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プロローグ |
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一つ一つ削り重ね作られた石畳の溝の作り出す網目を、目で追った。蒼天を遮る枝葉の影が、繊細な模様を落としている。視線を上げれば美しい彫刻の彫られた壁を持つ建物が目に入った。つい先ほどまでは白壁の美しい【神殿】と呼ばれる場所であったことを知っている。だが、それは崩れかけていた。大きく斜めに入った闇を生む線は、この世界を象徴しているようだ。からからと欠片の落ちる音が胸に響く。
彼は形よい唇を歪めた。その【神殿】をそのように貶めた者を知っている。言うまでも無く彼自身だった。
人々が微笑み崇め奉った場を、自分は破壊した。人の気を断った。そして、人の気の拠り所であった主も今は自分の手の中に。
声を洩らして笑い、形のよい眉が少し上げられ曲線を描いた。あくまでも、自分の精神を楽しむための動きであり、目の前に伏し、息絶え絶えになった者を見ての感情ではなかった。
「おかしいね……」
下げられた視線の先で、救いを求めるかのように溝に長い指が、食いこんだ。その白い手に足を置き、ゆっくりと体重をかけた。呻き声さえ洩らさぬ相手に、感嘆の息を漏らす。
「君がこんな脆弱なものを守ろうとしているなんて」
純粋に感心した。創造神《イマルーク》が見捨てた地を、残された目の前の者は必死になって守ろうとしている。
その美しく哀れで情けない姿。血に染まれば染まるほど、創造神《イマルーク》への忠誠を誓っているかのようで……哀れだと笑った。
「どうしてなのかな?」
「答えたところで、理解できるのか?」
声の半分を石畳が吸い取ったが、彼には十分届いていた。だから、その美しい唇に笑みを浮かべる。
「できない、かな?」
彼は足へかけていた力を抜いて、今度はしゃがみこんだ。地面に伏して立ちあがる気力も無い者の黒髪を掴み顔を上げさせる。美しい青い瞳はまだ光を失っていなかった。輝くような白い肌は、血と泥ですすけてしまっている。微かに開かれた唇から吐き出される息は、荒く繰り返されている。
「だけど、興味ぐらいはあるよ」
揶揄するような赤い瞳を睨みつけて、黒髪の青年は大量の息と共に言葉を吐き出した。
「…………美しいから、だ」
「ふふ」
目を丸くして赤い瞳の持ち主は笑い出した。
「……つまらない答えだね」
「美しく、そして、何より。 彼女が心から愛した地だから」
ふと笑い声が途絶える。黒髪を離して、赤い瞳の青年はすっと立ちあがった。
「なるほどね」
すぅっと熱がひいた瞳の前で、青年の身体の下につま先を刺しこんだ。そして、力をこめて仰向けにさせる。身に纏う上等な絹の服。胸の部分に金糸で描かれた繊細な紋様の曲線を、赤い瞳は追った。
この下に、力を感じた。人も神も同じく、そこに力を凝縮して持っている。
赤い瞳の青年は、唇をゆっくりと舐めた。その、力が欲しかったのだ。獲物を狩るような緊迫感を抑えこんだ瞳を、蒼い瞳が見つめた。
「お前はかわいそうだ」
ぴくりと赤い瞳の青年の眉が動いた。
「せっかくこの世界へ存在しているのに、何も得られない……かわいそうな子だ」
「得るよ、貴方から。可哀想なのは君のほうだ」
呟いて、赤い瞳の青年は右腕を上げた。そして、青い瞳の青年の胸に向かって振り下ろす。青い瞳が見開かれるのと、肉が断ちきられる鈍い音がしたのは同時だった。青年の振り下ろした右腕は、青い瞳の青年の胸のなかへうずもれていた。その周りを金糸の紋様が彩るように囲う。
冷たい光を浮べた赤い瞳の下に、赤い液体が飛び跳ねた。濡れた物体に力がかかる音がする。
「神にも心臓はあるのだな。力の源としてはわかりやすくて助かるよ」
ぐっと力をこめて引き抜くと、血の赤に染まった掌の中に、まだ動いている肉の塊がある。赤い瞳の青年は、その肉の塊に唇を近づけた。
「頂くよ」
青い瞳の青年はそれを見ながら、無言であった。自分の心臓が目の前の青年の身体の中へ取り込まれるのを見つめていた。
「さすがに、すべてあると助かるね」
心臓の全てを身体の中に収め、にっこりと微笑んだ赤い瞳の青年の目の前で、青い瞳の青年は、がばっと身体を起こす。一瞬の出来事だった。赤い瞳の青年をその腕に抱きしめて、青い瞳の青年は耳元で囁いた。青白い細い指が、青年の背中に食い込む。
「許せ、ナーゼ……」
その瞬間赤い瞳の青年はすべてを察した。この瞬間を青い瞳の青年は狙っていたのだと言うことを。驚きはすぐに笑みに変わる。
「少し延びるだけだよ? エルドラ」
「それでも私は時を望む」
瞬間閃光が走り、周囲の景色は輪郭を失った。
徐々に緩やかに色彩が戻ったとき、そこには何も残されていなかった。二人の青年の姿は、どこにもなかった。
石畳にやがて影が落ち、何事もなかったように夜は訪れ、朝がまた来る。そして、この場に人が訪れる事は2度と無かった。 |
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