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I 硝子
 
 冷たい銀の窓枠から月を見るとき、私は声を聞く。
 やさしい声を聞く。
 その声が誰のものなのか、わからない。
 だけど、その声は、私の心の奥に染み込んでいく。
 私はその声を知っている。知っているのに思い出せない。
 やさしい声…。
 いつのまにか私の目から涙がこぼれている。
 そうして眠りにつく。
 その夜に見る夢は悲しくて、
 起きたらまた、泣いているのだ…。


『僕は悲しくなんかないよ。
 涙といっしょに流れてしまえるまで、
 君の中で眠るだけ…』


「おはよう!樋口さん」
 樋口美夜はゆっくりと振り返った。肩まであるストレートの黒髪の光沢がゆれる。そうして自分のことかとでも問うように、首をかしげた。
「やっと学校出てこれたんだ!調子はもういいの?」
 少し茶色のかかった短い髪の女の子の言葉を受けて、美夜は少し唇をひらいた。
「…別に」
 愛想のあの字もない返答に、彼女は返す言葉を捜す。
「あ…、…そうか…、私のこと覚えてない…?」
 美夜は首を振った。
「田島さん…」
 あまり面識はない隣クラスの人。クラスに一人はいる情報通だ…。
「そうそう!なんだあ、記憶喪失になったって、デマだったのね?」
 傍目にわかるぐらいがっかりした田島成子の視線をうっとうしく思いながら、美夜はかまわず教室に向かって歩き出した。
「病欠ともなんとも先生、言わないからさあ。勝手なうわさばっかりたってたよー」
 どうでもいいとばかりに、美夜は田島の言葉に耳を貸さない。実際、何もかもどうでもよかった。
「やっちゃんも、ノートとかプリントとか届けても、樋口さんの様子も聞けないって心配してたし」
 やっちゃんとは、美夜の近所に住んでいるクラスメートだ。美夜は田島を振り切るように歩調を早くした。
「でも、元気になったんだあ。よかった」
「…りがと」
 美夜はにこりとも笑わずに義務的にそう言うと、教室に入っていった。田島がその態度に唖然としたが、もうひとつのうわさが真実だと言うことがわかり、満足するように自分の教室に入っていった。
「隣のクラスの樋口さん、来てるよ。誰よ、記憶喪失になっただなんて言ったの」
「だって、そう聞いたわよ。一部分だけ忘れたとかなんとか」
「でも…確かになんか変だった。なんか、性格暗くなってた。別人みたい!」
「何それ?」
「うわさじゃ、一晩でそうなっちゃったとか」
「無責任な噂してるよなあ。そんなことあるわけないだろ」
「ほんとだって、さっきそこであったけど、何か変だったよ」
「でも、なんでそんなに性格が変わるんだよ」
「う、宇宙人にさらわれたとか?おもしろそー!」
「またこいつは…、そういう話題すきだよなあ」
 無責任な歓声をあげて、話題はだんだんそれていく。そんな微かな声をききつつ、美夜はため息をついた。  クラスメートの好奇な視線と、形だけの挨拶。それに、同じように答えつつ、自分の席につく。
 異質だ。
 美夜は窓の外を見た。
 他人の声も、自分の声さえ、遠くから聞こえる。
 私がおかしいのか、おかしいと思う私がおかしいのか。
 教室のざわめきは、先生がドアを開けると同時に薄れていく。久しぶりに来た美夜に、社交事例程度の声をかけて授業に入っていった。
 学生の日常。それは、美夜にとって異質な空間。一枚何かを隔てた現実。
 いつからか…、すべてがそう見えるようになっていた。



「美夜。今日は行くだろ?部活」
 美夜は顔を上げた。見たことのある顔。形のいい唇が少しゆがんだ。
「何?私のこと忘れちゃったわけ?」
「ゆう…ちゃん…」
「はっ。ちゃんと覚えてるじゃん。田島も無責任なこと言ってるよな」
 美夜は彼女、田宮優の顔をまじまじと見た。彼女は自分の小学生からの腐れ縁だ。長いストレートの髪が、彼女を清楚に見せている。病弱にもとられがちな外見とは裏腹に、彼女は活動的な少女だった。
 口をきいた時点で、印象を崩される男子生徒が、何人いたことか。
「あのさ…、ヒロのこと…」
 開けっ広げな性格の彼女が、言いにくそうに話を切り出す。
(…ヒロ…?)
 美夜は眉間にしわを寄せた。その表情を見て、優はあせったように両手を振る。
「あ、いい、いい。やっぱいいや…。美夜が元気なら私はいいよ…」
 それが誰を指すのかも聞けずに、美夜は口をつぐんだ。ヒロ…。
「部活さ。いくなら一緒にいこうよ」
 優は余計に明るく言う。美夜はうなずいた。
 異質な空間。だけど、彼女の周りは居心地がよかった。なぜだろう…。
 どうしてこんなに私の感覚は、あいまいなのか。
 美夜は立ちあがる。
 何かが欠けている。
 日常・空気・感触・記憶…。
 何かが欠けて、私をおかしくする。
「美夜が居ない間さ、ケイコがパートリーダーしてたけど、泣きそうだったよ。『早く、美夜先輩帰ってこないかな』って口癖のように言っていて、みんなのひんしゅく買ってたんだ」
 二人は音楽室に向かって歩いていた。が、突然、美夜は足を止める。人通りの少ない美術室の前の廊下は、いつもより暗く感じた。
「ゆうちゃん」
 美夜はそう口にして、自分の唇を触った。
 ここから声が出た。自分は『ゆうちゃん』と言った。
 一つ一つを確かめている自分がいることに、美夜は違和感を覚える。
 生きている?生きている。
 確認する声。
「変かも…」
 美夜は呟いた。瞬きもせず、優を見つめる。
「私、変かもしれない」
『変かもしれない』
 そう言ったのは自分。
 急に、人の暖かさがほしくなって、美夜は優の手を握った。
「美夜?」
 暖かいのに、その感触は遠い。遠いところで『暖かい』と理解して、跳ね返ってくるのを待っているようだ。
「私の名前は、美夜だよね」
「そうだよ」
 笑い飛ばすこともなく、真剣な表情で優は言った。彼女の差し伸べた手をしっかりと握って、美夜のうつろな目を覗きこむ。
「おまえは樋口美夜だよ。それ以外の何者でもないよ」
 そう言われて、美夜は一瞬だけ目を見開いた。だが、再び暗い目をする。
「ごめん…。ゆうちゃん。今日は行けない」
 音楽室。吹奏楽部。その単語は、自分にとって近づいてはいけないもののような気がした。
 優はしばらく美夜を見ていたが、うんと言うと肩をたたく。
「そうだな。しばらくは、離れていたほうがいいかもしれないな」
 早く元気出せ。といって、優は美夜をおいて音楽室に向かっていった。その背中を見つめながら、美夜は息を吐いた。
 何を…失ったんだろう?
 何が違うのだろう。
 何を欠いてしまったの。
 ふと、美夜は美術室の中を覗きこんだ。
 そして、一枚の絵を見つける。美術部がいつもいるはずのその部屋には誰もいなくて、美夜はその絵に引き込まれるように、美術室に入っていった。
 一枚の絵。
 それは、何が描かれているのか分からない絵だった。だけど、やさしい絵だった。悲しく、いとしく、やさしく。
 いろいろな色が置かれた空間こそが、自分の居るべき空間に見えた。
「どうして」
 後ろから声がして、美夜はびっくりしたように振りかえる。そこには一人の男子生徒が立っていた。彼は、ふと目を細める。そこに、この絵と同じ空気を美夜は感じた。
「泣いているの」
 そう問われて美夜は自分の目に手をやる。そうして、ようやく自分が泣いていることに気づいた。
「わからない」
「変だね」
「うん…。変なの」
 彼は軽く肩をすくめると、美夜の横に立ち、絵を見た。
「この絵が気になる?」
「ええ」
 彼は指で絵の右下を指し示した。
「僕の名前だよ」
 《ヒロアキ キタジマ》。その筆記体のローマ字を読んで、美夜は顔をかれに向けた。
「あなたが描いたの」
「そう」
「何が、描かれているの」
「さあね」
 美夜が不信な顔をすると、ヒロアキはいたずらっぽく笑った。
「僕にもわからない」
「わからないのに描いているの?」
「描けば…、わかるかと思って」
「分かった?」
「…わからないままだよ。いくら描いてもわからないから、無理やり完成させたんだ。こうやって、さっき名前を入れたところ」
「未完成なの」
「そういうことになるかな。でも、完成だと言ってしまえば、完成になるんだよ。『未完成』という名前のね」
 そうして、ちょっとくさいかなと言ってはにかむ。ヒロアキの声は、美夜の耳にはきちんと聞こえた。なにか異質なものを通らず、まっすぐに。
「…君は、この絵が似合うね」
 美夜は顔を上げた。ヒロアキはばつの悪そうな顔をしている。
「変なこと言ったかな」
「ううん」
 再び美夜は絵を見た。少しだけ手を伸ばし、絵に触れるか触れないかのところで、腕を落とした。絵に近づけた手に痛みを感じて。美夜は小さくつぶやく。
「私、この絵、好き」
「…じゃあ、君も何かを失った人なのかな」
 ヒロアキは近くのいすを引き寄せて、背もたれを抱くようにして座った。美夜はヒロアキの目を見ていた。
 やさしい目だ。偽りのない。
「…僕の絵は、そういう人を引き寄せるんだよ」
 呟くヒロアキの声に力はこもっていなかった。
「どうして」
「さあ?」
 ヒロアキは屈託なく笑う。
「…欠けているものを埋めようとしているからかな」
「未完成なのに?」
「そう、だから未完成でいいんだよ」
 ヒロアキは微妙に微笑んだ。
「埋めてしまったら…、僕は僕でなくなるかもしれない」
「なのに、埋めようとしているの?」
「そう」
「それって、おかしくない?」
「おかしいかな」
「……。そうなのかな…」
 おかしくない?といいながらも、美夜は首を傾げてしまう。そんなこと否定するほど自分は正しくない。完璧でもない。
「特に、この絵は未完成でいいんだよ。欠片は置いてきてしまったんだ」
 彼は呟いた。その言葉を真剣に美夜は聞いていた。そうすると、ヒロアキは自嘲するように笑い、美夜に微笑んだ。
「笑わない?」
「笑わない」
「君は…いいね。僕がこんなこと言うと、ほとんどの人が笑うよ」
 美夜は首を振った。
「おかしくないもの。真剣だから」
「三人目だよ。僕の言うことを笑わなかったのは」
「そうなの」
「そう」
 ヒロアキはため息混じりに、そう言った。
「認めることは…勇気がいるのかな。自分に何かが欠けていることをね」
「誰だって完璧じゃない」
「そう。分かった振りしてる人が多いのかもね。振りはいつまでも振りだ。いつか、本当に分かったとき、打ちのめされる」
「あなたは、分かっているの?」
 美夜の質問に、ヒロアキは微笑んだ。
「さあ…。分かっているのかな。分かっていても、分かり方が足りないのかもしれないね」
 だから…。小さな声でつなげる。
「絵を描いているのかもしれない」
「…難しいのね」
「難しく考えればね」
 ヒロアキは苦笑して、美夜を見つめた。美夜は、まっすぐにヒロアキを見つめ返す。
「失った物さえ、わからない。君はそんな感じだね?」
「そういう風に見える?」
 ヒロアキはうなずいた。
「そう、それで心、ここにあらず。だよ」
 笑う。窓の隙間から涼しい風が入ってきた。
「君の失ったものは、きっと大きなものなのだろうな」
「そうかもしれない。いつもと違うもの。何もかも」
 美夜はそう言って、絵を見つめた。見るもの触れるもの聞くものすべてが何かにさえぎられている。透明なのに何かがある。いや、さえぎっているのは自分のほうなのかもしれない。
「僕は帰るけど、君は絵を見ている?」
「うん」
「明日も来る?」
「うん」
「じゃあ、僕も来ようかな」
 美夜がヒロアキに視線を向けると、彼は穏やかに微笑んでいた。
「君の絵を描いてみたいんだ。いい?」
 美夜はかすかにうなずいた。
「そう、じゃあ、約束」
 あっさりと、そう言ってヒロアキは美術室から出て行こうとした。
「ねえ」
 美夜が呼びとめると、ヒロアキは振りかえる。
「何?」
「キタジマは方角の『キタ』とヤマヘンなしの『シマ』?」
「ヤマヘンはあるよ」
「ヒロアキはどうやって書くの」
「こう」
『宏明』と空中に書く。一度目は早く。美夜がわからないという顔をすると、あと二回ゆっくり書いてくれた。
「わかった?」
「うん」
 じゃあね。と言って、彼は美術室を出て行く。その後姿は優のものを見送るよりも、さびしくなかった。
 北嶋宏明…。
 漢字で思い浮かべるのと、カタカナで思い浮かべるの、そしてこのローマ字の斜体と…、違う感じがしたのでカタカナで呼ぶことにする。
 キタジマヒロアキ。なぜか、彼にはそう呼ぶほうがしっくりするような気がした。
(そういえば、私の名前聞かなかったな…)
そう大事なことでもないような気がしたので、別に気にしないことにした。
 絵は静かにそこにある。そこにあるだけなのに、また泣けてきて美夜は、涙をふきもせず、流れるままにしておいた。



『忘れていて』
(君の失ったものは)
『少しの間だけ忘れていて』
(きっと大きな物なのだろうな)
『君が素直に泣けるまで』
(欠片は)
『そう長い時間じゃないよ』
(置いてきてしまったんだ)
 置いていかないで。
 ここにいて。
 そばにいて。
 できないなら、
 一緒につれていって…。
 失いたくない。失いたくない。ウシナイタクナイヨ。

 冷たいよ。
 ここは、冷たいよ。
 誰か…。
 誰カ強ク抱キシメテ…。



 泣きながら起きる日は最悪。
 美夜は鏡の中の自分を見て、ため息をついた。
 はれぼったい目。こんなの、二〇分じゃ直らない。
 今日は、学校を休んでしまおうか?
 そう考えて、肩を落とした。
 好奇の目は、昨日よりはましになっているはずだ。この目のまま行けば、また違う視線をあびるだろうけど。
 自分を呼ぶ母の声。大きく返事をして、美夜は黒い髪を梳き出した。
 自分の周りの景色が一気に変わった日から、母や父の声も、なぜだかよそよそしく感じる。
 最初のころは腫れ物にでも触るように、びくびくと扱われたような気がする。最近は、それほどひどくないけど。
 ちょっとぼうっとしていると、必ず「どうした?」と聞いてくる。
 母は夕食に手を抜くのをやめ、父はケーキを買ってくる回数が増えた。
 ただ、それだけの違い。だけど、それを見ていると自分のどこかが変わってしまったのだということを、改めて思い知らされる。
 どこが変わったかなんて、覚えてない。
 だって、記憶さえもあいまいだから。
 失ったのは自分に関しての記憶?
 ううん。だけど、いろんなことを覚えていることは、覚えている。本当に自分の記憶か、疑わしいだけ。
(宇宙人か)
 田島さんの言っていたことも、案外外れていないかもしれない。
 自分の記憶が、自分のではないようだなんて…。
 そんなこと、ありうるんだろうか?
 着替えずに下に下りて、母を驚かせる。母はすぐに目を冷やしなさいといい、父は苦笑していた。
「一時間目、休んでもいいかな」
 呟くと、母は仕方ないわねと言う。ぎりぎりまで冷やして、腫れがひかなかったらねと註釈も忘れない。
 どうしてそんな目をしてるんだ。
 父の質問には正確に答えることができなかった。
(泣いていたから?)
 じゃあ、なぜ泣いていたのか。そんなこと聞かれても答えられない。
 夢を見ていたから。どんな夢か忘れてしまったけど、悲しい夢だった。
 小さいころ、まだ冷たい海に潜ったことがある。そのとき、周りには誰も居なくて、音もしなくて、ただ上を見上げると太陽の光だけが揺らめいていた。
 そんな感じ。光が遠く、そして悲しく。海の底にたった一人で居て…。あせって海面から顔を出したら、浜辺で父さんが手を振っていた。ああ、よかった。一人じゃないんだ、お父さんが見ていてくれたんだって安心した。
 だけど、今日、起きたら私はやっぱり一人だった。
 どうして、こんなにさびしいのだろう?
 父さんも母さんも、ここにいるのに。
 そう考えるとのどが熱くなってきたので、洗面所に駆け込んだ。
 どうも、最近、涙腺が弱い気がする。
 顔を冷たい水で洗い、タオルでふきながらふと鏡を見る。じっと見つめる顔。
 ひどいカオしてる…。
 鏡の自分の顔に手を置いてみる。
「…ひどいカオしてるよ…」
 呟いた。鏡の中の自分が、一瞬だけ泣きそうな目をした。



 結局、その日は2時間目から行った。隣のクラスの優が心配してお昼の休み時間にやって来て屋上に呼び出された。
「どうした?1時間目」
「うん。ちょっと目が腫れちゃって」
「大丈夫か?」
「大丈夫」
 目をあわさずにそう言う美夜に、優は大きくため息をついた。
「大丈夫、じゃないよ。美夜。あんた、変だよ」
『分かってる』そう言おうとしたけど、声が出なくて、優の顔を見つめた。
「原因は知ってる。だけどね、もっとしっかりしろよ。でないと、ヒロだって…」
 まただ。またその名前。
「ゆうちゃん…」
 ヒロって誰?
 そう聞こうとしたけど、声が出ない。ヒロという言葉を出そうとすると、なぜだか心が締め付けられる。
「ゆうちゃん…、キタジマヒロアキって知ってる?」
 話を変えようとしたわけでもなく、その質問が口から出た。優は一瞬、何の話だという顔をしてみせる。そして、ああと呟いた。
「うちのクラスの芸術家だ。フルネームで言われると変な感じだな」
「ゆうちゃんのクラスにそんな人、いた?」
「居たよ。結構、有名人。朝礼のたびに呼ばれるだろう?何とか賞受賞ってね」
「そう…だったかな」
「ほんと、しっかりしろよ」
 優は諦めモードで苦笑した。
「あたりさわりのない付き合い方をする奴だよ。だれとも笑い、誰ともけんかせず…」
 優はつまらなそうに説明をしている。
「可もなく、不可もなくってタイプかな。奴は、絵を描くことで自分の中のものを吐き出してる感じがする」
「優ちゃんが、そんな風に言うなんて」
「私は、奴の絵を見たとき、鳥肌が立ったよ」
 優は苦笑いをする。
「どんな自分も、責めることもなく、焦ることもなく。…すべてを飲み込んで吐き出す。欠けていることも、失ったことも、すべてを認めて…」
 大きく息を吐いた。
「私の目にはそう映ったんだ。そうだな、そんな大仰なものではなかったのかもしれない。だけど…、私には十分衝撃的だった。同じ年の人間に、こんな絵が描けるのかって」
 美夜の見つめる先に、優の少し自嘲的な目があった。
「私はね。自分の才能ってやつに…自信があった。今ではそんな自分がばかばかしくなるけど…、奴の絵を見たときこれが才能ってやつだと思った。井の中の蛙ってやつだよ。優秀だって思ってるうちは、何も見えないんだよなあ…」
 初めて優が美夜に、そういう話をする。自分の弱さをさらしている。
「それで、周りが見えないんだ。いや、見ないんだよ。自分が一番だって思っているから。他を嘲笑することで、自分を保ってた。そんな感じだったんだよな」
 優は穏やかな顔をしていた。
「キタジマに、そう言ったことがある。そうしたら、奴は笑っているだけだった」
 空を仰ぐ。
「分かったらそれでいいんだって言われた気がした」
「うん…」
「で、どうしたって?キタジマが」
「うん…。昨日美術室で会った」
「…それで?」
「今日も放課後会うんだ。私の絵が描きたいって」
「多いに結構!」
「私は…、大きなものを失っているって」
「…うん?」
「私…ね。記憶がないんだ。ここ最近の」
「……そう…か」
「それから、ずっと、こうふわふわした感じがする。見るものすべて、硝子越しに見ている感じがするんだ」
 優は、変な顔をしない。真剣に聞いてくれている。そういうところが、大好きだ。
 そうか…。
 昨日、キタジマくんが言っていた、笑わずに真剣に聞いてくれた人って、もしかすると、一人はゆうちゃんかもしれない。
「キタジマくんといると、それがわかりそうな気がする」
 優は黙って美夜の話を聞いている。
「キタジマくんの声やゆうちゃんの声は、きちんと直接耳に入ってくるんだ。あとは、どっかで鳴り響いている感じ…」
「私はね、美夜」
 優はじっと美夜を見つめた。
「あんたがなぜ、そうなったか分かるよ。だけど、原因は教えない。あんたが探さないと意味がないことだから。だけどね…、忘れていられるなら、忘れていてもいいと思ったりもするよ」
 優の目は、少し悲しそうだった。
「私は、あんたを失いたくないよ。だから、忘れていてもいいかもしれない」
「ゆうちゃん?」
「でも、忘れたままなら…、あんたは一生こんな感じなんだろうな…。それも、いやかもしれないな」
 優は微笑んだ。
「きっと、その先は…美夜が決めることなんだろうな」
「…意味深ね」
「そう、意味深だよ」
 優の微笑みはやさしい。それを見て、美夜は微かに眉を上げた。
 大切な人がいるのに…。
 大切に思ってくれる人が居るのに…。
 これ以上、私は、何を求めているのか。
 それでも、さびしいのはなぜだろう?



 夕方からは、雨が降り出した。少しだけいつもよりも暗い美術室で、美夜は昨日の絵を見ながらヒロアキを待っていた。
 こういう絵を抽象画というのだろう。今まで、抽象画なんて誰でもかけると思っていた。色の配列、線の引き方。そんなもの、誰だって描けると。だけど、この微妙な感じは誰もがかけるというものではない。
 美夜は、白い絵の具をそっと触ってみる。
 こんなに…、懐かしいのは?
 こんなに、悲しいのは?
 涙を押しとどめることが、難しい。
「泣けばいいのに」
 美夜は振りかえった。
「いつも、突然…なんだね」
「気配がないってよく言われる」
 ヒロアキは少し笑うと、教室に入ってきた。
「泣きそうじゃなかった?」
「どうして?」
「なんとなく…、空気がそうだったから」
 ヒロアキは昨日と同じように、手近ないすを引きずり出し、背もたれに腕を置いて座る。美夜も近くの机に持たれかかった。
「…ゆうちゃんにキタジマくんのこと聞いた」
「ゆう…?ああ、田宮さん?」
「笑わずに話を聞いていたのって、ゆうちゃんのこと?」
 ヒロアキは微笑むことで肯定する。美夜は、少しだけ眉をよせた。
「すごいね。ゆうちゃんにあそこまで、言わせる人」
「何か、言ってた?」
「難しいこと。欠けていることもすべて飲み込んじゃう人だって。すべてを認めちゃう…」
 ヒロアキは自嘲したように笑う。
「面倒なだけだよ。否定することが」
「ゆうちゃんは、自分が…完璧であるって思い込んでいたのは、未熟な証拠だって思い知らされたって」
「田宮さんには、向上心があるんだ」
 ヒロアキは雨に打たれている窓を見つめた。
「田宮さんこそ、僕にないものを持ってる人だよ。彼女は、自分の非を認めて、そして、上に上るために悩んでる」
 ヒロアキは初めて、少し困ったような表情を見せた。
「僕は、今の自分でいいんだ。埋めようとして埋めきれない自分でいい。だから、他人が向上しようとする姿も、そこで満足して立ち止まってしまう姿も、僕には否定できない」
「私には、キタジマ君もゆうちゃんも、がんばっているように見えるけど」
 美夜の声に、ヒロアキは目を見開いた。
「キタジマくんも、悩んでいるでしょう?自分を上に上げるために」
 ヒロアキの目が少しだけ、やさしくなった。
「僕のことは、いいよ。君は?」
「私?」
「失ったものは、見えそう?」
 美夜は、ヒロアキのまっすぐな視線から目をそらす。
「……よく…泣きたくなる…」
「どうして」
「わからない。そのことを考えると、私はここに居ては行けない気がする」
 ヒロアキは持参したスケッチブックを取り出した。一本の鉛筆を持って、それを紙の上に走らせる。
「君は、ほしいものはある?」
「ほしいもの…。服とか?」
「そんなもの、望んでいないんじゃないのかな」
 ヒロアキは熱心に鉛筆を動かしながら、そう言った。美夜はヒロアキが何を描いているのか分かった。自分だ。
「ほしいもの…」
 一瞬、何かが頭をよぎって目を細める。
 何か、愛しく悲しい思い。捕まえ損ねて目を閉じた。
 スケッチブックを走らせる鉛筆の音が一瞬途切れた。それに気づいて美夜が目を開けると、再び鉛筆の音がしだす。
 美夜はなんとなく口を開けた。
「……。朝、起きたら、誰かに抱きしめてもらいたいと思ったことある?」
 少しだけトーンのおちた声に、鉛筆の走る音が再び止まる。ヒロアキが顔を上げると、美夜の横顔は例の絵のほうをむいていた。
「突然、誰かの手を握り締めたくなるの。そこにある暖かさを確認したくなる…」
 気づいているのか、気づいていないのか、美夜の瞳には涙があふれ、今にもこぼれそうになっていた。
「さみしい夢を見て、起きると一人で。まるで小さい子のように、母さんや父さんに抱きしめてもらいたいと思うの」
「抱きしめてもらえばいいのに」
「…ううん。駄目。きっと駄目。私が失ったものは、きっとそういうもの…。たとえばそういう2本の腕。そういう…、暖かさ」
 光は彼女の頬をつたって落ちた。ヒロアキは自分の手が震えているのに気がついた。そして、彼女の横顔を、のめりこむように見つめていたという事実にも…。
「ほしいのは、ぬくもり…。時々、叫びたくなるの。『行かないで』って」
「『行かないで』」
「そう…。何に叫んだらいいのかも分からない。だけど、叫びたくなる…」
 ヒロアキは再び、鉛筆を動かし始めた。美夜は、それきり黙ってしまい、美術室は小さな沈黙で満たされた。ただ、その沈黙は両者にとって、それほどいやな沈黙ではなかった。
 しばらくして、ヒロアキが大きく息をつく。そして、かちゃんという音で、美夜は我に返った。
 どれだけ時間がたったのか、分からない。だけど、その間、どこに居るよりも静かな心でいられた。家の自分のへやにいるときよりも、この少し絵の具の匂いのする、美術室が。
「失ったものは、これから得ることのできるもののはずだよ。たとえ、同じ物でなくても」
 ヒロアキは静かにそう言った。
「ぬくもりは…、求めれば得ることができる。だけど、君は他のぬくもりは要らないんだ」
 スケッチブックをひっくり返し、美夜に見せる。美夜は目を見開いた。
「これ…、私…?こんなに、綺麗じゃないよ」
「君は、失った、そのぬくもりだけがほしい。でも、それは2度と手に入らないものなんだよ」
 ヒロアキはスケッチブックを閉じる。
「満たされたものより、欠いているものの方が美しい。だけど、その美しさは危ういものだ」
「どういうこと?」
「眠れる森の美女って知ってる?」
「ええ」
「君、それみたいだね」
 ヒロアキは微笑んだ。だけど、目は悲しそうだった。美夜は首をかしげる。
「眠っているということ?」
「…ココロ…が」
 ヒロアキは窓の外を見つめた。
「だから…、血の通わない絵になる。君が綺麗だって言った絵は、硝子細工を誉めるようなものだよ」
 ヒロアキは呟く。
「僕はちゃんと君の絵が描きたい…」
 美夜は口をつぐんだ。
 謝りかけたが、謝罪なんて空虚なものだ。
「どうしたらいいの?」
 美夜は思わずつぶやいていた。
「じゃあ、どうしたらいいの?」
 声を張り上げた。だけど、その問いは自分に帰ってくる。冷たく響いて自分の心に戻ってくる。
 ヒロアキはスケッチブックを美夜に渡した。
「これ、預けるよ。明日も来てくれる?」
「来ないって言ったら?」
「待ってるよ」
「もう、来ない」
 美夜をまっすぐに見つめて、彼は小さな…だけど、強い声で言った。
「…待ってる」
 ヒロアキはそれ以上、何も言わずに美術室を出ていった。取り残された美夜は、スケッチブックをそっと開いた。そこには花がかかれていた。生花の類ではなくて、野生に根付く花。名前も知らない花たちの後に、自分の横顔があった。
 何かを見つめ、瞳に涙を浮かべた自分。
 美夜は、急いでスケッチブックを閉じた。


(生きていない)
 私の瞳は、生きることをやめている。

 やめてしまっている…。


 
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