藤は、お前のことを気にいってるようだった」
「だからどういう意味ですか?」
 伝わる怒気を打ち消すためだけの男の不用意な一言に、紫は噛み付いた。怒りがはっきりと現れた声色に、一番驚いているのは紫自身だった。それに気づいて、大きく息を吸う。そして、心を落ち着かせて、こちらを見ない男に聞く。
「この文を受け取って、色よい返事をしようが、どうしようが勝手だとおっしゃってるのなら……」
「そうだ」
「怒りますっ!」
 紫はその場に立ち上がって、足を踏み鳴らす勢いだ。
「お師様にはとやかくいう権利があります!」
 驚いたように上げられた男の視線。初めて見る感情の色だと思った。紫はその視線に訴えかける。
「とやかく言ってくださいっ」
「しかしお前、文が欲しかったのだろう?」
「違います。そんなことよりも大事なことがあるんです」
 言い切って、紫は男を見下ろした。
「綺麗な文もらうことより、私は、お師様にとやかく言われるほうが嬉しいんです。どうして分かってくださらないのですか!」
 頬を膨らませ、顔を赤くする紫を見つめていた男は、突如ふっと微笑んだ。怒っていた紫だったが、その表情の変わり目に、張り詰めていた気を緩ませてしまう。
「お師様」
 くくくっと笑って、床に文を置いて、もう片方の手で顔を覆った。笑いをかみ殺すような男を前に、怒りから一転した戸惑いを隠せない紫。その場に立ち尽くしてしまった少女に、男は手を差し伸べた。
 長い指を持つ綺麗な掌の真意が分からず、紫はじっと見つめる。
「寒いな、紫」
「……え、……はい。寒いです。だから、暖かくしてくださいねって……。私、別に文のことを話したかったわけじゃないんですよ。ただ、……暖かくしてくださいねって言いたかっただけなのに。寒いから……」
 男は、差し出した手で紫を側に招いた。不思議そうな顔をする少女は、一歩だけ男に近づき、伺うように見つめる。
 男は唇に薄い笑みを浮かべて、紫を見上げていた。
「ではお前が暖めてくれ」
「えっ?」
 聞き返す紫に、男は笑みを深め、自分の懐を指す。
「ええっ。どういうことですか!」
「こういうことだ」
 大仰に驚く少女を引き寄せて、男は小さな体を腕の中に収めた。
 抱きしめられるのは珍しくないのだが、床を共にしろと言われたのは初めてだ。途端、どんどん早くなっていく少女の鼓動に気づいて、男は苦笑する。
「で、で、でも、お師様っ」
「心配するな。子供には手を出さない」
「……えー」
「……手を出して欲しいのか」
「いっ、いえっ。お師様を『少女趣味の変態』にする気はありません」
「……どこから覚えた。そんな言葉」
「松葉さん」
「……あいつ、やはり……」
「あぁっ、嘘です。嘘です。なんとなく人伝えにちょっとだけ耳に入れました」
 あわてて訂正する少女に、微笑しながら男は抱きしめる。小さく柔らかい暖かさに対する感情は、男を戸惑わせ、苦笑させるが、その感情の揺らぎに少女が気づくことはない。
「お師様」
「なんだ」
「あったかいですね」
「そうだな」
 紫は微笑みながら男の胸に頭を摺り寄せた。くすくすと笑ってから、ふと見上げる。男の紺色の瞳は、そんな紫を見下ろして問うような動きを見せた。
「どういう風の吹き回しですか?」
「どういうとは?」
「だって、なんだか、変です」
 勘ぐるような紫に、男は内心ため息をつく。だが、それは表には出さず、ふと視線をそらして見せた。
「……お前に来た手紙のせいだろう」
「えっと……、もしかして嫉妬ですか? 嫉妬してくださってるんですか?」
 その問いに答えず、誤魔化すように視線を合わせぬ男に、紫はにんまりと笑った。
「でも、やっぱり変ですね」
 男はちらりと紫を見た。
「何が」
「……なんだか、とても……。ぽかぽかして……」
 語尾が薄れてきた紫の言葉に男は目を細めた。そして、その頭をすっと撫でる。瞼が重そうに落ちてきて、少女はしきりにその目をこすった。
「なんだか。眠い、です」
「眠いのなら眠るといい。私もすぐに眠るから」
「やっぱり……変。そんな風に、優しいなんて……。でも……、嬉しいな……」
男は紫の目に手をかざした。光を遮断して、紫が眠りやすくする。そして、胸の中に抱いた小さな体が、規則正しい寝息を繰り返しはじめたのを感じて、男はゆるりと手を離す。
 少女の寝顔に視線を落とし、その頬をそっと撫でると、男は一転して鋭い視線を庭に目を向けた。
 刺すような視線は、その異変を見つめていた。
 音が消えている。雪が積もる音も、気配も消えていた。
 さらに男は目を細くし、眉間に力を込める。
 日はまだ落ちていない。
 なのにこの暗さはなんだ。
 男は息を吸い込んだ。少女を包み込むように抱きしめて、固く閉められた遣戸に目をやる。
 息を止める。



 かた、かた。



 男の視線の先で、それは音を立て始めた。


 かたかたかたかた。
 かたかたかたかたかたかた……。――ぁ、ま……。
 かたかたかたかたかたかた……。―たぁ、さま……。
「誰も、入れぬ」
 囁くように、しかしそこに確固たる力を込めて男はそう言った。途端、その音は止む。戸の動きは止まり……そして。
 だんっ!
 何かがぶつかる音と同時に戸は大きくゆがんだ。その音の大きさにもかかわらず、紫は目を覚まさない。
 戸を突破しようとする何かを押し返す力をこめて、男は戸を睨みつける。
「松葉」
 有無を言わさぬ低い声。男は藍色の瞳を強く光らせた。
「お前が、ヤレ」
 瞬間、その遣戸の向こうで甲高い、そして、尾を引くような悲鳴が響き、空気を細かく振るわせる。思わず耳をふさぎたくなる、脳裏に焼きつくような不快な音だ。
 ずしっ。
 空気が重くひしげる響きがその音を打ち消した。その直後に広がっていくのは、不気味な穏やかさを孕んだ静けさ。
 男は視線にこめていた力を和らげる。
「松葉、いるのだろう? 許す」
 低く響く静かな声のあと、ゆるゆると開く戸の向こう側は、一面白く輝く世界となっていた。その白さに重なるように、少年が立ち尽くしていた。
 その右手に長い髪の束を下げて……。そこから、ぽとりと雫が落ちる。
 赤。
 白と赤。赤い雫。
「……お、れ」
 呆然としてそれを握り締め、ゆっくりと持ち上げて男に示す。どうしたらいいのかと問う少年の瞳に答えずに、男は目を細めた。
「『それ』だけか。来ていたのは」
 男がそう聞くと、松葉はこくこくと頷いた。
「おれは……」
 蒼白な顔で、松葉は男を見つめた。処断への覚悟と恐怖を織り交ぜた表情を、男は冷めた目つきで受け止めただけだ。
「言っただろう? 私はお前を飼うと。それだけだ」
「おれがここに居ると、コレが」
「私に紫との約束を破らせるな」
 男はそう言う。松葉は眉を寄せて、自分の手にある髪を持ち上げた。雫が落ちる。
 その雫を見下ろして、松葉は再び男に言う。苦しみに喘ぐように、かすれた声で。
「呼んでるんだ。俺が」
「わかっている」
 男はため息混じりにそう言うと、泣きそうな目をしている少年を見やった。その瞳の柔らかさには、誰にも気づかないだろう。向けられている少年にも。
「今、お前を放り出しても、お前を殺しても、そいつはやって来る。大差ない。
 わかっているのだろう?」
 松葉はこくりと頷く。
「だけど、紫が」
「紫に手は出させない」
 男は松葉に手を向けた。一瞬だけびくりと震えた松葉の手にある髪の先が、ちりちりと音を立てはじめた。
「守るためなら、お前は切り離す。ただそれだけだ」
「……そんなの、当たり前だ」
 松葉の言葉に、男は唇をゆがめて笑みを作った。松葉は自分の右手でゆっくりと燃える髪を見つめていた。男はそれが燃え尽きたのを確認すると、大きく息を吐き出し、改めて松葉を見る。
 まだそれを凝視している松葉。その意識がどこか深く深く落ちていく様を見て、男は何もない空間を松葉に向けて弾いた。
 小さな音がして、松葉は額に走った痛みに我に帰る。額を押さえた松葉に向かって、男が掛けた言葉には、いつもと変ら嘲笑うような響きがあった。
「何をつったっている。用は済んだ」
 松葉は額をさすりながら、少し潤んだ瞳を男に向けて仏頂面をする。
「って、本当にあんた、自分勝手だなぁ。人を呼んどいて」
「ちゃんと番をしておけよ。私はもう寝るんだからな」
「……そのまま、寝るのかよ」
 痛みに悔しそうにしながら、少年はぼそぼそっとくぐもった声で聞いてくる。男の顔を見、その腕の中で眠っている紫を見て、再び意味深な視線を男へ向けた。
「何が言いたい」
 男の突き放すような返答に反撃の機会ありと判断したのか、松葉はにやりと笑った。
「やっぱりさ、『少女趣味』の『変態』なんだな」
「……前言撤回だ。大差ないなら殺してしまった方がいい」
「本当のことだろっ」
 べっと舌を出してから、松葉は後ろ向きに飛び跳ねて、姿を消した。
「あんまり悪さすんなよ。まだ、ちっちゃいんだし、かわいそーだからさ」
 響きだけが残った言葉を、鼻で笑う。
 生まれてからまだ三月も経っていない子供の言い草には、苦笑するしかなかった。
 男は遣戸に掌を向ける。少しだけ空いていたそれが静かに閉じるのを確認してから、男は紫に気を使いつつゆっくりと身を横たえた。
 何もなかったように眠り続ける紫を見て、男は眉を寄せた。細い髪を指に絡め、濃い紫色の光にそっと唇をつけた。平穏な寝顔に心が緩む自分を嘲笑いたくなる。
(だから、守らねば)
 この揺らぎは誰にも悟られぬように。
 『あれ』は、確実に近づいてきている。
 松葉が握り締めていた髪を思い出しながら目をつぶる。
 『あれ』は、もう人ではない。否、自分が作り出したあそこから、思念の一部だけでも飛ばせるようになった時点で、人ではない。
 また、松葉を作り出した時点で、人ではなく、鬼でもない……。
 男は少女を包み込む。
 徐々に歩み寄りつつある、『あれ』の気から遮断して、包み込む。紫の気を自分の気配の一部に出来れば、『あれ』の目も誤魔化せるだろう。
『私だって殺せばいいじゃないですか……!
 そうしたら、お師様、もっと自由に、生きることができるじゃないですか。こんなところで、こんなことしてなくてもっ』
 不意に脳裏に浮かんだ言葉を苦々しく感じていた。
 これが答えだ。
 殺せもしない。
 お前を巻き込むことを恐れながらも、手放すこともできないのだから。

 

 日が差し込む。明りに瞼をくすぐられて、紫は目をうっすらと開いた。
 周りを緩慢に見渡して、いつも目覚めと共にある風景でないことに気づく。気づいた瞬間、がばっと身を起こした。身を起こした瞬間に、肩から少し重さを持ったものが、するりと落ちた。それを手にして、思い出した。
 それは昨日、自分の師が着ていた衣。
 ふと、自分の体に視線を落とす。二の腕にそっと手をやる。眠りのなか、ずっと暖かな思いをしていた気がする。柔らかい感触……否、空気に包まれていた。
 そう、暖かい。体が温かい。心が温かい。
 そっと胸に手を重ねて目を閉じる。
 泣きたくなるぐらい、温かい。
 だが突然、紫は思い出す。既に師の姿はないということは……師は自分よりも先に起きた。その事実にもう一段階意識が覚醒した。
「いけない」
 先に起きて、さっさと行ってしまったのだろうか? 見送りも出来なかったなんて最低だ。
 遣戸を、その小さな体から出ている力だとは思えぬほどの勢いで開けた少女の目の前に、真っ白な世界が広がっていた。
 自分が焦っている理由も忘れて、歓声を上げた。
「うわー。まっしろ!」
「遅いぞ、紫」
 声をかけられて紫はそちらのほうへ顔を向けた。松の木の枝に腰掛けて、こちらを呆れたように見ている松葉の顔に、紫はにっこりと笑う。
「おはようございます」
「あんまりはやくないけどな」
 よっと声をかけて、松葉は雪の上にふわりと降り立った。裸足の足が雪に触れて、とても冷たそうだが、本人は特に何も気にしていないようだ。
「あいつはもう出掛けたぜ」
「そうなんですか。やっぱり……。なんで起こしてくれなかったのかなぁ」
「あまりにもすやすや寝てたから、放っていくってさ」
「あーあ……」
 露骨にがっかりとして、肩を落とす紫の鼻先に、松葉は紙を突きつけた。
「ん」
「何?」
 紫は突きつけられたその物が何かを確かめようとして、寄り目になってしまった。その表情に思わず吹き出しながら、松葉はすっと手を引いた。それでようやく紫は、松葉が何を差し伸べてきたのかに気づく。
 淡い紅色の紙。綺麗に折りたたまれたそれは……文だ。
「文?」
「……渡せって頼まれた」
 捨ててやろうと思ったんだけどさ……と口の中でもごもごという松葉の言葉には気づかない。紫はそれをひったくるようにして受け取ると、中を開く。
 微かにする芳香。その中に一筋のよく知っている香りを見つけて、紫は目を輝かせた。
「お師様からだぁ……」
「昨日の今日で、そう来るか?
 やること気障ったらしいんだよなぁ。あいつはさっ」
 ぶつぶつという松葉をよそに、紫はその場に座り込んで嬉々として中を開く。上気する頬を横目に、松葉は面白くなさそうに舌打ちをした。
 紫から何か、その内容に対しての感想が聞けるかと、ちらりと思い、足で雪を蹴りながら松葉はその間をつぶした。
 だが、うんともすんとも言わずに、紫はその場からぴくりとも動かない。しびれを切らして顔を上げた松葉が見たのは、彼の想像とは違う方向の感情をあらわにしている紫だった。
「む、紫?」
「……お師様……」
「お、師様が? どうした? どうしたんだよ、紫」
「何にも書いてくれてないぃ……」
 ある意味、その程度で済んだのかとほっとして、松葉はにやりと笑った。
「なんで笑うの! 松葉さん」
「いやぁ、だって。あいつが紫に恋文書くほうが信じれないねぇ」
「ちょっと期待したのになぁ……」
 と、呟いた紫だったが、気を取り直すように顔を上げると、よしっと両拳を握り締めてその場に元気よく立ち上がった。
「今日の目標は、お屋敷を綺麗にすること! 帰ってきたら驚いてもらうんだっ!」
 そう言って走り出した少女をみて、松葉はくすりと笑った。
 紫が不満を残しながらも、しっかりと握り締めていった文から漂う残り香を辿って、松葉は唇に手を当てる。
「ま、でも。十分、恋文だと思うけどね」
 雅やかな風習などよく知らないが、穏やかで気品のある香りだと思う。自分が知っているあの女の香りとは全然違う。
 勝手な解釈をすると、あの男は怒るだろう。だけど、そう解釈せざるえないほど、この香りは成長した紫によく似合うんじゃないかなと思った。
 艶やかな濃い紫色の長い髪、深い紫色の瞳。すべるような白い肌に、形よくふくよかな薄紅色の唇。
 松葉が想像しうる限りではあったけれど、きっとよく似合う。
 ちょっと息をつきつつ、己の住処である松を見上げた。
 それを俺に届けさせたってことは……、そういうことじゃないないのか?
 そして、無造作に頭をかき回し、ひょいっと枝に飛び乗る。そこから、屋敷を元気よく駆け巡る紫の気配を感じつつ、唇に笑みを浮かべる。
(くやしいから、教えてやんないけど)
 赤い南天の実が、ぽとりと音を立てて、真白な雪に落ちたのにも気づかず。
 白に、赤が混じることにも気づかず。
 微笑を浮かべて、大きく伸びをした。

 

【終】

 
>あとがき
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