帰っておいで。
帰っておいで。
戻ろう。
待ってるんだ。
天は美しく君を惹きつけ、
私は天の君に惹かれる。
君の欠片は私を慰め、
君のいとし子は私に歌をくれた。
君の欠片が沈黙して、
君のいとし子は私を赤く汚す。
だけど私は君に惹かれる。
帰っておいで。
帰っておいで……。
私に触れて、私と共に生きて。
私と共に、風を生んで……。
だから、帰っておいで、ここへ……。
タウ……。
小さな囁くような声が遠くに聞こえた。タウはその音を何かの合図のように聞いていた。
声。
あの声。あの響き。あの……優しさ。
ヨバルス……。
声はくれなかったけど、ヨバルスは暖かく包んでくれた。あの感触を思い出した。
タウ……。
(そうかぁ……)
一緒なんだ。
記憶の奥底にしかないけれど、思い出せば思い出そうとするほど曖昧になってしまうけども、その声の響きは。
(お母さん……)
シグを産んですぐに亡くなったお母さんの声に似てるのかもしれない……。
もう1度、呼んで欲しい。そうしたら、起きるから。
僕、起きて、今日も1日笑って過ごすよ。
ヨバルス。
ぼやけた思考を遮る様にして頬に弾けた冷たい感触で、タウは目をぱっと開いた。目の前は緑色にぼやけていて、もう片方の頬は湿っぽいものに押しつけられている。
動く左手で近くをまさぐる。ひんやりとした感触が指先に伝わった。草か? この目の前の緑色に焦点を合わせて再認識する。草で、地面で、それから……。
そのままゆっくりと地面をさぐると、ふいに柔らかくて暖かいものに触れた。
あれ?
「そのまま! 動いて見なさいよ。噛んでやるからねっ」
タウははっとしてその場に身を起こした。瞬間、腕に走った鈍い痛みに顔をしかめ、その場に座りこむ。そうして、声のした方へ首を動かした。イクロが両腕で身体を支えて、身を起こすところだった。
柔らかいと思ったのはイクロの頬だったらしい。イクロがふぅっと息をついて、タウと同じようにその場へ座りこんだ。タウは自分の掌を目の前にかざす。
「あれ」
イクロが唇の端を吊り上げて、据わった目でこちらを見ていた。
「よかったわね、タウ。触ったのが顔じゃなかったら首しめてたわよ」
乾いた笑いで誤魔化しながらタウは上を見上げた。折り重なるようにした木の枝の隙間から少しの光が差しこんでいる。
この風景は見たことがある。最初に地に降りたときの風景でもあるし、ファイとラグ国の城下町に行く途中に通った風景でもある。つまりは、森の中ということだ。
「どうして」
返答を期待しない呟きだったが、イクロは同じように上を見上げながら答えた。
「なんだか知らないけど、私達、風に勝手に運ばれたみたい」
落ちついた響きに、思わずタウは『ふーん』と無感情な相槌を打つ。
「ここの風は本当無口ね。気まぐれで助けてくれたり、放り出したりね。うーん、なかなか空には帰れそうにないわ」
イクロの答えを聞いて、タウは視線を戻す。そしてようやく自分の右手に握り締めているものに意識が行く。
それはもう、一つの葉もつけていなかった。イクロがそれを覗きこんで、ふと目を細める。
「……最後の力だったみたいね」
「ヨバルスに返そう」
強くそう言ってから、タウは周りをもう1度見渡した。
「どうやって天へ帰るかだよね。風をまた根気よく探すしかないのかな」
「どうしようか」
イクロとタウは額を突き合わせるようにして、お互いに考えをめぐらせている。
「風、もう1度呼べないかな」
「ヨバルスの一枝、使えないかしら」
「同じように上手く行くといいけどね」
「そうよね……。ここらへんの風は中々……」
と、イクロは辺りを指差しながら探りだした。タウはタウで腕を組んでうなりはじめる。やがて彼女がその指を1点に指し示したまま動きを止めたことをタウは気づかない。
「でもさー。これでさ。みんなが争わなくなるといいね」
「あ……」
「みんな信じないかもしれないけど」
「う……」
「帰ってヨバルスに会って早く安心させないとねっ」
「た……う」
「さっきからなんだよ。聞いてるの? イクロ!」
「ばかばかばかばかタウ! 落ちついてる場合じゃないのよぉ」
イクロが左手の指をタウの後方へ指し示したまま、泣きそうな顔をして、右手でタウの二の腕にしがみつく。それをタウは至近距離できょとんとしてみていたが。
この緊迫感、とても懐かしい。
あることに思いついて、タウの顔は強張った。視線でイクロに聞くと、イクロはタウの言いたいところを察して、コクコクと小刻みに揺らした。タウは恐る恐る、顔を自分の後方へ向ける。
あ
懐かしい大きな影。4本のしっかりとした四肢は地面に突き刺さる様にして立っていた。影を落としているのは大きなお腹。タウとイクロは同時に視線を上げる。
「竜だっけ?」
イクロがタウの首をしめる。
「どうすんのよおおお!」
「待って、イクロ!」
竜は長い首をゆっくりと動かして、タウを見下ろした。だが、あのときの竜の様子とは違う。彼らを見つけて、何かをしようという気は無いように思えた。
「様子が変だよ」
「へ」
タウはイクロの両手首を掴んで、自分の首からはずした。
大きな目が瞬いた。大きな金色の瞳には穏やかな光が浮んでいるように見えて、タウは力を抜いた。
「どうしたの?」
思いきって問いかけて見る。竜は目を1度つぶり、そしてまた開いた。イクロはそのたびに怖がるのだが、タウは平気だった。
「僕たちに、何か用ですか?」
「あのころよりは冷静になったようだね」
タウは目を見開き、イクロは少しだけ飛び上がった。急に落ちてきた声は、竜のものではないようだった。それは、竜の口の位置からではなく、もっと後方から響いたからだ。
イクロはタウに身体を寄せた。怖がっているわけではないだろうが、少し不安の表情を見せる彼女の手を握り締める。
二人でその方向を見定めていた。今度は思いきったようにしてイクロが声を出す。
「誰?」
「怖がらなくても良い。ヨバルスの歌姫。私もこれも、君たちを傷つける意志はないのだからね」
ひどくあやふやな印象なのに、くっきりとした響きを持ってその声は彼らに届く。言っていることは分かる。だけど、どんな声という形容の難しい声だ。
「姿を、見せてよ!」
「もっともだ」
苦笑気味に響いた声と同時に、竜の後ろから人影が動き、現れる。イクロとタウは同時に目を開き、つぶやいた。
「お母さん」
「おばあちゃん」
声が重なって、2人は顔を会わせる。
タウの目の前に現れた人、それはタウが小さな頃に失った母の面影を持った人だった。勿論、顔なんておぼろげにしか覚えていない。だけど、タウの思い出す母の面影そのものである。
タウの母とイクロの祖母が似ているはずが無い。イクロの祖母はタウの祖母。同じだから、タウもよく知っている。
「イクロ?」
「タウ、目は大丈夫?」
2人でお互いを心配するように見つめていると、その人物は笑い始めた。彼女が笑うと周りの森のざわめきも強く耳に残る。
「お母さん」
「いや、すまない。私は厄介なことにその人にとって1番安心できる人の姿に見えるらしい」
穏やかな表情で彼女はそういうと、その人物の輪郭がゆらりと揺れた。
「そうだな。このあたりにしておこう」
そう言って、まるで幻のようにあやふやだったその人の輪郭が、もう1度人型に収まっていく。
それが終わったとき、二人の目の前には長い黒髪の青年がいた。切れ長の瞳の色も吸いこまれそうな漆黒の色。そして、整った容貌はとても冷たく感じられた。だが、その唇に微笑を浮かべるとその印象は柔らかくなる。
「あなた、誰?」
イクロがそう聞くと、タウも頷く。
「名前はない」
彼はそう言うと、竜の首をやさしく撫でた。すると竜は首を1度振ってゆっくりと方向を転換する。そして、翼を上下させる。生まれた風にタウとイクロは耐えて、竜の行動を見ていた。翼を2度振ると、重たそうな身体がふわりと浮く。物言わぬ風を生み出しながら、竜の身体は木々の枝をぬって空へ上昇して行った。竜の身体は木々の枝を傷つけたり折ったりしない。森が竜の為に道を開く様に、枝を引っ込めたりしているのだ。それは不思議な光景だった。
竜が木々へ吸いこまれるように姿を消すのを見送ってから、彼はタウとイクロへ向き合った。
「座ろうか?」
そう声をかけてもイクロとタウは動かなかった。彼はその場に腰を下ろす。手をついた場所に生えていた草へ軽く微笑んだのを、タウは見逃さない。裾の長い服を流れるような動きでさばいて、彼は地面に胡座をかいた。
じぃっと見ていたタウの視線に気づいたのか、彼はタウを見て目を細めた。微笑を浮かべたわけでもないのに、タウは自分の顔から力が抜けるのを感じた。彼は二人に座る様に手で合図する。つられてタウもイクロもその場にぺたんと座りこんでしまったのだ。
「私に名はない。姿も本当はないのだ」
二人を交互に見るようにして、彼は語った。膝を抱えて小さく縮こまる様にして座っていたイクロが、しばらくして小さく聞く。
「……じゃあ、何なのって聞けばいいの?」
「そうだな。それなら答えられるかもしれない」
長い指の手を胸に当てて、青年は少しだけ頭を下げた。
「大地」
「……大地」
青年は顔を上げる。ふと微笑みがこぼれた。
「この大地」
「大地って、これ?」
イクロと同じように膝を抱えていたタウがきょとんとした顔で足元を指差す。と、青年は吹きだすのをこらえるようにした。
「そう。その大地」
「……えっとぉ」
イクロが額に指を付きつけて、首を傾げる。
「うーんと、大地がそういう姿をとってるとかそういうこと?」
「それが1番近いな」
青年は目を細めた。長い髪を後ろに振り払って、二人を穏やかに見つめる。
「竜が私達を連れてきてくれたっていうのは」
「君達に会いたくて。気配はずっと追ってたんだ」
青年は目を細めて微笑んだ。穏やかさに華やかな印象が加わって、二人は一瞬見とれてしまう。
「彼女は、元気?」
「彼女?」
タウはほーっと青年の表情に見とれながらそう聞き返した。深い笑顔。
優しい、笑顔。
「ヨバルス」
ほーっとした気分はその答えで吹き飛んだ。タウは抱えていた膝を離して前のめりになる。
「って、ヨバルスを知っているの?」
「勿論。彼女の波動をずっと感じてた。そう、ほら君が持ってる枝だ。君……タウ、だね?」
「なんで僕の名前」
前のめりになった身体を少しだけ起こして、タウは眉をひそめて聞く。
「それが教えてくれてる。そのヨバルスの一枝と、君のここにある枝と……」
自分の胸を指し示しながら、彼は言う。
「種」
「!」
タウは立ちあがった。イクロがタウと青年を見比べて、おろおろとしていたが、タウに従う様に立ちあがる。気色ばむタウの表情にも青年は態度を崩さない。
「君たちが存在する前から、私は彼女を知っていたよ」
青年は微笑む。そこに今までの微笑みに哀しみが加わったことにタウもイクロも気づかない。
それぐらい小さな変化。
それはどういうこと? と聞こうとタウが息を軽くすったときに、彼はタウを見て言った。
「もともと彼女はここに居たんだからね」
タウとイクロが目を見開いた。
「ヨバルスがここに居たの」
イクロの問い掛けと自分の鼓動が重なった。タウはぎゅっと胸にかかった袋を握り締めて目を瞑った。掌に伝わる熱さを感じながら、タウの耳には青年の穏やかな声が流れこんでくる。
「空に憧れた彼女を私は止めることが出来なかった。1番手放したくない彼女を、私は手放して空へ送った。いつか、帰ってきてくれると信じながら」
天は美しく君を惹きつけ、
私は天の君に惹かれる。
君の欠片は私を慰め、
君のいとし子は私に歌をくれた。
「種を私にくれるね?」
タウは目を開いて、彼を見下ろした。黒い瞳には穏やかさと、その奥には小さな光と。
焦がれ続け、待ち続け、抑え続けた強い思いがタウに伝わる。
タウはぎゅっと袋を握り締めた。強くなったり弱くなったりするその熱さは、まるで鼓動の様だ。
「どうして?」
タウは叫びたい衝動を抑えて、そう聞いた。少し声が上擦ってしまってかっこわるいと思う冷静な部分が奇妙だった。
「種を持ってきてくれたということは、帰ってきてくれるということだね?」
青年は座ったままタウに手を伸ばした。
「そうだろう? ヨバルス」
「僕はそのために種を持ってきたんじゃない! 地上に降りてきたんじゃないよ!」
タウは袋を握り締めた。熱い。
前よりも熱くなっている。
「僕は、ヨバルスの為に。天に居るヨバルスが悲しまないように……、僕はそのためにっ!」
じんじんとまるで何かを主張するように種の熱さは強くなりつづけた。
だけど私は君に惹かれる。
帰っておいで。
帰っておいで……。
私に触れて、私と共に生きて。
私と共に、風を生んで……。
だから、帰っておいで
ここへ……。
|