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◇
「今夜、出発しましょう」
食事を終えて、ユセがそう提案した。提案というよりもほとんど決定事項を読み上げたように聞こえた。食事が喉を通らずにいたエノリアが、まだ多く残っている自分の皿から視線を上げる。
「今夜ですか」
「貴女のことを見ていた人たちがいます。
ミラールさんを寝かせたまま行けるように荷馬車は手配済みです」
「随分急ぐんですね」
それが必要だという気はしていたが、思わず言った言葉にユセは頷いた。
「ミラールさんをこの地から離したいんです。
できるだけ街を避けて行きたいですね」
どこに、とは言わないユセをじっと見つめる。
問われたら?それよりも、どこにと聞かない自分が不思議だった。
自分の中には一つの答えがある。
(シャイマルーク)
傷ついたランの背中、眠り続けるミラールの堅く閉じられた瞼を思いおこし、迷う。
(でも……)
ユセがどこにいくつもりで話をしているのかを聞こうとしたとき、ユセが一瞬胸を苦しそうに押さえた。
まずい、と唇が動き、エノリアが心配して身を乗り出したとき、巨大な岩が降ってきたような衝撃と音に体が揺れた。
その衝撃は波状に辺りの空気を掻き乱し、目の前の世界が縦向きに揺れた。
「っ!」
小さな悲鳴が思わずもれた。卓上につかまり、崩れかけた体勢を戻し、ユセへ視線を戻す。
何が起こったのか聞く前に、ユセは既に動いていた。扉に駆け寄る。だが、その扉に手をかけようとした瞬間、それは外側から圧力を受け勢いよく開け放たれた。
目を見張るのと同時に、その扉から黒い無数の影が飛び込んできた。鳥? その物体の正体を確認する間もなく、ユセが何か小さく言葉にし、鋭い力に引きちぎられるようにして、物体は霧散する。
「ユセ、さん」
同時にユセが扉を閉じた。
どん!どん!と大きな木槌で叩かれるような扉に、ユセはじっと掌を押し当てていた。
扉の向こうから伝わるのは、人々の喧騒。驚きが混乱に変わり、不安と恐怖の悲鳴が聞こえる。
「な、にが……」
ターラ山の麓で出会った魔物たち。あれは、ミラールから……。
ユセを見上げたとき、ユセは既に何かを判断済みだった。
「ここに居てください」
そう言ってからユセは険しい顔で何かを呟く。風がユセを取り囲むように生じ、同時にユセは再び扉を開け放った。足を踏み出した瞬間、風が四方に渦巻いた。まだ残っていた黒い鳥たちは霧散する。
ユセはそのまま部屋を出て行った。エノリアが扉の向こうに見たのは、傷だらけで倒れた人々。うめき声に眉を寄せる。既に魔物は通り過ぎ、残りはユセに散らされて、ここには影がない。通り過ぎていくと思うのは、悲鳴がだんだん遠くなっていくからだ。
エノリアは自分の手首をつかんだ。全身が震えていた。あの悲鳴を上げている人たちが、どのような目にあっているのか。目の前の倒れた人々が傷の痛みにうめいているのを見ていると、恐ろしくなる。
目の前の人をなんとかしなくてはと思う気持ちと、遠くから聞こえる悲鳴をなんともしようのない気持ちと、その間で動けないでいた。
エノリアははっと顔を上げた。
ミラールは。
傷ついた人々へしゃがみこみ、慣れた手つきで応急処置をしていくユセとは逆に、エノリアはようやく動けるようになった足を2階へ続く階段へ向けた。
「エノリアさん!」
ユセがそれに気づいて制止の言葉をかけるが、エノリアは階段へ駆けつける。
2階へ上がろうと顔を上に向けた時、頭上から床が軋む音がして、ふらりと影が落ちてきた。
「ミラール!」
目が覚めたのだとこみ上げる安堵を押しつぶすように、ミラールの顔は空ろだった。
「ミラール?」
「……エノリア」
弱弱しく微笑むミラール。蝋燭の炎が、ミラールの顔に揺れる影を作り出す。
揺れている。ミラールも。そして、私の中にある、『ミラール』という人物の形も。
「何なの……。どうしたの!?」
「僕は……」
ミラールは震える手を自分の目の前へかざした。
「僕は……ランを……」
「ラン……」
そうだ。この騒ぎに何故ランが気付かないのだろう。ミラールの側にいたランが、どうして黙っているのだろう?
その考えはエノリアの全身に震えをもたらした。
ミラールはゆっくりと階段を下りる。一歩一歩踏みしめるように。エノリアは、後ずさろうとする自分の体の感覚を信じられないような思いで噛み締めていた。
逃げたい。
どうして。
だけどその一方で、ここで一歩でも下がれば何かが終わるような気もしていた。
「……食べてしまった」
ミラールは目の前で立ち止まると、そっと手を伸ばしてくる。握られた手のひらをゆっくりと開く。
揺れる蝋燭の光を受けて、ぬらりと濡れたように光る石が、血を連想させる。赤い石。それはランの……。
食べてしまった。その意味がわからない。
わからない。繰り返しながら、エノリアの体は揺れ、右足が一歩後ろへ下がりかける。
悲しげに笑いを吐き出したミラールが、ミラールなのにミラールではない。
いや、違う。
(これが、ミラール)
揺れならがらも両足を踏ん張った。
「……たべ……」
「嘘だよ。
少し、眠らせてるだけ……」
囁くようなミラールの声に、エノリアは瞬きもせずに真っ直ぐに見返す。
「ランは無事。邪魔だから眠ってもらってる。……安心、した?」
「邪魔……?」
何の邪魔?
口が開いたままのエノリアに、ミラールはくすりと笑った。いつもと変わらない。優しいミラールの笑顔が、いまはとてもとても……。
「怖い? 僕が」
エノリアは大きく首を振った。心の底からこみ上げてくる焦りと不安を押しつぶす。『どうして』埋め尽くされる思いを追いやって、エノリアはもう一度かぶりを振った。ミラールが、一歩踏み出す。
「怖いでしょ? よくわからないもの」
「怖い? 怖いんじゃないわ」
エノリアはミラールに歩み寄った。その腕に手をかける。
「すごく、悲しい顔をしているから」
「悲しい……? 僕が?」
ふっと笑って、そして、ミラールは目を伏せた。
「怖いんでしょう?」
「……怖くないわ」
「知ってるのに?」
ミラールが、小さく笑って自分にかかっているエノリアの手に右手を重ねた。
「僕が、何をしたか知っているのに?
この魔物を飼ってるの、僕なのに?
たくさんの人が死んだ原因は僕なのに?
……ランを傷つけたのは、僕なのに?」
「そんなの嘘よ!」
ミラールは眼を丸くした。
「たとえそうでも、ミラールが……。
そんなこと、したいわけじゃないって……ミラールが思ってるじゃない」
ミラールは一瞬上を仰ぎ、両手で顔を覆った。
「ねえ……エノリア、僕のこと、好き?」
両手をそっと外して、ミラールは脈絡のないような質問をしてくる。エノリアは、真剣な目をしたまま、頷く。
「好きよ」
「そう……」
ミラールは泣きそうな顔をしながら笑った。ふっと短く息を吐いて、ぐっと目に両拳を当てる。
「僕も、僕も好きだよ」
歎きを吐いて、ミラールはエノリアに手を伸ばした。引き寄せられて、息も出来ないぐらいに抱きしめられる。
「ミラ……」
「信じて……。忘れないで。ずっとずっと忘れないで。
僕は、ランも、エノリアも、ラスメイも……大好きだ」
エノリアは身じろぎ一つしなかった。抱きしめる腕の力が強くて、苦しくて……でも、耳に囁かれる言葉は、すべて真実だと感じたから、一つも漏らさずに心に収めた。
「ごめんね……」
何故そんなに苦しそうなの。何故そんなに悲しそうなの。
なんで、謝るの?
まるで、別れを告げられているような声音に、エノリアはミラールの背中に手を回し、服をぎゅっと握り締め、見上げる。
見上げたミラールの顔には、所々小さな傷があり、血がうっすらと付いている。特にその唇の赤さに目を奪われる。
「どうして、謝るの?
どうして、泣くの。
どうして、そんなに悲しそうなの。
ミラール。言ってくれないとわからないよ」
「言っても、わからないよ」
「そんなの、わからないじゃない。
わからないかもしれないけど、でも……そんなに苦しそうなら、ちゃんと言って欲しいよ。
その苦しさを実際にわかることはできないかもしれないけど、でも!」
背中に回した手に力を込める。ミラールが泣き出すのかと思った。揺れた瞳の光に、切なさがこみ上げる。
「ミラールは、いつもそうだわ。
欲しいものを欲しいって言ってくれない。
苦しいときに苦しいって言ってくれない。
心配かけまいって、迷惑をかけまいって笑って……。でも、それって貴方を愛している人からしたら、苦しいのよ。
たまには苦しいって言っていいのよ。
悲しいって言っていいのよ。
欲しいものを欲しいって言っていいのよ」
それでもミラールは言わないのだろう。
唯一何かを語ろうとしていた瞳を伏せて、こちらとの会話を断ってしまう。手に入れる前に、手に入れられないと諦めて、傷を小さくしようとする。
その手は救いを求めるようにあがいているのに。
体全体から伝わってくる温度は、こんなに近いのに。
心を寄り添わせることを許してくれない。
今も、そうだった。
「言ってよ……。
言ってよ!! ちゃんと言ってよ!
ミラール!!」
叫ぶエノリアの目の前で、ミラールは眼を細めた。薄く笑って、囁く。
「……忘れないで。
僕は……何があっても。
君達が、大好きなんだよ」
こつんと額をぶつけて、ミラールは吐き出すように言葉をぶつけてくる。
「愛しているんだよ」
そう言うのと同時に、ミラールは瞬間エノリアの唇に自分の唇を重ねた。
ひやりとした唇の感触は血の匂いを連れていた。一瞬だった。ミラールは、エノリアを押しのけるように放して、その脇をすり抜けた。
「ミラール!!」
伸ばした手は、走り出した背中には届かなかった。その背中を、懸命に追いかけて、宿を飛び出した。
ひやりとまとわりつく夜の空気の冷たさ。人々の悲鳴を照らすような大きな月。その光の下で、エノリアは信じられないような光景を見ていた。
ミラールが道の真ん中でこちらに背を向けて立っている。
月の光を背中に受けてミラールの側にいるのは、ランだった。一瞬、ランがミラールを引き止めているのだと思った。
その名を呼ぼうとして、思いとどまる。
瞳の色は影になって確認できない。だけど、その髪の長さは肩よりも上。
「ザクー……」
思わず呟いた言葉に、その男は顔を上げて、にやりと笑った。
「ザクー!!」
血を吐くようにその名を呼ぶ。嫌な予感が沸き起こってくる。
「ミラール」
ミラールの耳元に唇を寄せて囁いた言葉が、ここまで届く。
「ようやく、呼んだな。
苦しかったろう?」
「なん、でっ!」
エノリアはミラールに駆け寄ろうとした。 だけど、ミラールがこちらに手のひらを向けて止める。
何が起こっているのか、エノリアは目の前でおきていることを理解しようと必死になった。
「ごめんね」
そうミラールの口が動いた。エノリアが一歩前に出掛けたとき、その両脇を鋭い風が吹き、ミラールに向かっていく。
不自然な風と重苦しい気配に振り向くと、ユセが怖い顔をしてミラールを睨んでいた。ミラールを、ではなく、ザクーを。
「貴方が出てくると、少し面倒なんですよ」
「そんなこと、俺が、気にすると思うか? この機会に」
ザクーは手のひらを上に向けた。その手のひらに、ミラールが何かを乗せた。
赤く光る石。
「ほら、これでまた一つ」
ユセが目を吊り上げる。ザクーは満足そうにそれを眺め、ミラールの肩を抱いた。エノリアが精一杯の声を張り上げる。
「どうして!? どうして、ミラール!!」
「ごめんね。エノリア」
「待って! 待ってよ!! いやだ!」
追いかけようとしたところ、遮るように風が吹いた。思わず顔を背け、もう一度ミラールがいたところを見たとき、その姿は既になかった。
何がなんだかよくわからない。
ザクーとミラールの姿を思い起こして呆然としていた。
どうしてこんなに、なってしまったんだろう。
つい最近までみんな、側にいたのに。
笑っていたのに。
零れていく。
全て、ひらひらと落ちて、風に吹かれて、消えてしまう。
追えない場所へ、どんどん消えてしまう。
「すぐに出発します。ランを連れてきてください」
「すぐ?」
「……状況を説明して納得されると思いますか。
時間がもったいないでしょう? 何日か拘束されますよ」
エノリアは急いで踵を返す。ミラールの眠っていた部屋へ入って、一瞬足を止めた。
血だらけになったランが倒れていた。苦しそうに眉を寄せている。
「ラン!」
揺り動かす。胸に耳を当てる。鼓動が聞こえる。
手に感じる温かさにほっとして、涙がぼろぼろと零れてくる。
「泣かない……」
乱暴に瞳を拭った。
「もう、泣かないの!」
ランを強く揺り動かす。目覚めない。
「ラン!」
何度も何度も名前を呼んだ。泣かないといいながらも、目から涙がぼろぼろとこぼれる。ランにそれが落ちて行く。
「もう、何なのよ……。何なのよぉ!! 起きてよ! 起きてよ、ラン!!」
ランが瞼をゆっくりと上げた。
「エノリア……」
うつろな瞳に、自分の姿が写りこんでいることをこれほど安堵したことはない。自分の涙に気づかれる前に、エノリアは乱暴に目元をぬぐい、その肩に手を置く。
「起き上がって、ラン。
今は……」
「ミラールは」
そう口にして、ランの顔がみるみるうちに強張っていった。
「いいから! 今はいいから、ラン!
早くここから出ないと」
「ミラール……」
「もう! ラン!」
肩をつかんで自分の方に向かせる。
「お願いよ……早く……。ミラールは、ザクーと一緒に行ってしまった。私たち、ここにいると……」
泣くなと思っても、涙がぼろぼろと零れてくる。
「お願いだから、何も考えずについてきて。お願い。お願いよっ!」
ふと柔らかい感触が頬を掠めた。ランがエノリアの涙を唇ですくって、苦しそうな顔をしたまま、呟いた。
「泣かせて、ばかりだな、俺」
そう言って、ランは立ち上がる。ふらつく足元を一掃するように一度床を蹴り、踏みしめて、ランはエノリアに手を伸ばした。
「行こう」
エノリアはランに手を伸ばした。しっかりと手を握り合って、2人は荷物を抱えて階下へ降りる。既にユセは外で荷馬車を用意して待っていた。荷馬車につながれたラルディが急げという風に嘶く。御者役を買って出たユセにランは軽く頷いた。
ミラールを寝かせたまま運ぶために用意した荷馬車だった。ランはその後ろに飛び乗り、エノリアに手を差し伸べて引き上げる。引き上げたと同時にユセは馬車を走らせ始めた。その反動で倒れこんできたエノリアを、ランは抱きとめて衝撃を和らげた。
「ありがとう」
エノリアはそう言って離れるつもりだったのだが、そのままランはエノリアを抱きしめ続けた。腰に回された両腕の力が、緩まない。一言も発せず、唇をぐっと噛み締めて、全てに耐えるように眼をつぶっている。
エノリアは何か言おうとした。だが、やめた。ランの胸に頭を預けて、そのまま目を瞑った。
縋りつくようなランに、エノリアが出来ることはそれだけだった。
ミラールのこと、魔物のこと、ユセと話したこと。
そんなことを伝える前に、今はただこうしていようと思った。
「大丈夫。側にいるから」
思わず呟いたエノリアの言葉に、ランは何も答えなかった。ただ、かすかに頷いたような気がした。それはエノリアが微かに感じただけのことだけど。
ユセの口から発せられた言葉が、風と共に音を消す。
魔物の名残がまだ残る町を後に、馬車は音を消して闇へ埋まるように消えていった。
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