もらったスケッチブックを机に置いて、美夜はベッドに制服のまま身を投げ出した。
西向きの窓から赤い日が差しこんで、部屋の白い壁を赤く染める。
(気味が悪い…)
赤すぎて、こんな夕日は嫌いだ。
目をつぶろうとしたけど、何かに惹かれたように、夕日を見つづける。
何かを考えるわけでもなく、何かを思うわけでもなく…、夕日を見つめていたら、いつのまにか眠りが訪れた。
聞こえる。声が。
呼んでる?呼んでる。
誰かが呼んでる。
『駄目だよ』
困ったような顔をして、呟く。
『俺は、呼ばないから』
そう…かな。
『呼ぶ声が聞こえても…』
悲しい目。
『それは、君のココロの声だ』
違う。
違うよ。
「美夜…」
目がさめた。目に飛び込んできたのは母の心配そうな顔。
「…お母さんが…呼んでいたの?」
まだ、ぼうとしたまま、そう呟く。
母は安心したような顔をして頷くのをなんとなく見ながら、心の中で首を振る。
違う。おかあさんじゃない…。
夕食ができたのよ。下りてきなさい。今日は美夜の好きなものなのよ?
わざと明るく装った声。
白々しく、なんだろう?楽しみだわ、と答える自分。
母は、何かを探るような目で笑う。記憶を断片的に失ってから、母はそんな風に笑う。
そう、それは自分のせいだと知っている。知っているから…何も言えない。
美夜は首をかしげた。
それにしても、嫌な夢だった。焦りにも似た感情がまだ残っている。
ああ、まただ。
美夜は目をつぶった。
また…強烈な寂しさが胸を襲う。
部屋から出て行く母の背中に手を伸ばしかけて、引っ込めた。
………何もない。
この世界には、何もない。
そんな思いが、心を占める。
ふと、視線を机に向けると、そこにはヒロアキから預かったスケッチブックがあった。ベッドから抜け出して、そのスケッチブックを手に取る。
自分が描かれたページを開いて、目を細めた。
そうね。このとおりだわ。
(死んでる)
私はきっと死んでるんだ。だから、こんなに世界が遠いんだ。美夜は唇をゆがませた。
何の意味もない世界。
世界ではないのかもしれない。何もないのだから。
言葉も当てはまりはしない…。
日常と言うのは諦めてしまうとあっけない。そんなことを美夜は思った。
スケッチブックの自分を見た次の日から、美夜は少し笑おうと思った。
口の端を少し上げるだけでいい…。
そうすると、遠巻きに見ていたクラスメイトは、少しずつ話し掛けてくれるようになった。ただ、優だけが眉をひそめてしまう。
ただ、少し口の端を上げるときに、意識した分だけ虚しさが残ることに気づいてしまった。
無意識では笑えない自分を、自分でつきつけている…。
溜息の回数は比例するように増えていく。
ヒロアキには…もう一週間も会ってない。あのあと、初めて廊下ですれ違ったとき、何か言うかと思って身をすくめたが、ヒロアキはちらともこちらを見なかった。
美術室以外で、干渉する気はないとでも言うように。
少しずつ、日常に戻ればいい。
ふわふわしたままで、構わない。
そうすればいつか、本当に忘れてしまうだろう。これが、本当の私になるだろう…。
放課後、やっと部活に顔を出そうと思った美夜は、隣のクラスの優を訪れる。
「ゆうちゃん」
優はすぐに気づいて、かばんをもって寄ってくる。
「どうした?」
「ん、部活に行こうと思って…」
優はただ頷いた。なぜか最近、優はあまり前のように話をしてくれない。
「なんで、急に?」
音楽室に向いながら、優はそう呟いた。声が固い。いつものはっきりしていても、柔らかい声ではない。
「なんでって…。悪いかな」
「無理していないか?」
「無理?」
美夜は、少しワラウ。
「してない…よ」
「笑わなくていいよ」
優は悲しそうに言って、溜息をつく。
「私の前でだけは、自然にしていてくれる?」
「自然って?普通だよ」
「ツクリワライ」
嫌悪をこめた言葉のニュアンスを、美夜は素直に受け取った。それは、自分が一番わかってることだったから。
「あんたに無理させたくないんだ。私の前では、自然でいて」
ちょっと立ち止まって、優は中庭に面した窓に寄った。
「全部わかっちゃうんだよ。無理しているとか、作ってるとか。そのたびに、私もそういう対象なのかって思い知らされる」
優は小さな声で呟いた。
「あんたは、私にも遠慮するのか?私は、あんたが笑わなくなっても、記憶を失っても…、同じように付き合って行くよ」
「ゆうちゃん」
違うと言いかけてやめた。優は、間違ったことは言っていない…。
「…親友だとかいう言葉に当てはめようとは思わない。だけど、美夜はすごく、た…大切で、そういう友達だと思ってるのは…私だけか」
優は窓枠に持たれかかり、柱を右手でつかんで背中をそらす。
「一方通行…かな」
「ゆうちゃん、あぶないよ」
右手を離したら落ちてしまう。はらはらしながら、美夜は優を食い入るように見ていた。
「あんたは大きなものを失った。それを忘れて他のものも失うつもりなのか。思い出だけじゃなくて、コレカラとか、普通の生活とか、両親とか、みんなからの愛情とか」
静かな目が美夜を貫く。美夜は心臓をつかまれたような気分になった。そうして、目は憂いを含む。
「笑顔とか、友達とか…」
柱をつかんでいた指が、まっすぐに伸ばされる…!
「…ぁ…!ゆうちゃん!!」
飛びついて、廊下に優を引きずり込もうとする。冷たい廊下の感触を頬に感じ、優のうめき声を聞いたとき、いっきに力が抜けた。
「…イタた…。自殺なんてするわけないだろう…」
優はそう言いながら、自分の上に乗っかっている美夜の顔を覗きこむ。
すると、美夜の目からは大粒の涙がこぼれていた。
「…ごめん…。やりすぎちゃった…?」
「…もう…いやだよ…」
美夜は止まらない涙を一生懸命、手でぬぐう。
「…いやだよぅ……」
ぬぐってもぬぐっても涙は止まらない。
「………もう…嘘つきたくない…。このままでいいだなんて嘘だよ…」
優は優しい目で美夜を見ている。
「ゆうちゃんに…こんなことさせる…自分も嫌だ…」
泣き声にしゃくりが加わる。
「……なにも…うしないたくない…。おかあさんも…おとうさんも…私のせいで、不自然…。みんなも」
優は慰めるように頭をなでた。その手が優しくて、その優しさに申し訳なくて…。でも、美夜は泣くことしかできなかった。
「……たい…。もどりたいよ…」
優は美夜にハンカチを渡した。そのときまで、ハンカチというものを美夜は忘れていた。
「少なくとも、私はそばにいるんだからな」
ハンカチを目に押し当てる美夜の頭を、右腕で抱えて引き寄せる。
「ちゃんと、美夜は掴まえたんだから」
美夜はこくっと頷く。
落ち着くまで、美夜は声をあげてないた。
優がずっと背中を撫でてくれて、その暖かさがうれしかった。
しばらく、こんな風に泣いていない。
泣くことを許していなかった…。
鏡の中にいる自分の目は、まだ赤くはれている。
久しぶりに大声で泣いて、落ち着いて顔を上げると、優が廊下の向こうに少し手を振りながら、苦笑いしているところだった。
何だろうと思ったら、数人集まってこっちを見ていたのだ。みんな、部活に行く途中だったらしい。
疑惑の目の中に、優しい目を見つけた。すぐに、その場から離れてしまったけど…。
キタジマ ヒロアキ…。
美術室に行く途中だったのだろう…。
(まだ、毎日待っているのかな…)
また、顔を洗う。何度か洗って、目のはれぼったさは少しだけ収まってきた。
「治ったか?」
トイレの外から声がかかる。ハンカチを握り締めたままトイレを出ると、そばの壁に寄りかかった優が「よっ」と言って背中を壁から離した。
「うー…。まあ、大丈夫だろ」
顔を覗きこむ優に、美夜はハンカチを示した。
「ごめん、びしょびしょにした。後で返すね」
「いいよ。どっちでも」
練習、もう始まってるなと言いながら、優は音楽室に足を向けた。
「北嶋、いたな…」
ぽつんと呟いた言葉が自分に向けられていることと、北嶋という名前がキタジマヒロアキのことだと気づくまでに、少し時間がかかって返事が遅れる。
「う、うん。そう?」
それ以上、優は何も言わなかった。何か言いたかったのを、美夜の反応を見てやめたのかもしれない。
美夜も何も言わなかった。
もう、楽器の音が近くの部屋から聞こえている。
パートごとの練習を、音楽室周辺の踊り場でしたり、家庭科室を借りたりしてやっているのだ。
ちょっと広くなっている廊下で練習しているパートに軽く挨拶をして、美夜たちは音楽室に入った。
音楽室では移動が楽にできないチューバとパーカッションがバラバラと練習をしていた。チューナーを持って、ティンパニのチューニングをしていた子が気づいて声をあげる。
「樋口先輩!もう、いいんですか?」
美夜は少しだけ頷いた。みんなが顔を上げたので、できるだけ自然に微笑む。
「ごめん、しばらく」
「いいんですけど、ケイコが喜びますよゥ。最近、パートリーダーできないって愚痴ばっかり聞かされてたから」
ばちをもって、リズムの練習をしていた子がそう言うと、優が「な?」とでも言うように苦笑する。
「きっと喜びますよ。早く行ってやってください」
「一ヶ月も吹いてないのに、練習に加われないけど」
「そんなの構いませんよゥ。顔見るだけで、あいつは安心しますってェ」
美夜は優を振り返る。優は行ってくればと言って、棚から自分の楽器のケースを取り出した。
「田宮先輩、ボーンは今日、中庭で練習するって張りきってましたよゥ?」
「そうだっけな。まあ、奴らだけでも練習はやれるさ」
そんな会話を後ろに、美夜はいつもの練習場所である理科室に急いだ。
「……先輩!?」
部屋のドアを開けて、後輩達の笑顔と歓声に迎えられたとき、いつのまにか意識しないで微笑んでいた。
私はこれさえも捨てようとしていたのだ。
受け入れてくれる人達を、愛してくれている人達を…。
今日は合奏を行う日だった。5時から、パート練習をしていたメンバーがぞくぞくと集まり、学生指揮者が前に立って、指揮棒を振り出した。
美夜は今日は見学だけして帰ることにして、窓際の席でみんなの音を聞いていた。久しぶりに聞くハーモニーは心地がよい。
自分のパートであるクラリネットを聞きながら、まだ練習のいるところをチェックして行く。
明日からは、少しずつ音を取り戻していこう。そうして、またこの音に加わろう…。そんなことを考えながら、ふと窓の外に視線をやる。
何気ない動作だった。
窓の外はもう赤くなり始めていて、グラウンドでは野球部と陸上部が練習をしている。
(こんな風に、良く眺めていた気がする)
陸上部のハードルの練習が目に入る。
(誰かがこっちを向いて)
マネージャーが何かを記録し、先生が次の部員に合図を送っていた。
(…手を振った)
(そして、私は振り返す。気づいてくれたことが、すごく嬉しくて…)
(ずっと)
ハードルを見事に飛び越えて行く部員。
(…あ)
美夜は思わず腰を浮かした。
一人がハードルに引っかかり倒れる。すぐに起きるかと思ったのに、起きあがらない。
(こんなことが…)
しばらくして先生が近づき、それに触発されたように部員達が集まって行った。人だかりができ始め、倒れた部員は起きあがらない。
めまいがする。
(こんなことが、前にあった)
…グラウンドで倒れた人。集まる人。叫び声が聞こえ、やがて…救急車が…。情景がめまぐるしく頭に浮かぶ。
(いつ?)
めまいがする。急速に、体温が下がったような気がした。体がゆれて、その場にしゃがみこむ。
(あれは、いつだった…?)
演奏が止まったことに、美夜は気がつかない。自分の体の震えをとめるために、自分を抱きしめる。吐き気がして、目をつぶった。
「美夜?」
優が心配そうに近づいてきた。
「どうした?」
「…吐きそう…」
優の顔色が変わり、美夜の体をこの華奢な体のどこにあるのだろうと思うぐらいの力で抱えた。
そして、半ば引きずるようにして近くのトイレに駆け込む。
優は美夜の背中をさすりながら、心配そうにトイレを覗きこんでくる後輩達に、怒鳴った。
「川西先生呼んで!」
優の大きな声にびっくりしながらも、反応の早かった生徒が保健室へ走って行く。
美夜は何度も吐いた。
もうこれ以上、吐くものは何もないのに、吐き気だけが続いて、涙を浮かべながら震えつづけた。
(倒れたのは誰…?)
微かに残った記憶の中で、私に手を振っていたのは誰?
何の予兆もなく、グラウンドで倒れたのは誰?
誰?
思い出そうとするとこんなに苦しくなる…。
………誰……?
自分は何を忘れてしまったのか。
自分は何を捨てようとしているのか。
自分は何から逃げているのか。
(そう、逃げているんだ)
だから、忘れてしまった。
すべて、忘れてしまった。
美しいものも優しいものも、悲しいものも辛いものも、吐き出してしまいたい思いも、抱きつぶしてしまいたい思いさえも、全部同じ処につながるから。
忘れてしまえば、まだ…。
まだ…、生きていられるから。
貴方の最期の願いだから…。
ゆがんだ形でそれを成そうとしていても、
私には、今はそれが精一杯…。
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